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人魚のあなたに恋をした  作者: 月白


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1/6

第一話 決められた結婚


「お前の結婚が決まった」


父の口から告げられた言葉を、私はすぐには理解できなかった。


午後の日差しが、大きな窓から静かに差し込んでいる。


磨き上げられた床。

壁に飾られた絵画。

金色の装飾が施された家具。


幼い頃から何度も足を踏み入れてきた、アーヴェル家の応接室。


何も変わらないはずのその部屋が、今日はひどく息苦しく感じた。


「......結婚?」


ようやく、それだけを聞き返す。


「ああ」


父ーーアルベルト・アーヴェルは、私の向かいに腰掛けたまま淡々と答えた。


まるで、明日の予定でも伝えるような口調だった。


「お相手は?」


「ユリウス・ヴァレンティア殿だ」


聞き覚えのない名前だった。


少なくとも、私の記憶の中にその名を持つ男性はいない。


「......どなたですか?」


父の眉がわずかに動いた。


そんなことも知らないのか、とでも言いたげだった。


「ヴァルセイン王国のヴァレンティア家。その嫡男だ」


ヴァルセイン王国。


その名前なら、もちろん知っている。


私たちの暮らすエルディア王国から、海を隔てた先にある国。


けれど、私が知っているのはその程度だった。


海の向こうにある国。


行ったこともない。


どんな街があって、どんな人たちが暮らしているのかも知らない。


ましてや、その国に住むユリウスという男性のことなどーー。


「お会いしたことは?」


「幼い頃、一度顔を合わせている」


「覚えていません」


「無理もない。お前はまだ幼かったからな」


私は思わず父の顔を見つめた。


「では、ほとんど知らない方ということですよね?」


「あちらは名門だ。ヴァレンティア家との縁は、アーヴェル家にとって大きな意味を持つ」


答えになっていなかった。


私はその人を知らない。


どんな声で笑うのかも。


何を好み、何を嫌うのかも。


優しい人なのか。


怖い人なのか。


何ひとつ知らない。


それなのに。


「......その方と、私が結婚するのですか?」


「そう言っている」


父の言葉に、胸の奥がざわついた。


「いつですか」


「ヴァルセインへ向かう船が、三日後に出る」


「三日後......?」


あまりにも突然だった。


三日。


たった三日後には、この屋敷を出て。


生まれ育ったエルディア王国を離れ。


海を渡り。


知らない国で、知らない男性の妻になる。


「待ってください」


気付けば、声が震えていた。


「私は、その方と結婚すると一度も言っていません」


「必要ない」


その一言に、胸を強く押さえつけられたような気がした。


「......必要、ない?」


「これは家同士で決めたことだ。お前もアーヴェル家の娘なら理解しなさい」


また、それだ。


アーヴェル家の娘。


幼い頃から、何度その言葉を聞いてきただろう。


食事の作法を間違えたときも。


人前ではしゃぎすぎたときも。


好きな服を選ぼうとしたときも。


街へ遊びに行きたいと言ったときも。


いつだって父は言った。


ーーアーヴェル家の娘なのだから。


その言葉を出されれば、私は黙るしかなかった。


でも。


結婚まで?


「嫌です」


父が私を見る。


「何?」


「嫌です。結婚したくありません」


はっきりと言った。


こんなふうに父へ逆らったのは、初めてだったかもしれない。


心臓が痛いほど脈打っている。


それでも、目を逸らさなかった。


「私はその方を知りません。そんな方と結婚なんてできません」


「結婚してから知ればいい」


「そういうことを言っているのではありません!」


広い部屋に、自分の声が響く。


父の表情が険しくなった。


怖い。


子供の頃から、この顔が苦手だった。


けれど今日だけは、黙ってられない。


「どうして......」


握りしめた手が震える。


「どうして私の結婚なのに、お父様が決めるのですか」


「セシリア」


「私の人生でしょう?」


父の目が鋭くなる。


「子どものわがままを言うな」


その言葉に、何かが切れた。


「わがまま?」


思わず笑ってしまった。


「知らない人と結婚したくないと言うことが、わがままなのですか?」


「この結婚がどれほど重要か、お前には分からない」


「分かりたくありません!」


立ち上がる。


椅子が床を擦り、大きな音を立てた。


「家のため、家のためって......私は家のために生まれてきたのですか?」


「セシリア!」


父の怒鳴り声が響いた。


肩が震えた。


それでも私は、父を睨んだ。


目の奥が熱い。


泣きたくなんてないのに、涙が滲んでくる。


「もう決まったことだ」


低い声だった。


「三日後、お前はヴァルセイン王国へ向かう」


「生きません」


「行くんだ」


「嫌です!」


「話は終わりだ」


父は立ち上がると、私を見ることもなく部屋を出ていった。


扉が閉まる。


私はその場から動けなかった。


静まり帰った部屋に、一人取り残される。


悔しかった。


悲しかった。


何より苦しかった。


どうして。


私の人生なのに。


どうして私だけが、何も決められないのだろう。


頬を伝った涙を乱暴に拭い、私は部屋を飛び出した。


――――――――――


自室へ戻ると、扉を閉めた。


そのままベッドへ腰を下ろす。


窓の向こうには、いつもの景色が広がっていた。


手入れされた庭。


色とりどりの花。


その向こうには、エルディア王国の街並みが見える。


ずっと、この景色を見て育ってきた。


それなのに三日後には、ここからいなくなる。


知らない国へ行く。


知らない男の人と結婚するために。


「.......嫌」


口にした瞬間、また涙が溢れた。


誰もいない部屋で、子どものように泣いた。


しばらくして、控えめに扉が叩かれた。


「セシリア様」


聞き慣れた声だった。


慌てて涙を拭う。


「......何?」


「エドガーでございます」


その名前を聞いて、少しだけ身体の力が抜けた。


「入って」


扉が静かに開く。


姿を現したのは、幼い頃からこの屋敷に仕えている執事だった。


エドガーは私の顔を見るなり、何も言わずに扉を閉めた。


「旦那様から、お話を伺いました」


「......早いのね」


「申し訳ございません」


「あなたが謝ることじゃないわ」


そう言うと、エドガーは困ったように目を伏せた。


昔から変わらない。


父に叱られたとき。


母がいなくなったあと、一人で泣いていたとき。


寂しくて眠れなかった夜。


いつだって、この人だけは私の話を聞いてくれた。


「私、結婚するんですって」


無理に笑ってみせる。


「......はい」


「三日後には船に乗れって」


声が震えた。


「私が嫌だと言っても、関係ないみたい」


エドガーは黙っていた。


「ねえ、エドガー」


「はい」


「私って、そんなにわがままなのかな」


「私は、そうは思いません」


顔を上げる。


「......本当?」


「はい」


その声は、いつものように優しかった。


「ご自身の人生を、ご自身で選びたいと思うこと。それは決して、わがままではございません」


その言葉を聞いた瞬間。


堪えていたものが、また溢れそうになった。


父には分かってもらえなかった。


でも。


この人だけは分かってくれる。


「ありがとう、エドガー」


「私はいつでも、セシリア様の味方でございます」


エドガーはそう言って、穏やかに微笑んだ。



窓の向こう。


遙か遠くに、海が見えた。


夕日に照らされ、きらきらと輝いている。


三日後。


私はあの海を渡る。


父に決められた人と結婚するために。


このときの私はまだ知らなかった。


私の人生を大きく変える出会いが、あの海で待っていることを。

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