下準備
翌朝、部屋には早江の姿がなかった。スーツと靴も見当たらず、すでに仕事へ向かったのだと理解する。
少女は静かな部屋の中でテレビの電源を入れた。流れてきたのは、偶然にも数学に関する番組だった。
画面に映る数字や式、そこから導き出される答え。その一連の流れに、少女の視線は自然と引き寄せられる。
「数学……答えがはっきりしていて、実に合理的だな」
曖昧さのない世界に、わずかな心地よさを覚えながら、少女はしばらく画面を見つめ続けた。
「何か……書くもの……」
少女は部屋を見回し、未開封のノートを取り出すと、近くにあった早江のペンを手に取った。
テレビから流れる問題を見ながら、無言で書き進めていく。式を追い、答えに辿り着き、また次の問題へ。番組が終わる頃には、ノートの半分がびっしりと埋まっていた。
そのとき、玄関のドアが開く。
「ただいまーXちゃん。取り敢えず、小学校から中学校の教科書とドリル買って来たけど……」
袋を抱えたまま部屋に入ってきた早江が、ノートに気づく。
「買って来てくれたのか、感謝する」
少女は顔を上げて答える。
「……てか、そのノートどうしたの?」
「袋が付いたままだったが、使用してしまった。問題があったか?」
「全然大丈夫だよ〜……って、中身びっしりじゃん!」
思わず声が上がる。
少女は少しだけ視線を逸らした。
「……つい、夢中になってしまった」
食事を終えたあと、そのまま少女の勉強時間になった。
「飲み込み早すぎない……?まだ一時間も経ってないのに、もう小数点までいってるし……」
早江が呆れたように呟く。
「実に面白い。ますますやる気が出るな……早江、問題を出してくれないか?」
少女はペンを止めずに言った。
「うーん……じゃあ、9468×1473」
少しだけ間が空く。
「1394万6364だ」
即答だった。
早江は慌てて電卓を取り出し、計算する。
「……せ、正解……」
思わず顔を上げる。
少女はほんの少しだけ得意げに口角を上げた。
「ふふん」
少女の勉強は、そのまま就寝前まで続いた。
部屋の明かりが落ち、静かな空間の中で、手元だけが淡く照らされている。
「Xちゃん〜、寝ないの?」
布団の中から、眠そうな声がする。
「一応言っておくが、私に睡眠は不要だ。光合成が可能であれば、エネルギーは補える」
(植物みたい……)
そんなことを思いながら、早江はそのまま眠りに落ちた。
――そして翌朝。
「うーん……おはよ……って、寝てるかな……」
目を擦りながら体を起こす。
「起きたか、早江」
すぐ隣から声が返ってきた。
「え、ずっと起きてたの……?」
「問題ない。継続して活動していただけだ」
「ほんとに寝る必要ないんだ……」
少し呆れたように、早江は息をついた。
「Xちゃん、学校に通う準備するよ」
早江がそう言うと、少女はすぐに顔を上げた。
「私が待ち望んでいたことだ。協力するよ」
迷いのない返答だった。
「まずは……どうやって通わせるか、だよね」
早江は腕を組みながら考える。
「戸籍もないし、そのままじゃ無理だし……」
「では、必要な条件を洗い出そう。学校に通うために必要なものを列挙すれば、解決策が見えるはずだ」
少女はすでに前向きだった。
「うわ……もう頭いいやつの考え方してる……」
早江は苦笑しながらも、小さく頷く。
「でも、やるしかないよね」
早江は少し考え込み、やがてぽつりと口にした。
「……私が、親だったら……嫌?」
言ったあとで、自分でも少し驚いたように目を逸らす。
少女は一瞬だけ間を置き、静かに答えた。
「なるほど……合理的だ。年齢、経済力ともに、里親制度の条件を満たしている」
淡々とした分析。
「……そういう意味じゃなくてさ」
早江が苦笑する。
少女はわずかに首を傾げたあと、言い直した。
「私は、早江と共にいることを望んでいる。形が“親子”になるのであれば、それも受け入れる」
「嫌ではない、ということだ」
その言葉に、早江は少しだけ肩の力を抜いた。
「……そっか」
小さく呟く。
その後、早江と少女は家庭裁判所や市役所を回り、手続きを進めた。
だが結果は――不許可。
書類の不備、身元不明、生活環境。理由はいくつも並べられ、淡々と告げられた。
帰り道。
「うーん……どうしよぉ〜……」
早江が力なく呟く。
少女は少し考えたあと、静かに言った。
「ここまで試みて不可能ならば、私は諦める」
合理的な判断だった。
「ダメ」
すぐに返す。
「絶対、諦めちゃダメだよ」
思ったより強い声が出た。
少女はわずかに目を見開く。
「……何故だ?」
「だって――」
言葉が詰まる。
それでも、早江は続けた。
「ここで諦めたら、“家族になりたい”って思った意味がなくなるじゃん」
少女は少し考えてから口を開いた。
「うむ……そうだね。私は少し、離れた判断をしてしまったようだ。すまない」
そして、続ける。
「一つ、当てがある。正確には賭けに近いが……私が作られた研究施設に、偽造された書類が残っている可能性がある」
「え?」
