第三話 逃げ道
「......そんなこと、ないですよ」
思いがけない言葉に、私はエドガーの顔を見つめた。
「え......?」
聞き間違いかと思った。
けれどエドガーは、いつもの穏やかな表情のまま私を見ている。
船は静かに波を切りながら進んでいた。
港を出てから、もうずいぶん経っている。
振り返っても、エルディアの街並みはほとんど見えない。
今さら逃げるなんて、できるはずがない。
「どういう意味?」
私が尋ねると、エドガーはすぐには答えなかった。
一度だけ周囲へ視線を向ける。
甲板には何人かの船員がいるものの、皆それぞれの仕事に追われていて、こちらを気にしている様子はなかった。
それを確かめてから、エドガーは少しだけ声を落とした。
「もしセシリア様が、本当にこの結婚を望んでおられないのでしたら......まだ、逃げる方法はございます」
「逃げる方法......?」
「はい」
胸が大きく鳴った。
そんなものがあるなんて、考えもしなかった。
だって、ここはもう海の上だ。
私を乗せた船はヴァルセイン王国へ向かって進んでいる。
引き返すこともできない。
逃げる場所なんて、どこにもないはずなのに。
「でも......どうやって?」
エドガーはもう一度周囲を確認すると、私に小さく頷いた。
「こちらへ」
そう言って歩き出した彼のあとを、私は戸惑いながら追った。
甲板を離れ、人目の少ない船尾へ向かう。
潮の香りが強くなる。
船の後ろには、どこまでも青い海が広がっていた。
その景色を見ただけで、急に怖くなる。
ここから逃げるなんて、本当にできるのだろうか。
エドガーは船尾の橋まで来ると、足を止めた。
「下をご覧ください」
「下?」
言われるまま、そっと船縁から覗き込む。
最初に見えたのは、白い波だった。
大きな船が進むたび、その後ろで海面が泡立っている。
けれど、その少し先。
「......小舟?」
船の側面に、一隻の小さな舟が括りつけられていた。
私は驚いてエドガーを見る。
「これ......どうしたの?」
「用意しておきました」
「用意って......いつから?」
エドガーは少し困ったように微笑んだ。
「セシリア様が、あの日のお言葉だけでお気持ちを変えられるとは思えませんでしたので」
あの日。
父から結婚を告げられた日のことだ。
「まさか......私のために?」
「勝手なことをして申し訳ございません」
「そんな......」
胸の奥が熱くなる。
「でも、この舟でどこへ行くの?」
「この海域からでしたら、潮の流れに乗って小さな島へ辿り着けます」
「島......?」
「はい。大きな街ではありませんが、人の住む島です。そこまで行くことが出来れば、
ヴァルセイン王国へ向かう必要はなくなります」
信じられない話だった。
ほんの少し前まで、私には何の選択肢もないと思っていた。
この船に乗って、ヴァルセイン王国へ行って。
顔すら覚えていないユリウス・ヴァレンティアと結婚する。
それが、これからの私の人生なのだと。
けれど今、
目の前に、別の道がある。
「食料と水も積んであります。島までなら十分に足りる量です」
「......本当に、行けるの?」
「潮が変わらなければ、問題ございません」
エドガーの声は落ち着いていた。
幼い頃から何度も聞いてきた、私を安心させてくれる声。
私はもう一度、小舟を見下ろした。
大きな船と比べれば、あまりにも小さい。
海は果てしなく広い。
怖くないと言えば嘘になる。
「怖いですか?」
「......少し」
「無理もございません」
エドガーは続けて言った。
「ですが、最後にお決めになるのはセシリア様です」
「このままヴァルセイン王国へ向かうのか。それとも、この舟に乗るのか」
エドガーは静かに私を見る。
「お選びになるのは、セシリア様です」
その言葉に、息が止まりそうになった。
ーー選ぶ。
これまで、そんなことを言われたことがあっただろうか。
私は父に言われたことに従う。
ただそれだけの人生だった。
でも今は違う。
この船に残るのも。
あの小舟に乗るのも。
私が決めていい。
「もし私が逃げたら......エドガーはどうなるの?」
私の問いに、エドガーは少し驚いたように目を瞬いた。
「私のことはお気になさらず」
「できるわけないでしょう。あなたが用意したって知られたら......」
「そのようなことにはならないようにいたします」
