第四章 最初の依頼――選別
I
穂希は赤系統の糸をとりあえずすべて外に出してみた。赤、ピンク、臙脂色、薄桃色など、使えそうな色はすべて外に出す。
それから少しだけ悩み。
……桜、か。なら、白も使えそうだな。他にも欲しい色があれば、後で出してみるか。
白も追加で出して箱には蓋をした。
そして、取り出した糸を糸ごとに並べる。糸には様々な種類があって、それだけでも華やかに見えた。
「随分と糸の種類があるのですね」
月読命が興味深そうに糸を眺める。見たこともないものばかりなのだろう、目が輝いて食いつくように眺めていた。
穂希は頷いてから指折り数える。
「ミシン糸、刺繍糸、にしきいと……。私が使うのはそれぐらいだな。ミシン糸や刺繍糸だけでも色の種類はかなり多いし、手まりに何色の色を使うかも重要になってくる。一つ、二つと限られた色だけで作ることもあるが、どちらかと言えば何色か重ねることが多いかな」
穂希は取り出した糸をまずミシン糸、刺繍糸、にしきいとで固めた。それから、じっと見つめて。
「とりあえず、用途ごとに糸の色を使い分けないといけないからな。まずは糸の色を固める。針を使う前にこれが大事だと私は思っている。作り始めてから糸を選ぶと時間がかかるし、なんと言ってもイメージが崩れやすい。イメージを固めた後、色も固めておくと良いだろう。私が普段から手まりを作る時も、針を使う前に色を決めるようにしている」
穂希は糸を眺めながら告げた。
今並べた糸をすべて使うわけではない。ここから必要な色を選別して、それを使って手まりを作るのだ。すべて出してから選別しないと、糸の偏りが大きくなる。穂希が思い浮かべている手まりを現実に作り上げるためにも、まずは使いそうな色をすべて出すようにしていた。
糸が並べられている光景、この光景を見るだけでだいぶ気分が上がっていた。
ミシン糸も多いが、何より刺繍糸は色の種類が多い。グラデーションが簡単にできるほどに、一つの色が薄くから濃くまで細かく分けられているのだ。
一つの固まり、いや、一つの糸の束自体はそう高くない。子どものお小遣いでも十分買えるほどの金額だ。だが、色すべてを揃えようとすれば莫大な金額を叩き出すこととなる。
特に、よく使う色は一回の会計でまとめて二束、三束ぐらいは購入することになるし、糸だけでかなりの量を買えば万札が軽く飛ぶ。
穂希も気をつけて購入するものの、調子に乗るとレジで驚愕するほどの金額となっている。
それぐらい糸は種類が多く、そして魅惑的であった。
特に、刺繍糸は光沢を放っていて輝きが増しているように見える。
穂希にとっては、宝石のような輝きだ。
それほどまでに目が惹かれる存在なのである。
穂希が少しばかり思考の海に潜っていれば、隣で説明を聞いていた月読命がふむと頷いて。
「……手まりって、それほどまでに糸によって用途が違うのですか?」
穂希はその言葉にピシッと固まる。それから。がっくしと肩を落として。
「……本当に、何も知らないんだな」
まあ、そんな感じはしていたが。
本気でここまで知らなかったのだと分かってしまえば、多少なりとも予想していても項垂れてしまうもの。もはや、呆れを通り越して諦めに近くなっていた。
すると、月読命は頬を膨らませて抗議の声を上げる。
「だから言ったじゃないですか! 何も知らないですって!」
「威張るところじゃないだろう」
穂希は一つ息をつく。そして、説明をしようと三本の指を立てた。
「手まりは大きく分けて三つの要素で成り立っている。一つは土台、これは私の場合ミシン糸で基本作っているな。あまりほかの糸は使わない。二つ目が花と呼ばれる模様だ。これは主に刺繍糸。そして、三つ目が帯と呼ばれる部分。帯は刺繍糸とにしきいとを使うことが多いな」
穂希が端的に説明をすれば、月読命がぱちくりと目を瞬いて。ポツリと言葉を零した。
「……そんなにいろいろと行うことが多いんですね。驚きです」
呑気に言うもんだから、穂希はまた力が抜けてしまって項垂れた。大きくため息をつきながら頭を抱えて力なく言葉を紡ぐ。
「……月読命、念のため先に言っておくが、手まりはすぐにできるわけじゃないからな」
「え、そうなのですか!?」
「そこからか」
穂希はこれまた骨が折れるなと遠い目をする。
しかし、ここまで何も調べずに来ているとは思わなかったな……。
