第六話 夜に現れる男
パチッ......パチッ......。
何かが弾けるような音がする。
暖かい。
それに、なんだかいい香り......。
「ん......」
ゆっくりと目を開ける。
ぼんやりとした視界の向こうで、赤い炎が揺れていた。
焚き火だ。
そのすぐそばには、串に刺された魚が何匹か並べられ、
火に炙られている。
「......え?」
どうして、こんなところに――。
そこまで考えた瞬間、記憶が一気に蘇った。
鯨。
大きな波。
ひっくり返った小舟。
息のできない海の中。
そして――。
「......っ!」
私は勢いよく身体を起こした。
その瞬間、頭の奥にズキンと鋭い痛みが走る。
「いたっ......」
思わず額を押さえた。
「まだ寝ていた方がいい」
突然、後ろから声がした。
「えっ......?」
驚いて振り返る。
そこに、一人の男がいた。
焚き火の明かりに照らされた、綺麗な青い髪。
整った顔立ち。
そして、炎の色さえ映さないような、澄んだ青い瞳。
「......誰?」
思わず、そう口にしたまま見つめてしまった。
こんな人、見たことがない。
エルディアでも、船の上でも。
それどころか――今まで出会った誰とも違う。
綺麗な青い髪も、澄んだ青い瞳も。
なぜだろう。
目が離せなかった。
「......」
彼は何も言わず、ふいに顔を背けた。
「あっ......ご、ごめんなさい」
見つめすぎてしまった。
そう気づいて、私も慌てて視線を逸らす。
気まずい沈黙の中、焚き火の弾ける音だけが響いた。
そうだ。
それよりもーー。
「あの......」
私はもう一度、彼を見る。
「あなたが、助けてくれたんですよね?」
彼は少し間を置いてから、小さく頷いた。
やっぱり。
海の中で最後に見えたもの。
こちらへ向かってきていた、青い何か。
あれはきっと、この人だったんだ。
「本当に、ありが――」
頭を下げようとした瞬間。
「......っ」
また頭が痛んだ。
「だから、まだ寝ていた方がいい」
少し呆れたような声だった。
彼は傍らに置いていた小さな器を手に取ると、私の前へ差し出した。
「......これは?」
中を覗き込む。
緑色の、よく分からない液体が入っている。
少なくとも、美味しそうには見えない。
「飲んで寝るといい」
「これを......?」
彼は頷くだけだった。
私はもう一度、器の中を見る。
見ず知らずの人から渡された、正体の分からないもの。
普段なら絶対に口にしない。
けれど――。
この人が助けてくれなければ、私は今ここにはいなかった。
それに、私を殺すつもりなら、わざわざ海から助ける必要なんてないはずだ。
「......ありがとう」
器を受け取り、恐る恐る一口啜る。
「......っ!」
苦い。
思っていた以上に苦い。
思わず顔をしかめると、彼がこちらを見た。
「......全部」
「えっ」
「全部飲んだ方がいい」
「............」
私は器の中に残った緑色の液体を見る。
正直、もう一口だって飲みたくない。
けれど、助けてもらった手前、嫌だとも言いづらい。
覚悟を決めて、一気に飲み干した。
「に、苦い......」
思わず呟く。
彼は何も言わなかった。
けれど、ほんの少しだけ口元が動いたような気がした。
......笑った?
