6
「……で、結局なんであいつを拾ったんです?」
夜も更けた詰所で、副隊長が何気ない調子でそう聞いたのは、つい先日のことだった。
書類整理の合間、隊長が机に突っ伏して仮眠を取る前の、どうでもいい雑談の流れだったと思う。若い隊員が「レオって昔からあんなだったんですか」と興味本位で口を挟み、副隊長が「さて、どうでしたかね」と微笑み、そこで白羽の矢が立ったのが隊長だった。
隊長はしばらく無言で書類をめくっていたが、やがて低く唸るように言った。
「……あれは、三年くらい前だ」
詰所の空気が少しだけ静まる。
「あいつを初めて見たのは、王都の外れにある小さな村だった」
その頃、王都近郊では妙な事件がいくつか続いていた。
魔物の被害にしては不自然に“綺麗”な死体。
盗賊団の壊滅。
魔族崇拝の地下組織が一晩で潰されたという噂。
そして、その現場に共通して残る、子どもの足跡のようなもの。
最初は眉唾だった。
王都の治安が悪化すれば、何にでも尾ひれはつく。化け物じみた冒険者の噂だの、悪魔の落とし子だの、そういう話は珍しくもない。
だが、報告書を精査した副隊長が「妙です」と言った。
「被害の出方に一貫性がありません」 「一貫性?」 「ええ。無差別に見えて、実際には妙に偏っている」
机の上に広げられた地図と資料を指しながら、副隊長は続けた。
「弱い魔物や一般人が無意味に襲われているわけではない。むしろ被害者は、裏で人攫いをしていた者、違法な薬物を流していた者、村単位で搾取を行っていた者……そういう連中に偏っています」 「偶然じゃないのか」 「そう思っていたんですが」
副隊長は一枚の報告書を差し出した。
「生き残りの証言がありました。“笑っていた”そうです」 「……は?」 「太陽みたいな金髪の子どもが、にこにこ笑いながら、楽しそうに皆を壊していた、と」
隊長はそこで初めて顔を上げた。
「ガキか?」 「年齢は不明ですが、少なくとも見た目は若いそうです」 「……ろくでもねぇな」 「ええ。かなり」
その時点で、嫌な予感はしていた。
隊長は経験上知っている。こういう“意味の分からない危険物”は、往々にしてただの賊や魔物より面倒だ。理屈が通じない。善悪では止まらない。野放しにすると被害の規模が読めない。
だから、王命というほど大げさではないにせよ、王直属部隊として調査に入ることになった。
それが、レオとの最初の接点だった。
村に着いたとき、空はひどく晴れていた。
春の終わり。
じりじりと照りつける陽射しが、畑の土を乾かしていた。風はぬるく、のどかな農村の景色だけを見れば、惨劇とはほど遠い場所に思えた。
だが、村の広場に足を踏み入れた瞬間、その印象はひっくり返る。
血の匂い。
焦げた木材。
壊れた荷車。
地面に転がる、武装した男たち。
数は六。全員死んでいた。
剣や槍を持ち、顔には粗暴さが滲んでいる。賊だと一目で分かる連中だった。
ただし、死に方がひどい。
首が折れている者。
腕を逆方向にへし曲げられている者。
腹に風穴が開いている者。
そして、顔面だけが妙に原型を留めないほど潰されている者。
どれも“戦闘の結果”ではある。だが、必要以上だ。
無力化だけならもっと簡単なやり方がある。これは明らかに、壊すことそのものに意味を見出している痕跡だった。
隊長はしゃがみ込み、死体の一つを確認した。
「新しいな」 「ええ。おそらく一時間以内」 副隊長が答える。 「村人は?」 「家の中に避難しています。賊が押し入ったところへ“何か”が現れて返り討ちにした、と」
何か。
そう呼びたくなる気持ちは分かった。
村人たちは怯えきっていた。賊よりも、その賊を壊した“誰か”の方に。