穂希が手まりを作り始めてはや数ヶ月。ようやく慣れてきて、人並みに作れるようになってきた頃だ。
とは言っても、他人が作っているところを見たことがないため、何とも言えないところではあるのだが。
作り慣れてきているとは言っても、手まりを作るにはいくつか工程がある。そして、時間もかかるわけで。
早くに作ろうとすれば、模様の位置がズレたり、形が歪になってしまったりすることがある。せっかくの手まりが残念な結果に終わってしまうことになるのだ。
そうなるぐらいなら、ゆっくりと時間をかけて丁寧に作ったほうが良い。
穂希はそう思っていた。
それに、と次いで思う。
相手に渡すのであれば、なおさら丁寧に作りたいしな……。
穂希はそれだけは譲りたくなかった。
何せ、自分だけで楽しむのとはわけが違う。
少しでも綺麗に作れるのであれば、綺麗に作れるほうを選びたい。
ただ、穂希の思いとは裏腹に、目の前の男はすぐに作れるものだと思っていたようだ。
認識の差がありすぎるな……。
どこまで目の前の男に説いておけば良いのだろうか。いまだにそこがよく分からずにいる。
しかし、作り始めてからああだこうだと口を挟まれるのは避けたいな……。
作る時にはできるだけ集中する空間を作りたい穂希だ。基本的に余所事を考えるようなことはしたくない。
そういえば、と穂希は今さらながらに思った。
月読命へと視線を向け、そして静かに問いかける。
「……今さらではあるんだが、これってそもそも期限があるのか?」
穂希が尋ねてみれば、月読命は気まずそうに視線を逸らした。「おい、」と穂希が低く呼べば、月読命は壊れたブリキのように首を動かして。そして、言いにくそうにボソボソと小声で告げていく。
「……その、すぐにできるものだと思っていたので。ただ、なるべく早くに、としか……」
「アバウトだな、全体的に」
今さらだが、面倒なことを引き受けてしまったかもしれないな……。
穂希はやれやれと肩を落とす。だが、今回の件に関しては、自分も確認を忘れていた。早くに確認していればこの認識の差は生まれなかったかもしれない。
月読命だけを責めることではない。自分が抜けていたことに違いはないのだから。
そう、違いないことではあるのだが。
穂希は静かに頭を抱える。何だか急に頭痛がしてきたような気がしていた。
Ⅱ
穂希は一度頭を働かせ、悩んだ末にとりあえず自分が知っていることや作る時に気をつけていること、気にしておきたいことなどを伝えておこうと考えた。気まずそうにしている月読命を捕まえて、再度向かい合って座り直す。
穂希はまず先にと口を開いた。
「……先に言ったが、手まりはすぐにできるものじゃない。土台製作、位置付け、模様付けや仕上げなど工程はいくつかある。すでに慣れている作り方なら丸一日時間を使えれば余裕だろうが、そうじゃなければ下手したら一週間以上時間がかかるぞ」
「い、一週間ですか!?」
月読命は想定外だったようだ。大声を上げて、大袈裟にショックを受けている。
穂希は痛む頭を押さえた。
こいつ、自分の都合しか考えていなかったな……、多分。
穂希は「あのなあ、」と切り出した。
「……月読命、私は基本的に仕事なんだ。土日祝日休みだから、基本的に平日はすべて仕事だ。そうなれば、平日は仕事から帰ってきてだいたい一、二時間時間が取れるかどうかってところだな。毎日休みだとか、時間が取れるとかならまだしも、仕事がある人間にすぐに作ってくれは酷な話だぞ」
「仕事でも期限があって、二、三日は猶予があったり、相手の都合が考えられたりしてあるからな」と穂希は付け加える。
これは本当のことだ。
仕事でもすぐにできるものとできないものがある。大抵の仕事に期限は付き物だし、相手の都合もあるから仕事の割り振りも行われる。理不尽な仕事の振り方もあるようだが、穂希の職場は基本的に協力体制だ。お互いでお互いのスケジュールを確認し、助け合いが発生することもしばしば。働きやすい職場と言って良いだろう。
月読命は穂希の説明を受けて「そう、なのですね……」と悲しそうに呟いた。妙にショックを受けているようである。
これには穂希のほうが想定外だった。そんな顔をされるとは思っていなかったのである。
そして、一つ予想が頭を過ぎった。
もしかして、神様って意外と知らないこと多い、のか……?
