表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

下準備

翌朝、部屋には早江の姿がなかった。スーツと靴も見当たらず、すでに仕事へ向かったのだと理解する。


少女は静かな部屋の中でテレビの電源を入れた。流れてきたのは、偶然にも数学に関する番組だった。


画面に映る数字や式、そこから導き出される答え。その一連の流れに、少女の視線は自然と引き寄せられる。


「数学……答えがはっきりしていて、実に合理的だな」


曖昧さのない世界に、わずかな心地よさを覚えながら、少女はしばらく画面を見つめ続けた。


「何か……書くもの……」


少女は部屋を見回し、未開封のノートを取り出すと、近くにあった早江のペンを手に取った。


テレビから流れる問題を見ながら、無言で書き進めていく。式を追い、答えに辿り着き、また次の問題へ。番組が終わる頃には、ノートの半分がびっしりと埋まっていた。


そのとき、玄関のドアが開く。


「ただいまーXちゃん。取り敢えず、小学校から中学校の教科書とドリル買って来たけど……」


袋を抱えたまま部屋に入ってきた早江が、ノートに気づく。


「買って来てくれたのか、感謝する」


少女は顔を上げて答える。


「……てか、そのノートどうしたの?」


「袋が付いたままだったが、使用してしまった。問題があったか?」


「全然大丈夫だよ〜……って、中身びっしりじゃん!」


思わず声が上がる。


少女は少しだけ視線を逸らした。


「……つい、夢中になってしまった」


食事を終えたあと、そのまま少女の勉強時間になった。


「飲み込み早すぎない……?まだ一時間も経ってないのに、もう小数点までいってるし……」


早江が呆れたように呟く。


「実に面白い。ますますやる気が出るな……早江、問題を出してくれないか?」


少女はペンを止めずに言った。


「うーん……じゃあ、9468×1473」


少しだけ間が空く。


「1394万6364だ」


即答だった。


早江は慌てて電卓を取り出し、計算する。


「……せ、正解……」


思わず顔を上げる。


少女はほんの少しだけ得意げに口角を上げた。


「ふふん」


少女の勉強は、そのまま就寝前まで続いた。


部屋の明かりが落ち、静かな空間の中で、手元だけが淡く照らされている。


「Xちゃん〜、寝ないの?」


布団の中から、眠そうな声がする。


「一応言っておくが、私に睡眠は不要だ。光合成が可能であれば、エネルギーは補える」


(植物みたい……)


