2話 防衛線、突破される
はじめまして。
この作品は、オフィスを舞台にしたBL小説です。
「悪魔」と呼ばれる上司と、新入り助手の、距離が縮まっていく物語。
甘さの中に少しだけ緊張感のある展開が好きな方に、楽しんでいただけたら嬉しいです。
ゆっくり更新になりますが、よろしくお願いします。
翌朝——。
黒崎蓮の私室のドアには、真っ白な紙が貼られていた。
『立ち入り禁止』
赤いマジックで書かれた四文字は、まるで血文字のように不気味に滲んでいる。
これは「鬼の黒崎」が本気で怒っている時の合図だ。チームの誰もが、それを見れば近づかない。
——はずだった。
「あれ? 黒崎さん、もう来てるんですか?」
廊下の向こうから、場違いなくらい明るい声が響いた。
佐藤陽向。二十二歳の新入社員。
蓮のアシスタントになってまだ三日目の、空気を読まない天然男である。
陽向はドアの張り紙を見て、首を傾げた。
「立ち入り禁止……?」
(……入るな)
(絶対に入るな)
蓮の部屋を通りかかった社員たちは、心の中でそう念じた。だが——
「おはようございまーす!」
カチャ。
——開けた。
陽向は、ためらいなくドアを開けた。
蓮の私室は、社内でも随一の広さを誇るディレクター室だった。
朝の光が大きな窓から差し込み、整えられたデスクと書棚を静かに照らしている。
そして——。
「……何してる」
デスクに突っ伏していた蓮が、ゆっくり顔を上げた。
「あ、おはようございます! 黒崎さん!」
陽向は、嬉しそうに笑った。
蓮は小さく眉を寄せた。
(……昨日のこと、忘れたのか)
昨日。
陽向は突然この部屋に押しかけ、勝手にコーヒーを淹れ始めた。
「勝手に入るな」と怒鳴ったはずなのに。
「見れば分かるだろ」
蓮は低い声で言った。
「立ち入り禁止だ」
「あ、はい。読めます」
「なら、なんで入ってきた」
「コーヒー淹れようと思って」
陽向は悪びれもせず答えた。
「昨日、遅くまで仕事してましたよね。だから朝くらい、ちゃんとしたコーヒー飲めたらいいかなって」
「……余計なお世話だ」
「えへへ。でも淹れますね」
そう言うと、陽向は部屋の隅にあるコーヒーメーカーへ向かった。
蓮は追い出すべきか、一瞬だけ迷った。
立ち入り禁止の札を無視された。
「鬼の黒崎」の威厳に関わる問題だ。
だが。
「フレンチプレス使います? それともサイフォン?」
「……好きにしろ」
蓮は深く息を吐き、再びデスクに伏せた。
(……今日だけだ)
そう思いながらも、不思議と本気で追い出す気にはなれなかった。
——十分後。
「はい、どうぞ!」
陽向が湯気の立つカップを差し出した。
蓮はゆっくり顔を上げる。
カップを見る。
それから、陽向を見る。
「昨日、動画で勉強したんです。淹れ方、変だったらすみません」
陽向は少し不安そうに笑った。
蓮はカップを受け取り、香りを確かめた。
——悪くない。
むしろ、思ったより丁寧だ。
「……まあまあだな」
蓮は視線を逸らしたまま言った。
「よかった!」
陽向の表情がぱっと明るくなる。
その顔を見て、蓮は小さく目を細めた。
(……調子が狂う)
コーヒーを一口飲む。
豆の選び方も、湯温も、抽出も意外と悪くない。
「誰に教わった」
「え? 動画です。『鬼の黒崎に認められるコーヒーの淹れ方』って検索したら色々出てきて」
「……検索したのか」
「はい! 先輩たちにも聞きました!」
(……余計なことを)
蓮は心の中で舌打ちした。
おそらく鈴木美咲あたりが面白がって話したのだろう。
「でも、黒崎さんの好み知れてよかったです!」
「別に、喜んではいない」
「でも、ちょっと嬉しそうでしたよ?」
「気のせいだ」
即答だった。
陽向は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐにまた笑う。
「じゃあ、机の整理も——」
「触るな」
しかし遅かった。