穂希の中のイメージでは、神様は何でも知っている、とされていた。それこそ、同じ神様のことだけでなく、人間やこの世の万物のすべてに対して詳しいかと思っていた。
だが、そのイメージは違っていたらしい。目の前の神様である月読命は、穂希たち人間の暮らしについても疎いらしかった。
お守りにしたいと望んだ手まりのことも、人間の生活のことも、そして依頼しに来た穂希の生活のことについても知らなかったのだ。
ただ、お守りを早くに渡してあげたいと、そう考えて行動に重点を置いたのかもしれない。
善は急げとばかりに、動いたのかもしれなかった。
ということは、と穂希は一つの推測を立てる。
もしや……、これは手まりの製作どころの話ではなくなったのではないか。
穂希はそれを考えて、さらに肩の荷が重くなったことを自覚した。仕方がないとばかりに重たい口を開く。
「……分かった、とりあえず先に私の生活のことを話そう。……基本的に平日五日間は仕事。朝は七時過ぎには出るし、帰宅はだいたい十八時半前後といったところか。夕飯だって食べたいし、風呂だって入りたい。その時間と就寝時間もあまり変更はしたくないな。次の日の仕事に影響が出るような生活スタイルにはしたくない。私にも私の生活があるからな」
「うっ……」
月読命は痛いところを突かれたらしい。
呻き声が聞こえるが、穂希は気にすることなく続けた。
「休日は基本的にどこも出かけないことが多い。買い物はだいたい金曜日の夜に行ってしまうからな。その時だけは帰りが遅いだろうが、休日は基本的に製作時間として使えるはずだ。土曜日なら次の日も休みだから、多少遅く起きていても問題はないだろう。ただ、徹夜はしないぞ。それこそ、製作に影響が出るだろうからな」
「……人間って、大変なんですね」
月読命はしょんぼりとしながら告げた。思った以上にダメージを食らったようである。
何も考えてないのか、無知だからこその行動なのか……。
そう思いながらも、穂希はそれよりも気になることがあった。
「……神様だって仕事はあるだろうに。私たちとは違うのか?」
月読命は問いかけられて、おずおずと頷いた。視線は俯いたままで、言いずらそうにポソポソと答える。
「私たちの仕事は、結構融通が効くと言いますか……。いつ動いても良いし、期限にさえ間に合えば良いという感じで……。それこそ、一日に長いこと働く者のほうが少なくて、ですね……」
「……さすがというか、なんというか。でも、期限はあるんじゃないか」
穂希はもっと言いたいことが心の中で渦巻いていたが、それは心の中に留めた。内心苛立ちを覚えたものの、外に出さないように努める。
良いご身分、って思うぐらいは許してもらうとして。人間の仕事とは違いすぎて、分からなかったってところか……。
穂希はやれやれと肩を落とした。
神様だと言うだけはある。随分と良い待遇のようだ。融通が効く、というよりも、元からルールやら規則やらというものが少ないのだろう。
……羨ましいものだ。
穂希は冷たくそう思った。
自分たちもそんなことができるのであれば、そうなりたい。
誰もが一度は働かずにお金が手に入らないだろうか、そう考えたことがあるはずだ。
働くことは辛く、厳しいことが多い。職場一つでかなり環境も変わってくるし、ストレスの感じ方も違ってくる。それだけでも社会は厳しいものだと思うほどだ。
だが、現実は甘くない。働いた分だけ、金銭は給料として貰える。
会社で働かせて貰っているのだ、それは対価として自分たちに返ってくる。そして、生活ができるわけだ。
それでも、この世界では最近犯罪に手を染めて金銭を得ようとする者も出てきている。連日ニュースで見かけるようになった。
だが、そんな非人道的なことは絶対にしたくなかった。
だからこそ、穂希は金銭を給料として得るために、会社で働かせて貰っている。それは今後も変わることはないだろう。
……さて、理不尽な怒りを覚えている場合ではないな。
月読命が悪いわけではない。ただ、穂希と住む世界が違うだけというわけで。
ならば、穂希が月読命と向き合うしかないのだ。