「……まだ近くにいるかもしれませんね」 「だろうな」
隊長が立ち上がった、そのとき。
「わあ」
場違いなくらい明るい声が、頭上から降ってきた。
隊長も副隊長も、反射的に顔を上げる。
広場の端にある大きな木。その太い枝に、誰かが腰掛けていた。
金髪。
白いシャツ。
陽射しを弾くような、明るい色の瞳。
年の頃は十代前半か、少なくとも大人ではない。整った顔立ちで、汚れた村の景色の中にいるのがひどく不釣り合いだった。
少年は枝の上から、面白いものを見つけたみたいに目を輝かせていた。
「すごい。ほんとに強い人だ」
笑っている。
屈託なく、まぶしいくらいに。
その瞬間、隊長の背筋に悪寒が走った。
本能が告げていた。
こいつだ、と。
「降りてこい」 隊長が低く言う。 「えー、なんで?」 「話がある」 「やだ」 「やだじゃねぇ」
少年は枝の上で足をぶらぶらさせた。
地面に転がる死体をちらりと見て、また隊長を見る。
「それ、君がやったの?」 隊長が問う。 「うん」
あっさり認めた。
「だってさ、あいつら、つまんなかったんだもん」 「……つまらない?」 「弱いし、すぐ泣くし、なのに偉そうだし。人の家に勝手に入って、おばあちゃん殴るし、子ども蹴るし。だからムカついた」
声は明るい。
怒りを吐き出すような熱はない。もっと軽い。
“気に入らなかったから壊した”とでも言うような、あまりに平坦な調子。
「でも途中で飽きた。だってすぐ壊れるんだもん」
隊長は目を細めた。
副隊長が一歩前に出る。
「君、名前は?」 「ないよ」 「ない?」 「呼ばれたことないし」
少年はけろっと答えた。
その返答に、隊長はほんの一瞬だけ眉を寄せる。
名前がない。
冗談か、比喩か、それとも本当にそうなのか。
「家族は」 「知らない。いるんじゃない?」 「……は?」 「僕のこと捨てた人たちなら、どっかに」
さらりと言って、少年は笑った。
その笑顔には翳りがない。だからこそ不気味だった。
傷ついた子どもの顔ではない。
捨てられたことに怒る顔でも、悲しむ顔でもない。
本当に、どうでもよさそうだった。
「君、今いくつです?」 副隊長が穏やかな声で尋ねる。 「さあ」 「覚えていない?」 「数えてないし」 「……」
副隊長が言葉を失う。
隊長はそこで確信した。
これは駄目なやつだ。
しかもかなり重症の部類だ。
賊を殺したこと自体は問題じゃない。村を守ったと言ってしまえば、それまでだ。
だが、その過程と、その態度がまずい。
人を壊すことに躊躇がない。
善悪ではなく、快不快で動く。
弱いものには興味が薄いくせに、子どもや老人には妙に気まぐれな好意を向ける。
そして何より、自分の命を含めて、あらゆるものへの執着が薄すぎる。
こういう手合いは、放っておくと本当にどこへ転ぶか分からない。
「お前」 隊長は少年を見上げた。 「そのまま野放しにはできん。来い」 「やだ」
即答だった。
「なんで?」 「面倒だからだ」 「正直だね」 「お前もな」
少年は枝の上で膝を抱えた。
風が吹いて、金の髪が揺れる。まるで本当に陽だまりみたいな見た目をしているくせに、中身は底の見えない穴みたいだ。
「どこ連れてくの」 「王都」 「えー、遠い」 「知るか」 「やだなぁ。僕、気ままにしてたい」 「気ままにした結果がこれか」 隊長は足元の死体を顎で示した。 「そうだよ」 「胸張って言うな」
少年はくすくす笑う。
その笑い方に、隊長は妙な既視感を覚えた。年相応の子どもの無邪気さに似ているのに、何か決定的に違う。
「ねえ、君、強いんでしょ」 「だったらなんだ」 「僕のこと殺せる?」
副隊長が息を呑む気配がした。
