大きな成長と小さな成長
早江の腹が小さく鳴った。
「あ……はは……何か食べよっか」
誤魔化すように笑いながら、冷蔵庫からコンビニ弁当を二つ取り出し、そのまま電子レンジへ入れる。低い作動音とともに中で弁当が回り始めた。
少女はその前に立ち、じっと見つめている。
「……初めて見るの?」
問いかけても反応はない。ただ視線だけが、回転する弁当を追い続けていた。何が起きているのか理解しようとしているようにも見える。
やがて電子音が鳴る。
ピーッ、ピーッ。
「あちゃっ!」
取り出そうとした早江が熱さに手を引っ込める。その隙に、少女が弁当を持ち上げ、そのまま何事もないようにテーブルへ運んだ。
「ちょ、ちょっと……熱くないの?」
慌てて手を取って確認するが、白い肌に変化はない。赤くもなっていない。
(……感じてない?)
小さな違和感を覚えながらも、早江は軽く息をついた。
「……ま、いっか。冷めないうちに食べよ」
向かい合って座る。
「いただきます。Xちゃんも」
手を取って軽く合わせると、少女はその動きをじっと見ていた。やがて、同じように手を動かす。
弁当に手を伸ばすが、箸は使わず、そのまま掴もうとする。
「あー、待って待って。箸使って」
早江が見本を見せる。指の動き、持ち方、力の入れ方。
少女は一度見ただけで、それをなぞるように再現した。迷いはない。
「……え、もう?」
思わず声が漏れる。
「すご……上手いじゃん」
少女は何も答えない。ただ、同じ動作を繰り返しているだけだ。
(人とはうまくやれないのに……)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
(この子とは、普通にいられる……)
理由は分からない。それでも、不思議と嫌ではなかった。
静かな時間が流れ、やがて弁当は空になった。
「ふぅ……ごちそうさま」
早江が手を合わせると、少女もそれを真似るように手を合わせた。
(……にしても、何で喋れないんだろ)
箸は一度見ただけで使えるのに、言葉だけが出てこない。
その違和感を覚えながら、明日あたり本を買ってこようと、早江はぼんやり考える。
「Xちゃんは、お家帰らなくていいの?」
問いかけると、少女はこちらを見て、ゆっくりと首を傾げた。
その反応を見て、早江は少しだけ考え――すぐにやめた。
「……ま、いっか」
軽く息をつく。
「布団一個しかないから、狭くてごめんね〜」
押し入れから布団を引っ張り出し、そのまま二人で潜り込む。
少女は、初めてその感触に触れた。
柔らかさ、温もり、包まれるような安心感。
しばらく動かず、その感覚を確かめる。
(Xちゃん…めっちゃ胸触るじゃん…)
本来、少女に睡眠は必要ない。
それでも――
この夜だけは、目を閉じた。
翌朝。
「やばい!アラームかけ忘れた!」
慌ただしい声で、部屋の空気が一気に動く。
少女は目を開ける。
すでに早江は着替えを済ませ、慌てて支度をしていた。
「ごめんXちゃん!ご飯は冷蔵庫にあるから、レンジでチンして食べて!」
干してあったスーツに袖を通し、そのまま玄関へ向かう。
「いってきます!」
勢いよくドアが閉まった。
静寂が戻る。
少女はひとり、部屋の中に残された。
立ち上がり、初めて見る太陽を見た後に、部屋の中を見回した。目に映るものすべてが未知で、ひとつひとつに手を伸ばして確かめていく。
そのとき、指が偶然リモコンに触れた。
カチッ、と音がして、突然テレビがつく。
不意に流れ出した音に、少女の体がわずかに跳ねた。だがすぐに視線を戻し、画面を見つめる。
そこでは人間が話していた。
音の並び、発音、抑揚。意味のある音が繰り返されるのを、少女は逃さず拾っていく。
やがて、口が動いた。
「お……おあ……よう……おは……よう」
まだ不安定だが、確かに言葉になり始めていた。
早江が帰ってくるのはいつも遅い。終電間際、日付を跨ぐことも珍しくない。
少女にとって、その時間は言語を習得するには十分すぎた。
0時10分。
「ごめーん!遅くなった!」
ドアが開き、早江が帰ってくる。そのまま冷蔵庫を開け、買ってきた半額弁当を入れようとして手を止めた。
「あれ?食べてないの?」
返事はないと思いながらも声をかける。
「私に食事の必要はないが?」
一瞬、思考が止まる。
今のは確かに日本語だった。そして、それを発したのは朝まで喋れなかった少女。
ゆっくりと振り向く。
「……喋れたの!?」
少女は淡々と答える。
「あれのおかげだ。名称は不明だが」
指差した先では、テレビが音を流し続けていた。
「本買った意味ないじゃん……」
早江がため息まじりに言う。
テーブルに置かれた袋の中には、あいうえお順で並んだ日本語の本が入っていた。
少女はそれを一瞥する。
「私の言語も、まだ不完全だ。利用させてもらう」
淡々とした口調だった。
早江は一瞬だけ言葉を失う。
(……私より日本語上手じゃん)
喉まで出かかった言葉を、そのまま飲み込む。
「……そっか。まぁ、使うならいいけど」
軽く視線を逸らしながら答えた。
少女はすでに本に手を伸ばしている。
ページを開き、そこに並ぶ文字を追い始めた。
早江はテーブルに肘をつき、少女を見る。
「Xちゃんの、本当の名前って分からないの?」
少女は少しだけ考えるように視線を落とした。
「私の名前は“X”としか聞いたことがない。ガラス越しに、博士がそう呼んでいた」
「そっか……本当の名前は分からないのかぁ」
小さく息をつく。
そのとき、少女が本のページを指で押さえた。
「この文字は、何と読む?」
「ああ、それは『を』。ボールを拾う、みたいに動作をつなぐときに使うんだよ」
少女は一度だけ頷く。
「そうか。感謝する」
また視線を本へ戻した。
早江はその様子を見ながら、少しだけ考える。
名前を知らない少女。
けれど、今は“Xちゃん”で通じている。
――それでいいのかもしれない。
食事と風呂を終え、二人は寝る支度をする。
「あ……布団買うの忘れた……」
早江がぽつりと呟く。
「問題ない。私は、こっちの狭い方が好きだ。」
「そ、そう?」
思わず聞き返す。
けれど、その言葉に、少しだけ胸の奥が軽くなった。
二人は同じ布団に入る。
体温が近い。距離も近い。
しばらくして、少女が手を伸ばした。
早江の腕に触れ、そのまま輪郭を確かめるように指を動かす。
「人間は、なぜ個体ごとに体の構造が異なるのだ?」
「うーん……個性、かな」
曖昧な答えだった。
少女は一瞬だけ考え、納得しきれないまま小さく頷く。
そのまま、視線を下げた。
「では、君のこの胸部の大きさも個性なのか」
「……触んじゃない」
即座にチョップが落ちる。
軽い音がして、少女の動きが止まった。
「そういうのは触らなくていいの」
淡々とした声で言いながら、早江は布団にもぐり込む。
少女もそれ以上は触れず、そのまま横になった。
静かな時間が流れる。
同じ布団の中、わずかな温もりだけが残っていた。