穂希はその覚悟を決めた。
知ってしまっては引き下がることはできない。
すべての擦り合わせを先に行う必要がある。それを痛いほど理解した。
穂希は説明することをまず頭の中で組み立て、向き合うことにしたのであった。
Ⅲ
「さて、私の生活に関しては大抵のことを話したから、次は手まりについて詳しく話すぞ」
穂希は月読命へ話しつつ、人差し指を立てた。
月読命はいつになく真剣な表情をする。彼もまた知ることが多いことを理解したのかもしれなかった。
穂希は「まず、」と告げる。
「一つ目の土台、からだな」
穂希は自身の裁縫道具に手を伸ばし、そこから小さなものを手にした。そして、それを手のひらに乗せて月読命へと見せる。
そこにはコロンと小さな球体があった。よく見てみれば、それは糸でできている。青い糸がぐるぐると巻いてある上には、鳥籠のように白い糸が張り巡らされていた。
月読命はキョトンとしてその球体を覗き込む。
「……これは?」
「これが手まりの土台だ」
「これが、ですか……!?」
月読命は予想以上に驚いていた。目をこれでもかと見開いて、ジロジロと球体を観察する。
わずか直径八センチ。穂希の手のひらでビー玉のようにコロンと転がっているそれが、まさしく手まりの元となるものであった。
穂希はその手まりの元に視線を落としながら告げる。
「これはちょうど私が作りかけていた手まりだな。ちょうど土台が作り終わったところだ。だいたいこれで一時間程度といったところか。もう少しかかる時もあるが」
「これで、一時間……」
「じゃあ、問題。こいつの中身は何でしょうか?」
穂希は手まりに指を差しながら月読命へと問題を投げかける。
手まりの表面は糸が張り巡らされている。糸が使われていることは確かだ。
一見、見た目は糸の塊だ。
だが、実際の中身は違う。
それを月読命には知ってもらわないといけない。だからこそ、時間がかかるのだということも――。
月読命はしばらくうんうん唸って考えていたが、じっと手まりを見つめてからポツリと答えた。
「……本当は、糸だけ、とかでしょうか」
「正解は綿」
「わ、た……?」
また予想外の答えだったらしい。固まった月読命はポカンと口を開けている。
穂希は説明を再開した。
「正確に言えば、綿にミシン糸を巻き付けている。それを綺麗な球体にしながら必要なサイズに近付けていくんだ。私の場合は直径八センチ、そのサイズばかりを製作している。それと、この鳥籠みたいだ糸は、後々模様を付けるために必要な位置付けと言ったところだな」
穂希はそれから自分の考えを告げる。
「私はこの中に人の願いを込めるつもりだ。綿で包んで中心に入れる。極力、人の願いに傷をつけたくはないからな。中心ならそれほど――あ」
穂希は自身で考えを述べながらあることに気がついた。今さらながらに思い出して、頭を抱えてしまう。
月読命は急に説明が止まったことを不思議に思ったようだ。首を傾げて問いかけてくる。
「どうしたのですか?」
「……しまった、忘れていた」
「何をですか?」
穂希はため息混じりに月読命を見上げる。そして、確認のために問いかけた。
「……これ、最終的にはキーホルダーとかになるんだよな?」
「? きー、ほるだー……?」
「そこからか」
穂希は思考を巡らせ言葉を探す。
キーホルダーぐらいは知っているかと思っていたが、それも読み間違えたらしい。月読命が分かりそうな言葉を探すために頭を捻る。そして、見つけた言葉で説明してみることにした。
「……そう、だな。紐、とか、根付、とかなら分かるか? 要は、この手まりを何かしらの形にして鞄とかに付けられるようにってことを考えているかってことなんだが」
「……っ! そうですね、その形のが良いです!」
穂希は目の前で嬉しそうに頷く月読命を見つめる。こくこくと頷いている月読命は何だか子どものようで、けれど喜びようが大型犬のようにも見えた。
それにしても、と思う。
……教師って、大変な仕事なんだな。
相手に伝わるように説明をする。その難しさを現在進行形で実感しているところだ。