あまりにも自然な口調だった。
“今日の夕飯なに?”と同じ温度で投げられた問いに、隊長は一瞬だけ目を見開く。
少年は本気で興味本位だった。
死にたいわけでも、挑発したいわけでもない。
ただ、気になったから聞いた。それだけ。
「殺せるかもね」 「……お前な」 「だってさ、僕、今まで会った人の中で一番強そうだし。もし君が殺せるなら、結構おもしろいかなって」
その言葉で、隊長の中の何かが切れた。
次の瞬間には、隊長は木の幹を蹴っていた。
地面が爆ぜる。体が一気に跳ね上がり、枝の上の少年へ肉薄する。
「うわっ」
少年が反応するより早く、隊長はその襟首を掴んで枝から引きずり下ろした。
軽い。驚くほど軽い。鍛えていないわけではないが、食事も睡眠もろくに取っていない身体だとすぐに分かった。
そのまま地面へ叩きつける――寸前で、少年が身を捻る。
体勢を崩しながらも、信じられない柔軟さで隊長の腕をすり抜けた。
着地。
土煙。
そして次の瞬間には、少年の蹴りが隊長の脇腹を狙って飛んでくる。
速い。
だが、隊長の方が上だった。
腕で受け、掴み、逆に引く。体格差を利用してそのまま地面へ転がそうとするが、少年は途中で手をついてくるりと回転し、猫みたいに距離を取る。
数歩の間合い。
向かい合う。
少年の目が、きらきらと輝いていた。
「すごい!」 「嬉しくねぇな」 「ほんとに強い!」
頬が上気している。
息も少し上がっているが、恐怖は一切ない。むしろ楽しくて仕方ない顔だった。
「ねえ、もう一回」 「断る」 「えー」 「お前をボコるのが目的じゃねぇ」 「じゃあ何」 「連れて帰る」
少年は露骨に嫌そうな顔をした。
それが年相応っぽく見えてしまうのが、逆に腹立たしい。
「やだって言ってるじゃん」 「聞いてねぇ」 「横暴」 「知ってる」
隊長が踏み込む。
少年も迎え撃つ。今度は最初から本気だった。
短剣が閃く。いつ抜いたのか分からないほど自然な動作で、少年は袖の中から刃を滑らせていた。
それを隊長が弾く。
回し蹴り。肘打ち。目潰しめいた砂の蹴り上げ。躊躇のない急所狙い。
戦い方が汚い。
正規の訓練を受けた剣士のそれではなく、路地裏で生き延びるために身につけた獣の戦法だ。型がない。だから読みにくい。
それでいて、筋は悪くない。むしろ異様にいい。身体能力も、反応も、殺意の向け方も、年齢を考えれば異常だった。
「っ、はは!」
少年が笑う。
殴られ、転がり、土にまみれながら、それでも笑っていた。
「ねえ、もっと!」 「黙れ!」 「楽しい!」
拳が飛ぶ。
隊長の拳が、少年の頬をまともに捉えた。小さな体が吹っ飛び、地面を二度転がる。
普通の子どもならそこで泣く。
立ち上がれなくてもおかしくない。
だが少年は、口の端から血を垂らしながら、ゆっくり起き上がった。
その目が、初めてほんの少しだけ変わる。
楽しそうなだけではない。
もっと深いところで、何かを見つけたみたいな顔だった。
「……ああ」
ぽつりと、少年が呟く。
「君、面白いな」
その声は不思議と静かだった。
隊長は眉をひそめる。
少年は腫れた頬を気にもせず、血を拭いもしないまま、じっと隊長を見つめていた。
「今までのやつら、みんな僕のこと見て、気持ち悪いとか、怖いとか、化け物とか、そういう顔した」 「……」 「君も思ってるでしょ」 「ああ」 「なのに、逃げないんだ」
当たり前だ、と隊長は思った。
逃げる理由がない。相手が危険物なら、なおさら目を離すわけにいかない。
だが少年にはそれが珍しかったらしい。
「しかも、怒ってる」 「そりゃ怒る」 「僕に?」 「お前みたいなガキが“殺せる?”なんて聞いてきたら怒るに決まってんだろうが」