そう思って見つめると、すぐに顔を背けられてしまった。
「......寝ろ」
「え?」
「身体が休みたがっている」
言われてみれば、確かに身体が重い。
海に投げ出された時の疲れが、まだ残っているのだろう。
私は言われるまま、再び横になった。
暖かな焚き火の音。
波の音。
誰かが近くにいるという安心感。
さっきまで話していた彼に聞きたいことは、たくさんあった。
ここはどこなのか。
どうやって私を見つけたのか。
この島には人が住んでいるのか。
それから――あなたは誰なのか。
けれど。
それを聞くより先に、私の意識は眠りへ落ちていった。
――――――――――
カァ、カァ――。
遠くから聞こえる鳴き声に、目を覚ました。
「......ん」
眩しい。
目を細めながら身体を起こす。
頭上では、白い鳥が何羽か空を飛んでいた。
「朝......?」
海の向こうから昇った太陽が、水面をきらきらと照らしている。
私は額に手を当てた。
「......痛くない」
昨日まであった頭の痛みが、嘘のように消えていた。
あの苦い薬のおかげなのだろうか。
そこで、ふと思い出す。
「......あの人は?」
辺りを見回す。
けれど、昨日の男の姿はどこにもなかった。
「......夢だったのかな」
あまりにも不思議な人だったから、そんなことまで考えてしまう。
けれど、焚き火の跡へ視線を向けた時だった。
「......あ」
そこには、大きな葉に包まれた何かと、ヤシの実が置かれていた。
近づいて包みを開いてみる。
中には、焼いた魚と、いくつかの木の実。
ヤシの実にも、飲めるように穴が開けられている。
「もしかして......私のために?」
やっぱり、夢じゃなかった。
辺りを見回してみるけれど、彼の姿はない。
「......どこに行ったんだろう」
食べていいものなのだろうか。
もし彼の分だったら。
勝手に食べて、戻ってきた時に怒られたりしないだろうか。
しばらく迷ってから、もう一度包みを見る。
「......でも、このままにしておくのも勿体ないわよね」
お腹も空いている。
私はありがたく頂くことにした。
魚は、昨日の夜に焚き火で焼かれていたものだろう。
味付けらしい味付けはされていなかったけれど、空腹だった私には十分すぎるほど美味しかった。
ヤシの実の中の水も、渇いた喉に心地よかった。
小舟の上で、水筒の残りを気にしながら少しずつ水を飲んでいたことを思い出す。
あの時とは違う。
食べ物もある。
水もある。
それに、私以外の人もいる。
そう思うだけで、不思議と心が軽くなった。
――――――――――
お腹も満たせたことだし、辺りを見てみよう。
木の実も、この辺りで採れるものなのかもしれない。
それに、彼もどこかにいるはずだ。
あの人がここで暮らしているのなら、家だってあるだろう。
もしかしたら、他にも人が住んでいるのかもしれない。
私は残っていたヤシの実を持って立ち上がった。
「まずは......そうね。海岸沿いを歩いてみようかしら」
自分がいた場所を見失わないように、海を右手に見ながら歩き始める。
砂浜のすぐそばには、透き通った海が広がっていた。
浅瀬には色鮮やかな珊瑚があり、その間を小さな魚たちが泳いでいる。
「綺麗......」
思わず足を止めた。
小舟の上から見ていた海とは、まるで違う。
あの時は、どこまでも続く海が怖かった。
底の見えない水の下に、何がいるのか分からなくて。
今だって、深い場所まで行きたいとは思わない。
けれど、ここから見る海は――。
「こんなに綺麗だったのね......」
波が足元まで届きそうになると、反射的に一歩下がった。
胸が少しだけ早くなる。
小舟に乗る前なら、こんな小さな波を怖いとは思わなかったかもしれない。
私はしばらく海を見つめてから、また歩き始めた。
彼に会ったら、ちゃんとお礼を言わないと。
昨日は、ほとんど何も聞けなかった。
名前すら知らない。
歩きながら、時折森の方へ視線を向ける。
けれど、人の姿はない。
家もない。
煙も見えない。
それでも私は歩き続けた。
しばらくして。
前方に、見覚えのあるものが見えてきた。
「あれ......?」
足を速める。
黒くなった焚き火の跡。
そして、私が目を覚ました場所。
「......戻ってきちゃった」
どうやら、島を一周してしまったらしい。
私は来た方向を振り返った。
「ということは......この島、そんなに大きくないのね」
海岸沿いを歩いて一周できるくらいなのだから、