普段、話が通じる相手とばかり話していると感覚が麻痺してくるが、本来多種多様、年齢や性別すら違う人々が世界にはたくさんいるのだ。話が通じない人がいたとしてもおかしくない。
それこそ、穂希が子ども相手に話したところで、子どもは質問攻めにしてくるだろうし、逆に穂希も子どもの話をどこまで理解できるかは予想できない。
子どもと触れ合うこと自体が少なくて、そんな想像すらしたことがなかったが、よく考えてみれば有り得ない話ではないのだ。
まあ、今相手にしているのは人……ではなく神様なんだが……。
細かいことは置いておこう、そう思いつつ穂希は月読命に話が通じたところで説明を再開することにする。
「その根付などを付ける時に、手まりの中に九ピンなどの金具を貫通させてから根付などをつけたり、簪なんかの形に加工したりするのが一般的なんだよ」
「……手まりの糸にそのまま付ける、というわけにはいかないのですね」
月読命の言葉に、穂希は頷いた。
「一度試したことがあるんだが、糸に丸カンっていう金具を付けたらすぐに取れてしまってな。手まりも安定しないし、それこそ手まり自体をなくすことも多かったんだ。だから、必ず手まりの中に金具を貫通させて固定できるようにしているんだが……。そうなると、願いを綿の中心に入れるってことが難しくなるな」
「それに、手まりは玉止めもほとんど使わないからな。失念していた」と穂希は続ける。
これは一から考え直しだ。考えが足りなかったと、今さらながらに後悔する。まだ作る前だったから良かったが、もう少し案を練り直さなくてはならないようだ。
月読命は首を傾げた。
「……どうして今の会話に玉止めが関係してくるのですか?」
「玉止め自体は知っているんだな?」
穂希が確認すれば、月読命は頷く。まったく無知というわけではなさそうだった。
穂希はふむと頷きながら、顎に手を添えて答える。
「玉止めというのは、手芸の基本的な糸の始末方法で、縫い終わりにするものだろう?」
穂希の言葉に、月読命は肯定した。頷く姿を目に留め、それから続ける。
「手まりは返し針と言って、かがり終わり――つまり縫い終わりは玉止めをすることなく何度か綿の中に針を通すことによって糸を解けないようにしてから糸を切るんだ。そうすることによって綿に糸が絡まって解けなくなるし、何より玉止めの玉がないから見た目が綺麗になるんだよ」
まあ、返し針の理由自体は、自己流なんだがな。
基本的に書籍に忠実に作っている穂希だが、返し針についてはやり方は記載があるものの、その方法を使用する理由までは記載がなかった。
そのため、返し針を行う理由は穂希なりの解釈だったのである。
だが、返し針を行うと本当に手まりの見た目が綺麗になるのだ。
かがり始めは玉結びを行う。それは糸が抜けないようにするためだ。この玉結びですら、玉を小さめに作っておかないと手まりの中に隠そうとしても目立つことがある。中に押し込めない時もあるが、見た目を綺麗にするために無理やり押し込むこともしばしばだ。
細かいことではあるのだが、手まりを綺麗に作るために必要なことの一つなのである。
だが、今の問題はそこではなかった。
「どうするかな……。人の願いに傷をつけるなんてことは絶対にしたくないし……」
だが、そうなると願いをどこに入れるかなんて思い付かなかった。
基本的に糸はかがるだけ。願いは球体だし、何より人の思いに通ずるものだ。それをどんな理由があろうと自分が傷つけて良い権利などあるわけがない。
できれば、一つの傷もつけることなく相手の想いを渡したいと思う。
どうする……。
穂希が黙って悩んでいれば、急に月読命が笑った。そして、安心させるように優しく言葉を紡ぐ。
「大丈夫ですよ」
何の根拠もないように聞こえたそれに、穂希はつい言い返そうとした。
「お前、それは――」
だが、穂希の言葉を遮って、月読命は断言した。
「大丈夫です。針が願いを守ってくれますから」
「……は?」
穂希は聞き間違いかと思った。月読命が何を言っているのかが理解できなかった。
針が、願いを守る……?