「でも」
「セシリア様」
優しい声だった。
「私は以前、申し上げましたね」
何のことか、すぐに分かった。
『私はいつでも、セシリア様の味方でございます』
あの日の言葉が蘇る。
「......覚えているわ」
「でしたら、私を信じてください」
その一言で、胸の奥にあった迷いが少しずつ消えていった。
私はエドガーを知っている。
幼い頃から、ずっとそばにいてくれた。
父に叱られて泣いたときも。
母がいなくなって、眠れない夜を過ごしたときも。
何も言わず、私の話を聞いてくれた。
そんな人を、信じられないはずがなかった。
私は小舟を見つめた。
怖い。
それでも。
このまま何もしなければ、私の人生はまた誰かの決めた通りに進んでいく。
それだけは嫌だった。
「......行くわ」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
エドガーが私を見る。
怖さがなくなったわけではない。
でも、逃げるなら今しかない。
エドガーは静かに微笑んだ。
「かしこまりました」
それから私たちは、船員たちに気付かれないように機会を待った。
すぐに小舟へ移ることはできない。
エドガーによれば、日が落ちてからのほうが人目も少なくなるという。
私は一度自室へ戻り、必要最低限のものだけを小さな鞄に詰めた。
持っていけるものは、ほとんどない。
ドレスも。
宝石も。
屋敷から持ってきた荷物も。
全部、置いていく。
最後に手に取ったのは、小さな鏡だった。
母が使っていたものだ。
それだけは鞄の中へ入れた。
窓の外を見る。
夕日が海を赤く染めていた。
胸が苦しいほど鳴っている。
やがて日が沈み、船内が静かになり始めた頃。
扉が小さく叩かれた。
「セシリア様」
エドガーだった。
「準備が整いました」
私は鞄を握りしめる。
「......ええ」
――――――――――
エドガーに案内され、暗くなった船内を進む。
誰にも見つからないよう、足音を忍ばせながら船尾へ向かった。
夜の海は、昼間とはまるで違って見えた。
波の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「足元にお気をつけてください」
エドガーが先に縄梯子を下ろした。
その先には、昼間に見た小舟が揺れている。
私は船縁から下を見て、思わず息を呑んだ。
「......高い」
「ゆっくりで大丈夫です。私が支えます」
震える手で縄を掴む。
一段。
また一段。
慎重に降りていく。
足が小舟へ触れた瞬間、大きく揺れて思わず声が出そうになった。
けれど、どうにか座り込む。
船の中には、水の入った容器と食料の入った袋、それから毛布が用意されていた。
本当に、私のために準備してくれていたのだ。
「エドガー」
私は上を見上げた。
大きな船の上から、エドガーがこちらを見ている。
「本当に......ありがとう」
「お礼を言われるようなことではございません」
「そんなことないわ」
もしエドガーがいなかったら。
私はきっと、何もできないままヴァルセイン王国へ行っていた。
「あなたがいてくれて、よかった」
一瞬、エドガーは何も言わなかった。
けれどすぐに、いつものように穏やかに微笑んだ。
「セシリア様」
「なに?」
「どうか、ご無事で」
「......ええ」
私は笑った。
「あなたもねエドガー」
彼は深く頭を下げた。
やがて、小舟を船へ繋いでいた縄が外される。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
私を乗せた小舟は、大きな船から離れ始めた。
エドガーは船の上から、いつまでもこちらを見ていた。
私は小さくなるその姿へ手を振った。
これから先に何が待っているのか、私には分からない。
やがて大きな船の灯りは遠ざかり、少しずつ小さくなっていった。
そしてとうとう、その灯りさえ見えなくなった。
辺りは暗闇に包まれる。
聞こえるのは、波の音だけ。
「......怖い」
急に心細さが押し寄せてきて、私は毛布を強く握り締める。
大丈夫。
このまま潮に乗っていれば、島へ辿り着ける。
エドガーがそう言っていた。
何度も自分に言い聞かせながら、私は毛布にくるまった。
怖さを忘れるように目を閉じる。
波に揺られる小さな舟の上で、私はいつの間にか眠りについていた。




