化学部
猫羽前がパンを二口食べている間に、紬は入部届を書き終えた。
ペンを置く。
(書くのはっや……)
隣で見ていた猫羽前が、わずかに目を見開く。
「では、職員室に行ってくる」
「さっさと行け」
素っ気ない返事。
紬はそのまま席を立った。
⸻
職員室。
「再び失礼する。入部届を書き終えた。受理をしてくれる所はどこだ?」
昼食中の教師たちが一瞬だけ視線を向ける。
その中で、三木咲先生が手を挙げた。
「あ、こっちこっち。もう書き終えたの?」
紬から紙を受け取り、軽く目を通す。
「確認するね……」
視線が止まる。
(化学部か……)
ほんの一瞬、表情が変わった。
すぐにいつもの笑顔に戻る。
「これは後で顧問に送っとくね!見学とかするなら――」
少しだけ間。
「くれぐれも気をつけてね……」
その言い方が、どこか引っかかった。
「……何に対しての注意だ?」
紬は率直に聞く。
「え?あー……」
三木咲先生は少しだけ言葉を選ぶ。
「薬品とか扱うからね、危ないでしょ?」
笑って誤魔化すように言う。
だが――
さっきの一瞬の間と、わずかな声のトーンの違い。
紬はそれを見逃さなかった。
「承知した」
そう答えつつも、
(それだけではないな)
内心で結論づける。
放課後、紬は化学部の部室――実験室へ向かった。
廊下を歩いていると――
ドンッ!!
勢いよく人が外へ吹き飛んできた。
「痛てっ!」
床に転がるその人。
「大丈夫かい?」
紬が声をかける。
「あぁ……ありがとう……」
起き上がりながら、苦笑いを浮かべる。
紬はそのまま実験室の中へ視線を向けた。
黒板には大きく書かれている。
『空気砲で人は吹っ飛ぶのか』
そして室内では――
煙、散乱した器具、何かを測定している生徒たち。
「もう一回いけそ?」
「次は角度変えてみようぜ!」
「被験者募集ー!」
騒がしい。
(判断を誤ったな……)
紬は冷静にそう結論づけた。
その時。
「お、新入り?」
中から一人の生徒が顔を出す。
白衣姿で、どこか楽しそうな目をしている。
「見学?」
「あぁ、その通りだ」
「いいねぇ、ちょうど人手足りてなかったんよね」
嫌な予感がする言い方。
紬は一瞬だけ考える。
(撤退も選択肢だが……)
「何をするのだ?」
「簡単簡単、そこ立ってくれればいいだけ」
指差されたのは――
さっき人が吹き飛んだ位置。
「なるほど」
紬は頷いた。
「承知した」
「マジで言ってる?」
先ほど吹っ飛ばされた生徒がツッコむ。
「ここに立てば良いのだな?」
「うん、そこでぴったし!」
紬が指定された位置に立つ。
ふと、思い出したように口を開く。
「挨拶が遅れた、私の名前は雨み――」
ドンッ!!
