↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人魚のあなたに恋をした  作者: 月白


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

第二話 出航の日


三日という時間は、あまりにも短かった。


父から結婚を告げられたあの日から、私は何度も同じことを考えた。


どうにかして、この結婚をなくすことはできないのか。


もう一度、父と話をすれば。


もしかしたら、考え直してくれるのではないか。


そんなことを考えているうちに、とうとうその日がやってきた。


「セシリア様」


背後から声をかけられ、私は窓の外から視線を外した。


振り返ると、部屋の入口にエドガーが立っていた。


「......もう時間?」


「はい。馬車の用意が整っております」


「そう」


短く答えて、もう一度部屋を見渡す。


荷物のほとんどは、すでに運び出されている。


昨日まで私の物で溢れていた部屋は、ひどく広く感じられた。


「......本当に、行くのね」


思わず零れた言葉に、エドガーは何も答えなかった。


「私、まだ信じられない」


「......はい」


「三日前まで、こんなことになるなんて知らなかったのに」


知らない国へ行く。


ほとんど知らない人と結婚する。


そして、そこで暮らす。


そのすべてが、たった三日前に突然決められたことだった。


「私の人生なのに」


「どうして私だけ、何も知らないまま全部決められてしまうのかしら」


「セシリア様......」


「ごめんなさい。エドガーに言っても仕方がないわね」


「いいえ」


エドガーは静かに首を振った。


「私でよろしければ、何度でもお聞きいたします」


その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


この三日間、屋敷の誰もが慌ただしく私の出発の準備をしていた。


使用人たちは「おめでとうございます」と言い、荷物をまとめ、

遠い国へ嫁ぐ私を送り出す準備を進めていった。


誰も悪くない。


きっと皆、本当に祝ってくれている。


それでも、その言葉を聞くたびに、私は一人だけ取り残されているような気がした。


「......怖いわ」


小さく呟く。


「知らない国へ行くのも、ほとんど知らない人と結婚するのも......怖い」


エドガーは、ただ黙って聞いていた。


「それに」


私は俯いた。


「ここへ戻ってこられるのかも分からない」


口にした途端、それまで堪えていたものが込み上げてきた。


泣きたくない。


そう思って唇を噛む。


「セシリア様」


穏やかな声がした。


顔を上げると、エドガーはいつもの優しい表情で私を見ていた。


「大丈夫でございます」


「どうして、そんなことが言えるの?」


「セシリア様は、お一人ではございませんから」


「......え?」


「私も船に同行いたします」


思わず目を見開いた。


「エドガーも?」


「はい」


「ヴァルセインまで?」


「少なくとも、セシリア様を無事にお送りするまでは」


その言葉を聞いただけで、張り詰めていたものが少し緩んだ。


「......よかった」


思わず本音が零れる。


「エドガーまでいなくなったら、私......本当に一人になってしまう気がしていたから」


「そのようなことはございません」


エドガーは微笑んだ。


「私はいつでも、セシリア様の味方でございます」


三日前にも聞いたその言葉が、今は何より心強かった。


――――――――――


屋敷の外へ出ると、朝の風が頬を撫でた。


玄関前には馬車が停まっている。


私はその前で足を止め、振り返った。


生まれたときから暮らしてきた屋敷。


嬉しかったことも、悲しかったことも、ここにはたくさん残っている。


母がいた頃の記憶も。


父に叱られて、一人で泣いた夜も。


眠れずにエドガーと話したことも。


全部、この場所にある。


「......もう、帰ってこられないのかしら」


「セシリア」


聞こえてきた声に、身体が強張った。


玄関から父が出てくる。


私は黙ったまま、その顔を見た。


「出発の時間だ」


「......分かっています」


「ヴァレンティア家に失礼のないようにな」


その言葉に、胸の奥が冷たくなった。


最後まで、それなのね。


「......私に言うことは、それだけですか?」


「何?」


「今日、私はこの家を出ていくんですよ」


「分かっている」


「だったら......」


言いかけて、やめた。


何を期待しているのだろう。


元気で。


気をつけて。


寂しくなる。


そんな言葉を、父が言ってくれるとでも思っていたのだろうか。


「......もういいです」


「セシリア」


私は父に背を向けた。


「行ってまいります。お父様」


