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人魚のあなたに恋をした  作者: 月白


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第五話 鯨の声

私はしばらく、鯨が沈んでいった海面を見つめていた。


そこにはもう、巨大な姿はない。


ゆらゆらと揺れる青い海が、どこまでも続いているだけだった。


「......行っちゃった」


ぽつりと呟く。


少しだけ、残念に思っている自分がそこにいた。


あれほど大きな生き物を目の前にして怖がっていたというのに、

いなくなってしまうと途端に心細くなる。


静かだなぁ。


鳥の姿すらない。


船もない。


島もない。


見えるのは空と海だけ。


そう思うと、たった今まで近くにいた鯨でさえ、

自分以外の生き物がいるというだけで安心できる存在だったのかもしれない。


「......また来たりするのかな」


自分でも何を期待しているのかわからないまま、海を覗き込む。


深い青。


その下に何がいるのかなんて、まるで見えない。


さっきの鯨だって、このすぐ下を泳いでいるのかもしれない。


そう考えた瞬間、背筋がぞくりとした。


慌てて私は小舟の中央へ戻る。


「やっぱり......来なくてもいいかも」


小さく呟いて、膝を抱えた。


照りつける日差しは相変わらず強かった。


額から流れた汗が頬を伝う。


喉も渇いている。


「今日中には、きっと......」


大丈夫。


きっと、もう少し。


そう思っているのに。


時間が経てば経つほど、その言葉を自分に言い聞かせているようだった。


「大丈夫......」


口に出してみる。


けれど、声は思っていたより小さかった。


そのとき。


ーーォォォォォ......。


「......!」


私は勢いよく顔を上げた。


まただ。


低く、長い声。


身体の奥まで震わせるような、不思議な響き。


さっき聞いた鯨の声だった。


私は辺りを見回す。


「どこ......?」


何も見えない。


けれど、確かに声は聞こえた。


しかも今度は、さっきより近い気がする。


ーーォォォォォ......。


再び響く。


胸の奥がざわついた。


やっぱり。


何かを伝えようとしているように聞こえる。


「......私に言ってるの?」


思わずそんな言葉がこぼれる。


当然、返事はない。


ただ静かな波音だけが、小舟の側面を叩いている。


「そんなわけないわよね......」


鯨と話ができるわけでもない。


話ができたらよかったのに。


そうしたら、この海のことも聞けたのだろうか。


島はどこにあるのか。


私はちゃんと、そこへ向かっているのか。


そんなことを考えていた、その時だった。


少し離れた海面が、不自然に盛り上がった。


「え......」


ざあっ、と水が流れ落ちる。


黒く巨大な背中が、ゆっくりと海面へ姿を現した。


「また......!」


さっきの鯨だ。


あれほど大きな生き物が何頭も近くにいるとは思えない。


鯨はゆったりと泳いでいる。


けれどーー。


「近くない......?」


さっきより、明らかに距離が近い。


私は小舟の縁を掴んだ。


鯨が身体を動かすたび、海面が大きくうねる。


その波が小舟へ届き、船体がぐらりと傾いた。


「きゃっ......!」


慌てて身体を低くする。


荷物が少し滑り、私は咄嗟に水筒を押さえた。


「だ、大丈夫......」


このくらいなら。


そう思った直後。


鯨が再び海へ潜った。


巨大な尾びれが持ち上がる。


水滴が日の光を受けて、きらきらと輝いた。


綺麗。


ほんの一瞬、そう思った。


次の瞬間。


尾びれが海面へ叩きつけられた。


ーードンッ!


「......っ!」


大量の水が跳ね上がる。


そして、その向こうから大きな波が押し寄せてきた。


「え......ちょっと......」


私は目を見開いた。


さっきまでの小さな波とは違う。


海面そのものが盛り上がっている。


「待って......!」


逃げる場所なんてない。


ただ縁を掴み、身を伏せることしかできなかった。


「お願い......!」


波が迫る。


小舟の先端が大きく持ち上がった。


「きゃあっ!」


身体が後ろへ投げ出されそうになる。


必死に縁へしがみつく。


波を越える。


そう思った。


けれど。


その後ろから、さらに大きなうねりが来ていた。


「うそ......」


小舟が横を向き、傾く。


「いや......!」


荷物が滑った。


袋が一つ、海へ落ちる。


「あっ......!」


手を伸ばす。


届かない。


次の瞬間、波が小舟の横からまともにぶつかった。


大量の海水が流れ込む。


「きゃああっ!」


冷たい。


さっきまであれほど暑かったはずなのに、海水は身体から一気に熱を奪った。


水筒が足元を転がっていく。


「待って......!」


これだけは、なくしてはいけない。


咄嗟に手を伸ばした、その瞬間。


ぐらり。


「......えっ」


世界が傾いた。


空が横へ流れる。


海が目の前へ迫る。


何が起きたのかわからなかった。


ただ、小舟の縁から身体が離れていく感覚だけがあった。


「いやーー!」


次の瞬間。


身体が海へ落ちた。


ばしゃん、と大きな音がした。


冷たい水が全身を包む。


「ーーっ!」


息ができない。


口を開いた瞬間、塩辛い水が入り込んだ。


苦しい。


私は必死に手足を動かした。


けれど、身体は思うように浮かばない。


落ち着いて。


冷静にならないと。


頭ではそう思うのに、身体は言うことを聞いてくれなかった。


泡が目の前を上っていく。


それを追いかけるように手を伸ばす。


ようやく顔が水面へ出た。


「はっ......!げほっ......!」


「たす......け......」


声にならない。


波が顔へ当たり、また水を飲む。


少し離れたところに、ひっくり返った小舟が見えた。


「あ......」


あそこまで行かなきゃ。


私は腕を動かした。


けれど、泳いだことなどほとんどない。


服が水を吸い、身体へまとわりつく。


足が重い。


「いや......」


怖い。


底が見えない。


足の下には、何もない。


どれだけ深いのかもわからない海が広がっている。


「誰か......!」


叫んだ。


当然、返事はない。


波の音だけが響く。


涙なのか海水なのかもわからないものが頬を流れる。


腕に力が入らなくなってきた。


もう一度、水面の下へ沈む。


必死に浮かぼうとする。


けれど、今度は身体が上がらない。


光が遠ざかっていく。


海の中は、思っていたより静かだった。


聞こえてくるのは自分の鼓動の音だけ。


青い世界。


その中を、細やかな泡だけがゆっくりと昇っていく。


苦しい。


怖い。


死にたくない。


そう思っているのに。


身体はもう、動かなかった。


視界がぼやけていく。


そのときだった。


遠くで、何かが動いた。


鯨よりずっと小さい。


けれど、魚とは違う。


こちらへ向かってくる。


青い何か。


光の中で、揺れるように見えた。


人......?


そう思ったところで。


私の意識は、海の底へ沈むように途切れた。

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