雨宮紬
「うーん……名前どうしよ……」
テーブルに向かい、早江はペンを持ったまま固まっていた。偽造戸籍の空欄が、やけに重く感じる。
「名前なんて、適当で良いのではないか?」
隣で覗き込みながら、少女があっさりと言う。
「ダメ!人生最大の選択だよ!」
即座に否定する。
「そうか……ならば、“雨宮エックス”では駄目なのか?」
「それだと……なんか違和感ない?」
「そうか?」
首を傾げる少女。
「だってさ、“エックス”って記号みたいじゃん。ちゃんと“名前”にしたいの」
少しだけ真剣な声だった。
少女はその言葉を聞いて、ほんのわずかに考える。
「では……早江が、私に名前を与えるのか」
「……うん」
短く頷く。
その一文字一文字が、これからの“存在”を決める気がして、早江はペンを握り直した。
「……決めた」
早江が小さく呟く。
「“紬”。雨宮紬ってどう?」
少女はその名前を口の中で転がす。
「……つむぎ」
少しだけ間を置く。
「意味は?」
「糸を紡ぐって意味。人と人を繋ぐ……みたいな感じ」
少女はもう一度、小さく繰り返した。
「紬……」
やがて、ほんのわずかに頷く。
「悪くない。むしろ……好ましい」
「ほんと!?」
「これが、私の名前か」
その言葉には、これまでにない実感が滲んでいた。
「これで……私にも学校に通う権利を獲得したわけだ」
書類を見つめながら、紬が言う。
「いや……まだだよ」
早江が少し苦笑する。
「紬は中学校を卒業してないから、“中学卒業程度認定試験”を受けてもらわないと……高校には行けないよ」
「なるほど」
すぐに理解する。
「では、その試験に合格すれば問題は解決するのだな?」
「うん、まぁ……そうなるね」
「簡単だ」
間髪入れずに言い切る。
「いやいやいや、簡単って……」
早江は思わず突っ込む。
紬はすでにノートを開いていた。
「既に基礎は理解している。あとは範囲を網羅すれば良いだけだ」
「やる気満々じゃん……」
呆れながらも、どこか安心したように呟く。
「試験はいつ始まるのだい?」
「10月16日だよ」
「来週か……」
紬は一瞬だけ考えて、さらっと言う。
「では、高校に向けた勉強を進めておくか」
「いや、試験勉強ちゃうんかい」
思わずツッコミが飛ぶ。
「試験範囲は既に理解している。ならば、その先に進む方が合理的だろう」
「合理的すぎるのよ……」
早江は額に手を当てた。
そして
翌週、試験当日。
会場の前に立つと、空気が少しだけ張り詰めている。
「何故、早江の方が緊張しているのだ」
紬が不思議そうに言う。
「いやぁ……なんか、こう……かしこまった感じじゃん?」
落ち着かない様子で周囲を見回す早江。
受験者たちの静かなざわめきが、余計に緊張を煽る。
「やれやれ……」
紬は小さく息をついた。
「では、合格してくる」
いつも通りの調子で言い切る。
「う、うん……頑張って」
早江は少しだけ背中を押すように頷いた。
紬は振り返ることなく、そのまま会場の中へ入っていった。
「真っ白で……ツルツルとした机だ。触り心地が良いな」
紬は席に座り、指先で机の表面をなぞる。
やがて、試験開始の合図が響いた。
問題用紙が配られる。
紬はそれを一瞥し、そのまま迷いなくペンを走らせた。
式を組み立て、答えを書き、次へ進む。その動きに一切の淀みはない。
見回りの試験官がふと足を止める。
(……髪、真っ白で綺麗だな……)
一瞬だけ視線を向けるが、それ以上は何も言わず通り過ぎていった。
紬は淡々と解き続ける。
気づけば、周囲がまだ悩んでいる中、すでに最後の問題に取りかかっていた。
――そして、3時間半後。
試験終了。
会場の外で待っていた早江が、紬の姿を見つけて駆け寄る。
「紬!試験どうだった?」
「問題ない」
即答だった。
「五科目全て、既に解いたことのある内容だったよ」
「よく頑張ったね!」
早江は勢いのまま紬を抱き寄せ、そのまま頭を撫でる。
「やめろ……なんだ、この感覚は……」
戸惑ったように小さく抵抗する紬。
だが、強く振り払うことはしない。
むしろ、そのまま動きを止めている。
「ふふ、いいじゃん」
早江は気にせず撫で続ける。
紬は少しだけ視線を逸らした。
「……嫌ではないが、落ち着かないな」
その声は、どこか柔らかかった。
家に帰宅。
靴を脱ぐや否や、紬が振り返る。
「合格発表はいつなんだい?」
「えっとね……11月25日だよ」
少し考えながら答える早江。
「……随分先だな」
紬はわずかに眉を寄せた。
「そう?普通だよ〜こういうのは」
「結果が確定しているにも関わらず、待たされるのは非効率だ」
淡々と言い切る。
「まぁまぁ、その分ドキドキする期間ってことでさ」
「ドキドキ……」
紬はその言葉を小さく繰り返す。
「それも、人間に必要なものなのか?」
「たぶんね」
早江は軽く笑った。
その後は早江がドキドキが止まらず、しばらく眠れずにいた。