早江の動きが止まる。
「それを利用すれば、戸籍に近いものを用意できるかもしれない」
「ちょ、ちょっと待って……それ普通に犯罪じゃない?」
「法的にはそうなるな」
あっさりと肯定する。
「じゃあダメでしょ!?」
声が一段大きくなる。
少女は首を傾げた。
「しかし、現行の手段では解決不能だ。ならば別の手段を取るのは合理的だろう」
「合理的でもダメなものはダメ!」
即答だった。
「……早江は、法と私、どちらを優先する?」
静かな問い。
一瞬、言葉に詰まる。
「X……Xちゃんを優先する」
短く、でもはっきりと早江は言った。
少女はその答えを聞いて、小さく頷く。
「では行こうか。私の生まれ故郷へ」
二人は無言のまま歩き出す。
辿り着いたのは、あの一軒家だった。
「あれ……ここ、最初にXちゃんがいた場所じゃん」
見覚えのある外観に、早江が呟く。
「そうだね。私が途方に暮れていた時、ここで早江が見つけてくれた」
静かに言いながら、少女は迷いなくドアを開けた。
中に入ると、空気は重く、わずかに埃の匂いがする。
生活の気配はなく、時間が止まったままだった。
廊下を進み、物入れの扉を開く。
その奥には――
床が、不自然に破壊されていた。
「……ここだね」
少女がぽつりと呟く。
少女は迷いなく、暗い階段を降りていく。
「あ……ちょ、ちょっと待って!?」
慌てて早江も後を追う。
階段は思ったより長く、下へ行くほど空気が冷たくなる。足音だけがやけに響いた。
「私は暗所でも視界に問題はないが……早江は大丈夫かい?」
前を歩きながら、少女が振り返る。
「全然見えない……!」
早江はスマホのライトを点け、足元を照らしながら一段ずつ慎重に降りていく。
やがて、階段は途切れた。
二人の前に広がるのは――あの研究施設だった。
静まり返った空間。壊れた設備と、放置されたままの痕跡。
「……変わってないな」
少女が小さく呟く。
(……誰かが入った痕跡がある)
床のわずかな乱れと、空気の違和感で察する。
だが少女は、そのことを口にしなかった。
(私が処理したはずの死体がない……回収に来たのか)
思考だけが静かに巡る。
何も知らない早江は、隣で周囲を見回していた。
二人はそのまま奥へと進む。
やがて辿り着いたのは、研究データが保管されている部屋だった。
棚一面に並ぶファイルと端末。放置されていたはずなのに、どこか“触れられた後”の気配が残っている。
「ここになら、私の偽造書類が存在する可能性がある」
少女が淡々と言う。
「……かなり数あるけど」
早江は思わず息をつく。
「探せば、いずれ見つかる」
そう言って、少女は迷いなくファイルに手を伸ばした。
いくつものファイルを漁るが、それらしい物はなかなか見つからない。
紙の擦れる音だけが、静かな部屋に響く。
「何これ……Xちゃんの体の情報がびっしり詰まってる……」
早江が手に取ったファイルには、身長や体重、体温などの基本的なデータが並んでいた。
だがページをめくった瞬間、表情が固まる。
「……試作段階?」
そこには、はっきりとそう記されていた。
「最初の私は完全体ではない、という意味だろうな」
少女は淡々と言う。
そのときだった。
別の棚を調べていた少女が、一枚の書類を引き抜く。
「……あった」
静かな声。
「名前は記載されていないが……これは、私の偽造された戸籍だ」
早江が駆け寄る。
紙には、年齢や住所、最低限の情報だけが整えられていた。
「ほんとに……それっぽい……」
そのとき、少女の耳がわずかに動く。
「……隠れろ。誰か来る」
低い声で言う。
「えっ――?」
言い終わる前に、少女に腕を引かれ、二人は近くのロッカーへ押し込まれた。
「せ……狭い……」
息がかかるほどの距離。
「君の胸は縮まらないのかね」
「無理言わないで……!」
小声で言い返す。
すぐ外で、足音が止まった。
「うわ、マジでここそれっぽくね?」
「すっげ!噂通り雰囲気あるな〜」
軽い調子の男たちの声が響く。
「心霊スポットにしては、ちょっと物足りないけどな」
笑い声。
しばらくして、足音が遠ざかっていく。
完全に静寂が戻った。
少女は耳を澄ませ、やがて小さく言う。
「……行ったな」
ロッカーの扉をわずかに開ける。
「どうやら、ここは頻繁に人が出入りしているようだ」
外へ出ながら、淡々と分析する。
早江はその場にへたり込んだ。
「怖かったぁ……」
「とにかく、目的は達成された。帰ろうか」
少女が書類を手に言う。
「うん……帰ろ」
二人は足早にその場を離れ、一軒家を後にした。
そして――その夜。
誰もいないはずの家に、火の手が上がった。
暗闇の中で炎は静かに広がり、やがて屋根を舐め、窓を砕き、すべてを飲み込んでいく。
研究所も、記録も、そこに残っていた痕跡も。
何もかもが、焼き尽くされていった。
それが事故だったのか。
それとも、人の手によるものか。
あるいは――最初から、そうなるように仕組まれていたのか。
真相を知る者はいない。