その言葉に、少年は目を丸くした。
本当に意外そうだった。
「……そこ?」 「そこだよ」 「変なの」 「うるせぇ」
隊長は吐き捨てる。
だが、そのときにはもう分かっていた。
この少年は、たぶん今までまともに怒られたことがない。
恐れられるか、利用されるか、捨てられるか、そのどれかだったのだろう。だから“危ないから”ではなく、“そんなことを言うな”と怒る人間がいること自体が、妙に新鮮なのだ。
副隊長が慎重に口を挟んだ。
「君」 「なに」 「ひとまず治療を受けましょう。顔、腫れています」 「別にいいよ」 「よくありません」 「痛くないし」 「そういう問題では……」
そこで、隊長が割って入る。
「お前、腹減ってるか」 「は?」 少年が瞬いた。 「……まあ、減ってる」 「じゃあ飯だ」 「なんで?」 「話はそのあとだ」 「僕、行くって言ってないけど」 「知るか。連行だ」
隊長はそう言って、少年の腕を掴んだ。
細い。折れそうなくらい細いくせに、筋肉はちゃんとついている。生き延びるためだけに作られた体だ。
少年は少しだけ抵抗した。
だが、本気ではない。振り払えないと分かっているのか、それとも単に様子を見ているのか。
「……ねえ」 「なんだ」 「君、名前は?」 「は?」 「だって僕、王都に連れてかれるなら、連れてく人の名前くらい知っときたい」
隊長は少しだけ黙った。
その問い方に、妙な引っかかりを覚えたからだ。
連れてかれる前提で話している。
さっきまで嫌がっていたくせに、どこかで既に折り合いをつけ始めている声だった。
「……隊長でいい」 「なにそれ」 「みんなそう呼ぶ」 「変なの」 「お前にだけは言われたくねぇよ」
少年がまた笑う。
その笑い方は、さっきまでのきらきらした無邪気さと少し違った。もう少しだけ、落ち着いている。観察するみたいな、試すみたいな笑い方。
「じゃあ隊長」 「なんだ」 「僕、逃げるかもしれないよ」 「逃がさねぇ」 「人も殺すかもしれない」 「やる前に止める」 「すっごく面倒だよ」 「見りゃ分かる」 「それでも連れてくの?」
隊長は立ち止まり、少年を振り返った。
陽射しの下で、少年は真っ直ぐこちらを見ている。
試しているのだろう。どこまで本気か、どこまで受け止めるのか。
隊長は鼻で笑った。
「放っといた方がもっと面倒だからだ」 「……」
少年が、目を瞬かせる。
「お前みたいな危険物をその辺に転がしておけるか。国が迷惑する」 「国益なんだ」 「そうだよ」 「優しくないね」 「慈善事業じゃねぇんだ」 「ふふ」
少年は吹き出した。
心底おかしそうに。
「やっぱり君、面白い」
それが、たぶん最初だった。
レオが隊長を“面白い”と判定したのは。
好意でも信頼でもない。
もっと気まぐれで、もっと危うい、怪物なりの興味。
でも、その時点で既に、他の人間とは違う場所に隊長を置いていたのだ。
王都へ連れ帰る道中、少年は驚くほど大人しかった。
逃げる気配はある。
隙があればいくらでも逃げられそうな足取りをしている。
だが実際には逃げない。
代わりに、どうでもいいことをやたら聞いてきた。
「隊長って何歳?」 「教えん」 「好きな食べ物は?」 「なんで聞く」 「参考までに」 「何のだ」 「さあ」 「腹立つな……」
「君、結婚してる?」 「してねぇ」 「へえ、モテなさそう」 「初対面の相手に言うことか」 「だって怖いし口悪いし筋肉だるまだし」 「お前ほんと一回黙れ」
副隊長はその様子を少し離れたところから眺めて、珍しく目を丸くしていた。
「……隊長」 「なんだ」 「彼、あなたに対して随分口が軽いですね」 「うるせぇ」 「初対面ですよね?」 「俺に聞くな」