それだけ告げて、馬車へ乗り込んだ。


エドガーも向かいの席に座る。


扉が閉まり、やがて馬車がゆっくりと動き始めた。


車輪が石畳を進む音が響く。


私は窓の外を見た。


父は、まだ玄関の前に立っていた。


けれど、その表情までは見えない。


屋敷が少しずつ遠ざかっていく。


やがて木々の向こうへ隠れ、完全に見えなくなった。


「......さようなら」


小さく呟いた。


――――――――――


港に近づくにつれて、潮の香りが強くなっていった。


窓の外を行き交う人の数も増えていく。


荷物を運ぶ男たち。


大声で何かを指示する船員。


海鳥の鳴き声。


そして、その向こう。


青い海に、一隻の大きな船が停泊していた。


「あれが......?」


「はい」


エドガーが答える。


「ヴァルセイン王国へ向かう船でございます」


私は息を呑んだ。


高くそびえる帆柱。


大きな帆。


甲板では、何人もの船員が慌ただしく動いている。


あれに乗る。


そう思った途端、急に現実味を帯びた。


「ヴァルセインまでは、どのくらいかかるの?」


「天候にもよりますが、数日の航海になるかと」


「数日......」


海の向こうに、ヴァルセイン王国がある。


そしてそこに、私の夫になる人がいる。


ユリウス・ヴァレンティア。


幼い頃に一度会ったことがあるらしい。


けれど、どれだけ記憶を辿っても、その人の顔は浮かばなかった。


「セシリア様」


エドガーの声で我に返った。


「参りましょう」


「......ええ」


馬車を降りる。


港には、屋敷から見送りに来た使用人たちの姿もあった。


「セシリア様、どうかお元気で」


「お幸せに」


「ありがとうございます」


きっと上手には笑えていないだろう。


幸せに。


私はこれから、幸せになるのだろうか。


船へ続く浅橋を、一歩ずつ進む。


一歩。


また一歩。


足がひどく重かった。


途中で、私は立ち止まった。


目の前には船。


振り返れば、私が生まれ育った国。


「セシリア様?」


隣を歩いていたエドガーが足を止めた。


「......行きたくない」


気付けば、口にしていた。


「私、本当は......行きたくない」


「......はい」


「逃げてしまえたらいいのに」


かなうはずのない願いだった。


だからこそ、言えたのかもしれない。


エドガーは何も言わなかった。


ただ静かに、私の言葉を聞いていた。


「ごめんなさい。また困らせてしまったわね」


「いいえ」


エドガーは首を振った。


「セシリア様が謝ることではございません」


そして、私の手を取った。


「行きましょう」


そのときの私は、ただ嬉しかった。


この人だけは、私の気持ちを分かってくれる。


そう信じていた。


――――――――――


やがて船は、ゆっくりと港を離れた。


甲板に立ち、私は遠ざかっていくエルディア王国を見つめていた。


街並みが小さくなっていく。


港にいる人々の姿も、もうほとんど見えない。


風に髪が揺れる。


海はどこまでも青く、その先に何が待っているのか、

今の私には何も分からなかった。


「エドガー」


隣に立つエドガーがに声をかける。


「......本当に出てしまったのね」


「もう、戻れないのね」


返事はなかった。


私は手すりを強く握った。


「ねえ、エドガー」


「はい」


「私......これからどうなるのかしら」


遠ざかっていく故郷を見つめたまま、呟く。


「ヴァルセインへ行って、ユリウス様と結婚して......そこで一生暮らすの?」


「......」


エドガーは答えなかった。


波の音だけが聞こえる。


私は目を伏せた。


「さっきは逃げたいなんて言ってしまったけれど......そんなこと、できるはずないわよね」


「セシリア様」


「分かっているの。そんな方法があるなら、とっくにーー」


「もし」


エドガーの声が、私の言葉を止めた。


顔を上げる。


彼はいつもの穏やかな顔で私を見ていた。


「もし、逃げることができるとしたら」


「......え?」


「セシリア様は、どうなさいますか?」


突然の問いに、私は目を見開いた。


「そんなの......」


考えるまでもなかった。


「逃げたいわよ」


そう答えてから、私は小さく笑った。


「でも、もう遅いわ」


悔しさを隠すように、無理に微笑んでみせる。


けれどエドガーは笑わなかった。


ほんのわずかに目を細め、静かに海の向こうを見つめる。


「......そんなこと、ないですよ」


「えっ?」


思わず彼の顔を見つめた。


けれどエドガーは、それ以上何も言わなかった。


その言葉が何を意味していたのか。


そして、彼が何を考えていたのか。


このときの私には、知る由もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。