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試練の前

 無言のまま、篠宮少年と並んで、篠宮少年の机を運ぶ。篠宮少年には、聞きたい事が山程あったが、なかなかキッカケが掴めずにいた。


「ねぇ、須山先生と付き合ってたの?」


 最初に沈黙を破ったのは篠宮少年の方だった。


「ええ、結婚を考えてました。

 篠宮さんの担任だった頃の須山先生は、どんな先生でしたか?」


「優しくて、よく笑う、でも、ダメな事はダメって、ちゃんと言ってくれる、いい先生だったよ」


「そうですか。

 それは、私の知っている須山先生と一致します」


 私は、篠宮少年に、そう言って笑って見せた。


「篠宮さんは、試練を越えたら、どんな過去を変えるつもりですか?」


「僕、先生と違って、本当に死んじゃってるから…、死なないようにしたいなって…。お父さんの言う通りに、コップを割らなかった事にしたいなぁって思ってるんだ」


 愚問だった。

 私以外、みんな死者なのだ。

 となると、自分の死をなかった事にしたいに決まっている。


「…そうですか」


 ん?

 コップ?


 何か引っかかる。


「篠宮さん、コップってどう言う事ですか?」


「え?

 僕、コップを間違って割っちゃったから、死んじゃったんだ。

 だから、コップを割らなかった事にできないかなって…」


「いや、そうじゃなくて…、コップを割ったから死んじゃったって、コップを割った後、何があったんですか?」


「僕がコップを割っちゃったから、お父さんが怒って、僕に水をかけたんだ。

 それで、反省しなさいって、口にガムテープを貼って、ベランダに縛り付けられちゃったんだ。

 2月だから、まだ寒くて…、それで僕うっかり死んじゃったんだ」


 …なんとも言えない怒りが湧いてくる。


 今の話が本当なら、篠宮少年は、生前、虐待を受けて、死んでいた事になる。


「だから、もし過去を変えられるなら、コップを割らなかった事にしたら、死なないで済んだんじゃないかなって思うんだ」


 嬉しそうに話す篠宮少年を見て、本当は、この子は試練を受けずに、卒業を待った方がいいのではないか?と疑問が湧いてくる。

 うまく過去を変えたとしても、その父親の元に戻ったら、また同じ事が起きかねない。


「そうですか。

 ちなみに、よくあったんですか?

 水をかけられて、外に出されることは」


「ん〜、水を掛けられたのは初めてだったかな?」


 きっと、外に出される事は、よくあったのだろう。


「篠宮さんが、ずぶ濡れで外に出された時、お母さんは何をしてたんですか?」


「お母さん?

 お母さんは、僕が小さい時に死んじゃってるから…」


「…そうですか。嫌な事を聞いてしまい、すいませんでした」


「ううん。全然いいよ。ところで先生は?

 試練受けたら、どうするの?

 先生は、まだ死んでないんだから、試練を受けなくてもいいんじゃない?」


 その質問を聞いて、前から思っていた疑問を思い出す。


「その事なんですが、なんで私が死んでないってわかったんですか?」


 篠宮少年は、一目会った時から、私が生者だと気付いていたと思われる。

 なんてたって、七不思議に好かれそうと、私を見て言ったのだから。


「僕見ちゃったんだ。入学式の準備してる時、沢田先生を助けたでしょ?」


 吊り看板が落ちた時の事だろう。

 確か、あのせいで車の鍵を落として、手長足長に会う羽目になったのだ。


「あれ見て、あ、この人生きてる人なんだ、って思ったんだ。

 だって、死んでるって事を知ってる人は、びっくりはするだろうけど、死んだり、ケガはしないって知ってるから…、わざわざ助けたりしないからね」


「それだけで、わかったんですか?」


「うん。この学校に入る時に言われたんだ。

 時々、生者が紛れ込んでくるけど、絶対に死者の学校だってことを言わないようにって。

 だから、生きてる人が迷い込んでくるって知ってたから、その上で、あれを見たら誰だって思うよ。

 あ、生きてる人だって…」


 なるほど。そういえば邪も、この間女が一人迷い込んだと言っていた。

 私やその女性のように迷い込んできた者に、死者の学校だと悟らせないように、箝口令が引かれているという事なのだろう。

 そして、吊り看板の件でわかったという事は、そういう事でもない限り、死者か生者かの区別はつかないという事なのだろう。


「だから、帰りに体育館に向かう先生を見つけた時、なんとなく後をつけちゃったんだ。

 …生きてる人ってだけで、気になっちゃって…。

 そのおかげで、アレを見る事ができて、試練まで受けられるようになっちゃった」


 篠宮少年が、笑いながら話す。

 手長足長と遭遇した時のことを思い出し、思わず苦笑いが溢れる。あの時、篠宮少年が体育館に来た理由がようやくわかった。


「で、試練を受けたらどうすんの?」


 …


「…真琴を失った事故をなかった事にしようかと思っています」


「そっか。でも、須山先生は試練を受けても、その事故をなかった事にしなかったんだよね?」


 そう。

 そのせいで迷いが生じているのも事実だった。


 ただ、猿の手の回答に、試練で過去を変えることができるが、どう変わるかは選べないと書いてあった事から、単に過去の改変に失敗しただけの可能性もある。


「…しなかったんじゃなくて、できなかったって事も考えられます」


 私達は机を戻し終えても、その場に留まり、話し続けた。試練までには、まだ時間があるからだ。

 私は、児童用の小さな椅子に腰掛けて、たわいもない話をした。

 …が、篠宮少年は本当に試練を受けるべきか…、そればかり気になっていた。


「…篠宮さん。

 もし、コップが割れなかったとして…、それで篠宮さんが死ななかったとして…、またお父さんのところに戻りたいですか?

 試練を受けずに、卒業して成仏した方が、辛い目に合わずに済むんじゃないですか?」


 意を決して、聞いてみる。

 ここまできたら、彼とは教師と生徒というより、同志のようなものなのだから。


 篠宮少年は、困ったような、嬉しそうな、複雑な表情で、こちらを見る。


「うん。先生の言いたい事は、なんとなくわかるよ。

 でも、…お父さんなんだ。機嫌が悪い時は辛い事もあるけど…、とっても優しい時もあるんだ」


 それを聞いて、私は何も言えなくなってしまった。


 しばらくの沈黙の後、時計を見る。

 15:50を示していた。


 私は、音を立てて椅子を動かし、勢いよく立ち上がると、驚いて見ている篠宮少年に声を掛けた。


「時間です。行きましょう!」

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