実際、妙だった。
少年は他人に対して基本的に関心が薄い。村人が礼を言っても「ふーん」で終わり、兵士が事情を聞こうとしても笑ってはぐらかし、馬車を手配した商人には一言も礼を言わない。
そのくせ、隊長にだけは妙に話しかける。
質問の内容はくだらない。
好きな食べ物、嫌いな酒、寝起きの機嫌、剣の流派、喧嘩の勝率。
どうでもいいことばかりだ。だが、そのどうでもよさが逆に気味悪かった。
「なんでそんなに聞くんです?」 副隊長がとうとう本人に尋ねた。 「うーん」
少年は少し考えて、にこっと笑う。
「だって面白いから」
隊長は顔をしかめた。
副隊長は「ああ、そうですか」とだけ返したが、その目は明らかに警戒していた。
面白い。
その一言で片づけるには、少年の興味は少し粘ついている。
獲物を観察する猫みたいでもあり、新しい玩具を手に入れた子どもみたいでもある。どちらにせよ、健全ではない。
だが、その時の隊長はまだ知らなかった。
この“面白い”が、後に
背中へ飛びつき、机に飴を置き、勝手に見張りをし、
「人間の中だと一番好き」とかいう厄介な感情にまで育つことを。
王都に着いてからの数日は、当然ながら地獄だった。
身元不明。
年齢不詳。
名前なし。
素行最悪。
戦闘能力だけが異様に高い危険人物。
そんなものを王直属部隊が拾ってきたとなれば、各所が黙っているはずもない。
王城の文官は顔をしかめ、騎士団は露骨に警戒し、医務室の連中は「子どもを何だと思ってるんですか」と隊長を怒鳴りつけながら少年の怪我と栄養状態を診た。
結果、判明したのは「慢性的な栄養不足」「睡眠不足」「古傷多数」「でも本人は頑丈」という、あまり嬉しくない情報ばかりだった。
「名前はどうするんです」 副隊長が訊く。 「本人がないって言うなら、仮でも必要だろ」 「そうですね」
そのとき、窓辺に座っていた少年がひらひらと手を挙げた。
「じゃあ、レオがいい」 「なんで」 「昔、おばあちゃんがそう呼んでた気がする」 「気がする?」 「うん。たぶん」
曖昧すぎる。
だが、本人がそれでいいなら、もうそれでよかった。
こうして、名前のない危険物は“レオ”になった。
もっとも、名前がついたところで中身は何も変わらない。
逃走未遂は初日に三回。
食堂の窓から飛び降りようとして見張りと揉め、夜中に訓練場へ忍び込み、勝手に武器庫を覗いて副隊長に確保される。
「お前なあ!!」 隊長が怒鳴ると、レオはけろっと答えた。 「だって暇だった」 「暇なら寝ろ!」 「眠くなかった」 「じゃあ本読め!」 「字あんまり読めない」 「なんでだよ!」 「習ってないし」
そこで隊長は絶句した。
読み書きもろくにできない。
礼儀も常識も穴だらけ。
そのくせ人を殺すのだけは妙に上手い。
本当に、どんな環境で生きてきたのか想像もつかない。
だが、そんなレオが唯一、最初から変わらずやっていたことがある。
隊長を見つけると、必ず近くへ来るのだ。
最初はただ、数歩離れた場所に立って見ているだけだった。
壁に寄りかかって、じっと観察する。
隊長が剣を磨いていれば横から覗き込み、書類を読んでいれば「それ面白い?」と訊き、食堂では勝手に向かいへ座る。
話しかける回数も、他の人間に比べて圧倒的に多かった。
「隊長、何してるの」 「見りゃ分かるだろ、報告書だ」 「楽しい?」 「楽しいわけあるか」 「じゃあなんでそんな仕事してるの」 「仕事だからだよ」 「つまんなそ」 「うるせぇ」
「隊長、それ何食べてるの」 「シチュー」 「一口ちょうだい」 「やらん」 「けち」 「お前の分はそっちにあるだろ」 「でも隊長の方が美味しそう」 「同じ鍋からよそってんだよ!」