穂希が動きを止めていれば、月読命は気にすることなくさらに続けた。
「それに、人の願い自体が傷つくことは絶対にありませんから」
「いや、そういうことじゃなくてな……。気持ちの問題というか、良心が痛むと言うか……」
「なら、穂希さん。願いに触れて見てください」
月読命は願いの球体を手のひらに乗せたまま、穂希へと近付けた。
穂希は目を疑う。正気か、そう思った。
だが、月読命に引く気配はない。
穂希は月読命と願いを交互に見比べて、恐る恐る手を伸ばしてみた。人差し指でちょんとつつこうとする。
すると、どうだろうか。
「……あ、れ?」
穂希がつつこうとすれば、願いである光の球体がそれを避けるように下がったではないか。近付くものに対して一定の距離を保とうとしているように見えた。
穂希が目を見開く中、月読命はふふふと笑って。
「人の願いには、私たちでも触れることができないのです」
「……は」
いや、月読命は触れているはず……。
穂希はそう思いつつ月読命の手を観察した。
すると、確かに月読命も願いに触れてはいなかった。願いを手のひらに乗せているのかと思っていたが、その手の上で浮いているだけであった。これも一定の距離を保って浮いているようだった。
月読命は説明する。
「願いは、本来の持ち主しか触れることはできません。それ以外の人やものからは自力で避けようとします。本能、と言っても良いかもしれませんね。彼ら自体が、傷つけられることを嫌がるための行動をするのです」
「なので、大丈夫です」と月読命は締めくくった。
穂希はその言葉に「そう、なのか」と納得しつつも、何だか腑に落ちなくて。悩んだ末に、言葉を発した。
「……それって、マジックの剣を刺すのを避けました、みたいな感じだよな。……結局のところ、良心が痛むことには変わりないんだが」
「……その、まじっくってどんなものですか?」
穂希の言葉に、月読命が何度目か分からない問いかけをする。首を傾げているのを見るに、本気で言っているのだろう。
穂希はもう良いとばかりに力なく首を横に振る。すべてを相手にしていたら、いくら時間があっても足りないように思えてしまうのであった。
IV
穂希は気を取り直して先を告げる。
「さて、じゃあ色の選別に戻るぞ。ほかの糸の使い方だとか、作り方は実際にやりながら説明することにする。後で説明するから、とりあえずは見といてくれ」
穂希がそう告げれば、月読命は頷いた。
先ほどの会話を思い出す限り、話しながら質問を受けながらだと時間がかかり過ぎてしまう。あまり製作の時に集中力を欠けさせたくはなかったが、いつまでも手まりの製作ができないのも困りものだ。
そのため、苦肉の策として、そうすることにした。
月読命は穂希に「色はどうするのですか?」と問いかけてきた。
それぐらいなら、と穂希はとやかく言うことなく「そうだな」とだけ返す。
今回のイメージは桜だ。桜といえば、ピンクのイメージが強い。
だが、ピンクだけではありきたりだろう。白やほかの色でも作ることはできる。同系色でまとめるのも良いが、ほかの系統で作るのも良いだろう。
「……土台は赤にするか。模様を白やピンクで、グラデーションも良いかもな……。あとは帯だが……。帯は金でも良いかもな。にしきいとがあったはずだ。金の上に濃い……そうだな、臙脂色とかで締めくくっても良いかもしれない」
「……?」
「後で説明してやる」
月読命が分からないといった表情で、疑問符をたくさん飛ばしているので、先に釘だけ刺しておいた。
何だか大きな子どもを相手にしているようで、妙に疲労感を覚えていた。
だが、これで準備は整った。
穂希は選別して、並べた糸を見てワクワクしていた。使わない糸は箱に戻して、机の上には必要最低限のものを並べておく。
裁縫道具、綿、糸たち……。針山には月読命から預かった針が刺さっていることも確認済みだ。
これでようやく、製作に取りかかれる……。
穂希の至福の時間が、今、これから始まろうとしていた――。




