無駄な知恵
翌朝、少女は早江よりも先に目を覚ました。
隣で眠る早江を見下ろしながら、少し考える。
「早江、仕事というものに行かなくて良いのか?」
体を軽く揺さぶると、早江は眠そうに声を漏らした。
「ん……今日は休みぃ……ゆっくり寝かせてぇ……」
かすれた声でそう言うと、そのまま再び眠りに落ちる。
少女はその言葉を受け取り、小さく頷いた。
「では、“休み”とやらを満喫すると良い」
それ以上は起こさず、視線を部屋へ向ける。すでに一度見たものばかりで、配置も用途も理解している。新しい発見はなく、やがて退屈を覚えた。
「あー……暇だよね、何もないから……これ使って」
半分眠ったままの早江が手を伸ばし、何かを差し出す。
少女が受け取ったのは、スマホだった。
「実に興味深い……薄い板から光が発せられている」
表面に触れると反応し、画面の中で様々な情報が動き出す。少女はそれを観察しながら使い方を理解しようとするが、ふと早江の方を見ると、すでに深く眠っていた。
声をかけるべきか一瞬だけ考え、やめる。
起こさない方が良いと判断した。
それが、この状況において適切な行動だと理解したからだ。
少女は再び視線を戻し、手の中の装置を見つめた。
昼になり、町内放送のチャイムが響いた。
その音で、早江が目を覚ます。
「寝すぎた……」
ぼんやりしたまま体を起こすと、すぐ近くにいた少女が口を開いた。
「人間の平均睡眠時間を、五時間ほど超過している」
「数値化されると罪悪感がぁ……」
必要な睡眠のはずなのに、妙に後ろめたさを覚える。
「てか、スマホ使えるんだ」
「ああ、多少手こずったがね。現在は問題なく扱える」
少女の手の中で、画面が滑らかに切り替わる。
情報を追うその動きは、すでに慣れたものだった。
「少し聞きたいことがあるのだが、この『草』とは何だ?」
少女はスマホの画面を早江に向け、掲示板に並ぶ文字を指差した。
「あー、それね。面白いって意味だよ。まぁ、覚えなくてもいいやつだけど」
「そうか……」
一度納得したように頷き、すぐに次の疑問へ移る。
「ではもう一つ。人間の繁殖行為はどのように――」
「ストーップ!」
間髪入れず、早江が遮る。
「そこはまだ覚えんでいい!」
「何故だ?」
「早いの!順序ってもんがあるの!」
食い気味に言い返しながら、早江は完全に目を覚ました。
(あきまへんあきまへん……!Xちゃんにスマホを与えたらあきまへんわ!)
心の中でそう叫びながら、早江は少女の探究心にほんの少しだけ危機感を覚えていた。
「……あれ、Xちゃんご飯食べてる?」
ふと思い出したように尋ねる。
「昨日も言っただろう。私に食事の必要はないと」
わずかに呆れたような口調だった。
「あー……そっか。でも、食べないとダメだよ!」
「必要がないのにか?」
「そういう問題じゃないの!……あ、そうだ。外食行かない?」
思いついたように顔を上げる。
「ふむ……外食とは何だ?」
初めて聞く単語に、少女は素直に疑問を返す。
「ご飯を作ってくれる店、って言った方が分かりやすいかな」
少し考えてから、少女は頷く。
「なるほど……では、行ってみるとしよう。“外食”とやらに」
しかし、外食の前に一つ問題があった。
「Xちゃんの服……どうしよ……」
今、少女が着ているのは早江のお下がりの白いTシャツだけだ。
「私はこのままで構わないが?」
「絶対ダメ!せめてズボン履いて!」
即答だった。
早江は慌ててタンスを開け、中を漁り始める。着れそうなものを探しているが、なかなか見つからない。
「あれ……?」
手が止まる。
引っ張り出したのは、見覚えのあるジャージだった。
「何で私の中学時代のジャージが残ってんの……」
青い短パンのジャージ。
しばらくそれを見つめてから、ため息をつく。
「……まぁ、これでいっか」
少女の方へ差し出した。
「感謝する。少し質問だが、良いか?」
少女はジャージを履きながら尋ねる。
「何故人間は衣服を着るんだ?無くても生存は可能だろう」
「それは……羞恥心を守るために着るの!」
少しだけ言い淀みながら、早江は答えた。
「羞恥心……」
少女はその言葉を繰り返す。
「私にはその概念が存在しない。ならば、着用する必要は無いのでは?」
「あるの!」
即答だった。
「とにかく着るの!これはそういうルール!」
早江は強めに言い切る。
少女は一瞬だけ考え、やがて小さく頷いた。
「……理解は不十分だが、従おう」
着替えを終え、靴の問題はあっさり解決した。早江のサンダルを借りることにしたらしい。
外に出る。
「夜とは些か違う色だが、空を見るのは二度目だな」
少女は足を止め、上を見上げる。
空は、夕焼けと夜の境目にあった。
橙と紺が混ざり合い、ゆっくりと色を変えていく。
少女はしばらく、その変化を追っていた。