空気砲が発射された。
紬の体がそのまま後方へ吹き飛ぶ。
開いていた廊下側の窓を突き抜け――外へ。
ドサッ。
校舎の外、地面に着地する。
一階だったのが幸いだった。
数秒後。
窓から顔を出す化学部員たち。
「流石に威力上げすぎた!大丈夫!?」
紬はゆっくりと立ち上がる。
制服の砂を払う。
「問題ない」
平然とした声。
そのまま、何事もなかったかのように歩いて戻ってくる。
(骨折してもおかしくないレベルだったんだけど……)
部員の一人が小声で呟く。
「え、今のノーダメ?」
「人体ってそんな強かったっけ……?」
ざわつく部室。
紬は窓から中へ戻り、再び同じ位置に立った。
「続けるのか?」
「いやちょっと待て!?」
一斉にツッコミが入る。
「体頑丈すぎない!?鍛えてるの?」
「鍛えたことはない」
「髪真っ白……アルビノ?」
「アルビノとやらは知らないが、違う」
「すげぇ目の色……カラコン入れてんの?」
「カラコンも知らないが、入れてない」
次々と飛んでくる質問。
紬は一つずつ、淡々と処理していく。
さっきまでの“実験対象を見る目”とは違う。
純粋な興味。
(この環境は……悪くないな)
そんな結論に至る。
その時、ふと思い出す。
『20時までに帰らないと補導されるから気をつけてね』
(時間には余裕がある)
紬は時計を見る。
まだ日は高い。
「見学は可能か?」
改めて尋ねる。
「あ、全然いいよ!むしろ歓迎!」
白衣の生徒が笑う。
「さっきの続きもやるし、他にも色々あるからさ」
「爆発以外もあるぞ!」
「いや爆発もあるけどな!」
軽いツッコミが飛ぶ。
紬は頷く。
「では、観察させてもらおう」
その言葉に、部員たちの目が少し輝く。
「いいね、その言い方」
「観察される側かと思ったら逆だったわ」
笑いが起きる。
紬は静かにその光景を見ていた。
(ここには“恐怖”よりも“好奇心”がある)
それが、他の場所との違いだった。
紬は様々な実験を見て回った。
瞬間接着剤と自作の接着中和剤を混ぜる実験。
静電気でどれだけの電流が出せるのかという検証。
煙、光、予測不能な結果。
どれも――紬にとって未知だった。
(なんだ……この高揚感は……)
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
理屈では説明しきれない感覚。
「紬ちゃん、明日も来る?」
「あぁ、行く予定だ」
即答だった。
「放課後また来てね!」
「そうさせてもらうよ」
自然と出た言葉。
「あと……自己紹介遅れたね」
一人の女子生徒が前に出る。
白衣の袖を軽く払って、にこっと笑う。
「私の名前は月下桃華!化学部の部長してるよ!」
「雨宮紬だ」
短い返答。
だが――
ほんの少しだけ、その声は柔らかかった。
気づけば、時刻は18時。
「そろそろ帰らねば……」
「部活も終えるところだったし、丁度良いね」
「あぁ、また明日来るよ」
「さよなら!」
廊下で手を振る。
紬も軽く手を上げ、それに応えた。
そのまま下駄箱へ向かい、靴を履き替えて帰路につく。
⸻
家の扉を開ける。
静かな室内。
紬は電気をつけ、ソファに腰を下ろした。
本を手に取り、ページをめくる。
テレビもつけながら、時間を過ごす。
(こうして待つ時間も……悪くないな)
やがて――
ガチャッ。
「ただいまぁ!今日は珍しく残業なかった!」
明るい声が部屋に響く。
「おかえり。残業がないのは珍しいことだね」
「なんか上機嫌じゃん、学校でいいことあった?」
早江が靴を脱ぎながら、興味津々に聞く。
紬は少しだけ間を置いてから答える。
「学校で居場所を見つけたよ」
そして、続ける。
「更に、友と呼べる関係も見つけた」
早江の動きが一瞬止まる。
「……そっか」
優しく笑う。
紬はそのまま、今日の出来事を語り始めた。
化学部のこと。
実験のこと。
そして――人が吹き飛んだことも。
「楽しそうで何より」
早江はどこか安心したように言う。
(化学部……とんでもない部活だなぁ……)
内心で苦笑する。
一通り話し終えた後、紬は小さく息をついた。
「あぁ、今日は良く眠れそうだ」
「眠る必要ないのにね!」
「必要はないが……したくなる」
少しだけ考えてから、そう付け加える。
早江はくすっと笑った。
二人は食事を済ませ、入浴を終え、寝る準備に入った。
布団を並べ――いや、重ねて。
いつものように、二人で一つの布団に入る。
少し狭いが、その分距離が近い。
「明日も学校行けそ?」
早江が横を向きながら聞く。
「あぁ、待ち遠しいくらいにね」
即答だった。
「そんなに?」
「未知が多い環境だ。学習効率も高い」
いつものような理屈。
だが――
少しだけ、声が柔らかい。
「それだけじゃないだろ〜?」
早江が少し意地悪く笑う。
紬は一瞬だけ考える。
「……人と関わるのも、悪くない」
小さく付け足す。
早江はその言葉に、少しだけ目を細めた。
「そっか」
部屋の電気が消える。
暗闇の中、静かな時間。
紬は天井を見つめながら思う。
(明日が来るのが楽しみだ)
その感覚を、確かめるように。
ゆっくりと目を閉じた。