そんなことを思いながら、早江はそのまま眠りに落ちた。


――そして翌朝。


「うーん……おはよ……って、寝てるかな……」


目を擦りながら体を起こす。


「起きたか、早江」


すぐ隣から声が返ってきた。


「え、ずっと起きてたの……?」


「問題ない。継続して活動していただけだ」


「ほんとに寝る必要ないんだ……」


少し呆れたように、早江は息をついた。


「Xちゃん、学校に通う準備するよ」


早江がそう言うと、少女はすぐに顔を上げた。


「私が待ち望んでいたことだ。協力するよ」


迷いのない返答だった。


「まずは……どうやって通わせるか、だよね」


早江は腕を組みながら考える。


「戸籍もないし、そのままじゃ無理だし……」


「では、必要な条件を洗い出そう。学校に通うために必要なものを列挙すれば、解決策が見えるはずだ」


少女はすでに前向きだった。


「うわ……もう頭いいやつの考え方してる……」


早江は苦笑しながらも、小さく頷く。


「でも、やるしかないよね」


早江は少し考え込み、やがてぽつりと口にした。


「……私が、親だったら……嫌?」


言ったあとで、自分でも少し驚いたように目を逸らす。


少女は一瞬だけ間を置き、静かに答えた。


「なるほど……合理的だ。年齢、経済力ともに、里親制度の条件を満たしている」


淡々とした分析。


「……そういう意味じゃなくてさ」


早江が苦笑する。


少女はわずかに首を傾げたあと、言い直した。


「私は、早江と共にいることを望んでいる。形が“親子”になるのであれば、それも受け入れる」


「嫌ではない、ということだ」


その言葉に、早江は少しだけ肩の力を抜いた。


「……そっか」


小さく呟く。


その後、早江と少女は家庭裁判所や市役所を回り、手続きを進めた。


だが結果は――不許可。


書類の不備、身元不明、生活環境。理由はいくつも並べられ、淡々と告げられた。


帰り道。


「うーん……どうしよぉ〜……」


早江が力なく呟く。


少女は少し考えたあと、静かに言った。


「ここまで試みて不可能ならば、私は諦める」


合理的な判断だった。


「ダメ」


すぐに返す。


「絶対、諦めちゃダメだよ」


思ったより強い声が出た。


少女はわずかに目を見開く。


「……何故だ?」


「だって――」


言葉が詰まる。


それでも、早江は続けた。


「ここで諦めたら、“家族になりたい”って思った意味がなくなるじゃん」


少女は少し考えてから口を開いた。


「うむ……そうだね。私は少し、離れた判断をしてしまったようだ。すまない」


そして、続ける。


「一つ、当てがある。正確には賭けに近いが……私が作られた研究施設に、偽造された書類が残っている可能性がある」


「え?」


早江の動きが止まる。


「それを利用すれば、戸籍に近いものを用意できるかもしれない」


「ちょ、ちょっと待って……それ普通に犯罪じゃない?」


「法的にはそうなるな」


あっさりと肯定する。


「じゃあダメでしょ!?」


声が一段大きくなる。


少女は首を傾げた。


「しかし、現行の手段では解決不能だ。ならば別の手段を取るのは合理的だろう」


「合理的でもダメなものはダメ!」


即答だった。


「……早江は、法と私、どちらを優先する?」


静かな問い。


一瞬、言葉に詰まる。


「X……Xちゃんを優先する」


短く、でもはっきりと早江は言った。


少女はその答えを聞いて、小さく頷く。


「では行こうか。私の生まれ故郷へ」


二人は無言のまま歩き出す。


辿り着いたのは、あの一軒家だった。


「あれ……ここ、最初にXちゃんがいた場所じゃん」


見覚えのある外観に、早江が呟く。


「そうだね。私が途方に暮れていた時、ここで早江が見つけてくれた」


静かに言いながら、少女は迷いなくドアを開けた。


中に入ると、空気は重く、わずかに埃の匂いがする。


生活の気配はなく、時間が止まったままだった。


廊下を進み、物入れの扉を開く。


その奥には――


床が、不自然に破壊されていた。


「……ここだね」


少女がぽつりと呟く。


少女は迷いなく、暗い階段を降りていく。


「あ……ちょ、ちょっと待って!?」


慌てて早江も後を追う。


階段は思ったより長く、下へ行くほど空気が冷たくなる。足音だけがやけに響いた。


「私は暗所でも視界に問題はないが……早江は大丈夫かい?」


前を歩きながら、少女が振り返る。


「全然見えない……!」


早江はスマホのライトを点け、足元を照らしながら一段ずつ慎重に降りていく。


やがて、階段は途切れた。


二人の前に広がるのは――あの研究施設だった。


静まり返った空間。壊れた設備と、放置されたままの痕跡。


「……変わってないな」


少女が小さく呟く。


(……誰かが入った痕跡がある)


床のわずかな乱れと、空気の違和感で察する。


だが少女は、そのことを口にしなかった。


(私が処理したはずの死体がない……回収に来たのか)


思考だけが静かに巡る。


何も知らない早江は、隣で周囲を見回していた。


二人はそのまま奥へと進む。


やがて辿り着いたのは、研究データが保管されている部屋だった。


棚一面に並ぶファイルと端末。放置されていたはずなのに、どこか“触れられた後”の気配が残っている。


「ここになら、私の偽造書類が存在する可能性がある」


少女が淡々と言う。


「……かなり数あるけど」


早江は思わず息をつく。


「探せば、いずれ見つかる」


そう言って、少女は迷いなくファイルに手を伸ばした。


いくつものファイルを漁るが、それらしい物はなかなか見つからない。


紙の擦れる音だけが、静かな部屋に響く。


「何これ……Xちゃんの体の情報がびっしり詰まってる……」


早江が手に取ったファイルには、身長や体重、体温などの基本的なデータが並んでいた。


だがページをめくった瞬間、表情が固まる。


「……試作段階?」


そこには、はっきりとそう記されていた。


「最初の私は完全体ではない、という意味だろうな」


少女は淡々と言う。


そのときだった。


別の棚を調べていた少女が、一枚の書類を引き抜く。


「……あった」


静かな声。


「名前は記載されていないが……これは、私の偽造された戸籍だ」


早江が駆け寄る。


紙には、年齢や住所、最低限の情報だけが整えられていた。


「ほんとに……それっぽい……」


そのとき、少女の耳がわずかに動く。


「……隠れろ。誰か来る」


低い声で言う。


「えっ――?」


言い終わる前に、少女に腕を引かれ、二人は近くのロッカーへ押し込まれた。


「せ……狭い……」


息がかかるほどの距離。


「君の胸は縮まらないのかね」


「無理言わないで……!」


小声で言い返す。


すぐ外で、足音が止まった。


「うわ、マジでここそれっぽくね?」


「すっげ!噂通り雰囲気あるな〜」


軽い調子の男たちの声が響く。


「心霊スポットにしては、ちょっと物足りないけどな」


笑い声。


しばらくして、足音が遠ざかっていく。


完全に静寂が戻った。


少女は耳を澄ませ、やがて小さく言う。


「……行ったな」


ロッカーの扉をわずかに開ける。


「どうやら、ここは頻繁に人が出入りしているようだ」


外へ出ながら、淡々と分析する。


早江はその場にへたり込んだ。


「怖かったぁ……」


「とにかく、目的は達成された。帰ろうか」


少女が書類を手に言う。


「うん……帰ろ」


二人は足早にその場を離れ、一軒家を後にした。


そして――その夜。


誰もいないはずの家に、火の手が上がった。


暗闇の中で炎は静かに広がり、やがて屋根を舐め、窓を砕き、すべてを飲み込んでいく。


研究所も、記録も、そこに残っていた痕跡も。


何もかもが、焼き尽くされていった。


それが事故だったのか。


それとも、人の手によるものか。


あるいは――最初から、そうなるように仕組まれていたのか。


真相を知る者はいない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