少なくとも果てしなく広い場所ではない。
それが分かっただけでも少し安心した。
「だったら、あの人は島の真ん中にいるのかしら」
森の奥へ視線を向ける。
木々が生い茂り、その先はここからでは見えない。
今から入っていくのは、少し怖い。
「......残りは明日にしましょ」
口にしてから、ふと気づいた。
さっきから私は、やけに独り言が多い。
「............」
誰も答えてくれない。
波の音だけが返ってくる。
小舟にいた時もそうだった。
一人でいると、静かすぎるのだ。
だからきっと、無意識に声を出してしまう。
「......早く戻ってこないかな」
小さく呟いた。
――――――――――
それから、どれくらい経っただろう。
太陽が少しずつ傾いていく。
私は焚き火の跡の近くに座り、膝を抱えていた。
結局、彼は戻ってこなかった。
「どこまで行ったのよ......」
もちろん、彼がどこへ行こうと彼の自由だ。
私は助けてもらった側なのだから、文句を言える立場でもない。
それでも。
知らない島。
知らない海。
誰もいない砂浜。
だんだんと空が赤く染まっていくのを見ていると、不安になってくる。
昨夜は何も考えなかった。
目を覚ました時には焚き火があって。
すぐ近くには、あの人がいたから。
でも今日は――。
「......火」
焚き火の跡を見る。
どうやってつければいいのだろう。
屋敷では、火を起こすことは使用人がやっていた。
船でもそうだ。
私は、自分一人では火の起こし方すら知らない。
食べ物だって。
朝に残してくれたものを食べただけで、自分では何一つ見つけていない。
急に、自分が何もできない人間のように思えてきた。
「......私、本当に何も知らないのね」
父の言う通りにしていれば、知らなくても困らなかったことばかりだ。
食事も。
火も。
水も。
どこへ行くかさえ。
全部、誰かが用意してくれていた。
それが当たり前だった。
けれど今は――。
波が寄せては返す。
空を染めていた赤色も、少しずつ消えていく。
やがて太陽は完全に沈み、辺りは暗闇に包まれた。
「............」
怖い。
昨日とは違う意味で。
このまま、誰も来なかったら。
そう考えた時だった。
「何してる」
「きゃっ!」
突然背後から声がして、私は飛び上がった。
振り返る。
そこにいたのは――。
「......!」
青い髪。
青い瞳。
昨日の男だった。
「あなた......!」
思わず立ち上がる。
胸の奥にあった不安が、一気にほどけていく。
「どこに行ってたの!?」
言ってから、しまったと思った。
まるで、ずっと帰りを待っていたみたいだ。
彼も少し驚いたように私を見る。
「......どこって」
「い、いえ!違うの。別に責めているわけではなくて......!」
慌てて手を振る。
「朝起きたらいなかったから、その......ちゃんとお礼も言えていなかったし」
「......そう」
相変わらず、あまり喋らない人だ。
でも、なぜだろう。
昨日よりも、彼がここにいることに安心している自分がいた。
「あの」
私は彼に向き直った。
「昨日は、あなたが助けてくれなかったら、私......」
海の中の記憶が蘇り、言葉が止まる。
苦しかった。
怖かった。
死ぬと思った。
彼は何も言わず、ただ私を見ていた。
私は小さく息を吐いてから、頭を下げる。
「......本当に、ありがとう」
「別に」
「別にって......命を助けてもらったのよ?」
「生きてるなら、それでいい」
「......」
不思議な人。
それだけのことをしたのに、何でもないことのように言う。
「あ」
そうだ。
一番大事なことを聞いていない。
「私、セシリア」
彼がこちらを見る。
「セシリア・アーヴェルよ」
そう名乗ってから、彼の返事を待つ。
けれど。
「......」
何も言わない。
「......あなたは?」
彼は少しだけ視線を逸らした。
まるで、名前を教えることすら迷っているように見えた。
「ねえ」
もう一度尋ねる。
「名前くらい、教えてくれてもいいでしょう?」
しばらくの沈黙。
波の音が聞こえる。
雲間から月が辺りを照らし出した頃。
ようやく彼は口を開いた。
「......リュカ」
「リュカ......」
その名前を、確かめるように繰り返す。
彼――リュカは、少しだけ目を細めた。
「そう」
「リュカね」
私はもう一度、その名前を口にした。
青い髪の、不思議な人。
海で私を助けてくれた人。
そして、この島で初めて出会った人。