「隊長」 「なんだ」 「僕、昨日人を殺す夢見た」 「朝飯時に言うな」 「でも夢だからセーフ」 「基準が終わってんだよ」
全然懐いてはいない。
少なくとも、当時の隊長はそう思っていた。
こいつはただ、珍しい玩具に興味を持っているだけだ、と。
自分が一番反応を返すから、面白がって寄ってきているだけだ、と。
それは半分正しかったし、半分間違っていた。
レオにとって隊長は、最初から少しだけ特別だった。
怖がらない。逃げない。怒る。殴る。飯を食わせる。怪我をしたら治療室へ放り込む。勝手に死にそうなことを言うと本気で眉をひそめる。
そんな人間は、それまで一人もいなかったのだ。
だから、まだ“好き”なんて名前のつかない時期から、レオはずっと隊長の近くにいた。
本人も気づかないままに。
「……って感じだ」
隊長が話を締めると、詰所の空気はしばらく静まり返っていた。
若い隊員がぽかんと口を開ける。
副隊長は腕を組み、どこか納得したように目を伏せた。
「なるほど……」 「思った以上に最初からでしたね」 「“面白い”判定が早い」 「というか、隊長、よく連れて帰りましたね……」 「だから言ってんだろ。放っといた方が面倒だったんだよ」
隊長が吐き捨てると、そこで詰所の扉が開いた。
「ただいまー」
聞き慣れた明るい声。
レオだ。
学院帰りなのか、制服姿のまま詰所に顔を出した彼は、部屋の中の微妙な空気に気づいて首を傾げた。
「なに? 僕の話してた?」 「してねぇ」 隊長が即答する。 「した顔だ」 「してない」 「ふーん」
レオはにこっと笑うと、迷いなく隊長の机の横へ来た。
そして当然のように、その椅子の背に体重を預ける。
若い隊員たちが一斉に生温かい目を向ける。
副隊長は無言で眼鏡を押し上げた。
「隊長」 「なんだ」 「今日ね、商店街のおばあちゃんに焼き菓子もらった」 「またか」 「隊長の分もある」 「……なんで俺の分まで」 「好きそうだから」 「誰が」 「おばあちゃんが」
言いながら、レオは包みを机に置く。
あまりにも自然な動作に、隊員たちの視線がさらに生温かくなった。
隊長は頭痛を覚えながら、その包みを見下ろした。
三年前、木の上で笑っていた危険物は、今ではこうして当然のように自分の机へ焼き菓子を置く。
面白いから近くにいた少年は、いつの間にか、もっと厄介な理由で近くに居座るようになった。
「……お前」 「なに?」 「今でも俺のこと、面白いと思ってんのか」 「うん?」
レオはきょとんとしてから、すぐに笑った。
「思ってるよ」
まるで当たり前みたいに。
「一番面白いし、一番好き」
詰所の若い隊員が吹き出した。
副隊長がとうとう咳払いで誤魔化した。
隊長は机に突っ伏したくなった。
三年前の自分に言ってやりたい。
その危険物、回収したら最後だぞ、と。
絶対に面倒なことになるぞ、と。
だが、まあ。
あの日、村の広場で笑っていたあの子どもを、放っておけたかと言われれば。
たぶん、今でも答えは同じなのだろう。
面倒で、危険で、どうしようもなく歪んでいて。
それでも、放っておくにはあまりに幼くて、あまりに危うかった。
だから拾った。
結果として、今こうして懐かれた。
……完全に、想定以上に。
「隊長?」 「なんだ」 「焼き菓子、食べないの?」 「食う」 「やった」
嬉しそうに笑うレオを見て、隊長は深くため息をついた。
ほんと、面倒くさい。
けれど、その面倒くささごと、もう手放す気はないのだと思い知らされる。
三年前、木の上でこちらを見下ろしていたあの怪物は。
今ではすっかり、隊長の隣が定位置になってしまっていた。