陽向はすでにデスクの書類を覗き込んでいた。
「わ……これ、去年の大賞取った企画書ですよね?」
「……知ってるのか」
「もちろんです! あのCM、僕すごく好きでした」
陽向は目を輝かせながら、次々に書類へ視線を向ける。
「これも黒崎さんが作ったんですか? すごい……」
「勝手に見るな」
蓮は立ち上がり、書類を取り返した。
「お前はアシスタントだ。数字だけ見てろ」
「はい。でも——」
陽向は真っ直ぐ蓮を見た。
「黒崎さんって、なんかかっこいいですね」
「……は?」
「こんなにすごい仕事してるのに、自分から全然話さないし」
陽向の言葉には嫌味も打算もなかった。
ただ、本気でそう思っているようだった。
蓮は一瞬、言葉を失った。
「……黙れ」
ぶっきらぼうに返し、顔を逸らす。
——なんなんだ、こいつ。
心臓が妙に落ち着かなかった。
「あ、そうだ。今日の営業部との打ち合わせ、一緒に行きませんか?」
「断る」
「えー。黒崎さんいると安心するのに」
「……安心?」
「はい。だって、頼りになりますし」
蓮は小さく息を吐いた。
(……この男、本当に遠慮がない)
だが、不思議と嫌ではなかった。
蓮は視線を上げる。
陽向は変わらず、無邪気に笑っていた。
「……分かった」
気づけば、そう口にしていた。
「一緒に行く」
「え、本当ですか!? やった!」
陽向は子供みたいに嬉しそうに笑った。
その時——。
「……おはようございまーす……って、何この空気」
ドアが開き、鈴木美咲が顔を出した。
二十六歳。
チーム所属のデザイナーであり、「鬼の黒崎」に慣れている数少ない人物の一人だ。
美咲は部屋の中を見回した。
黒崎蓮がコーヒーを飲んでいる。
しかも、新人が淹れたらしい。
——ありえない。
「……黒崎さん、コーヒー飲んでるんですか?」
「何か問題か」
「い、いえ!?」
美咲は慌てて首を振った。
(嘘でしょ……この人、他人が淹れたコーヒー飲むんだ……)
しかも。
——怒っていない。
美咲の脳内で警報が鳴った。
この新人、絶対ただ者じゃない。
「あ、鈴木さん! おはようございます!」
陽向はいつも通り笑顔で挨拶した。
「あ……お、おはよう……」
美咲はぎこちなく返事をする。
「じゃあ黒崎さん! 打ち合わせの時間になったら呼んでくださいね!」
そう言って、陽向は軽い足取りで部屋を出ていった。
部屋に沈黙が落ちる。
「……黒崎さん」
「なんだ」
「あの子、何かしたんですか?」
「別に」
蓮は短く答え、コーヒーを口に運ぶ。
美咲はじっと蓮の顔を見た。
——何かが違う。
いつもの氷みたいな空気が、少しだけ柔らかい。
「……今、ちょっと笑いました?」
「気のせいだ」
即答だった。
美咲は数秒黙ったあと、肩をすくめる。
「……まあいいです。今日のスケジュールなんですけど——」
蓮は報告を聞き流しながら、空になったカップを見つめた。
(……うるさい男だ)
そう思う。
なのに。
——悪くなかった。
味も。
そして、あの笑顔も。
その時、再びドアが開いた。
「黒崎さん!」
陽向がひょこっと顔を出す。
「明日もコーヒー淹れますね!」
「……勝手にしろ」
「はい!」
陽向は満足そうに笑い、今度こそ去っていった。
美咲は呆然としている。
「……明日も、ですか?」
「知らん」
蓮は素っ気なく答えた。
だが。
誰にも気づかれない程度に、唇の端が少しだけ緩んでいた。
——その時の蓮は、まだ知らなかった。
この“うるさい新人”が、
自分の毎日を少しずつ変えていくことを。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「悪魔」と呼ばれる彼と、日向の距離が少しずつ縮まっていく過程を、楽しんでいただけたなら嬉しいです。
またいつか、ふたりの続きをお届けできればと思っています。
感想やコメントをいただけると、とても励みになります。
引き続き、よろしくお願いします。




