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一体契約のテイマーと十三番窓口〜眠そうな学園生は、裏で魔物案件を片付ける〜  作者: じぇいじぇい


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第45話 水面の下(後編)

お読みいただきありがとうございます。


第45話、これで完結です。

 三日目の朝は、静かに始まった。

 人足たちは何も知らずに出勤してきて、堤の先端に誰もいないことに首を傾げた。三人の男も、木箱も灯りもない。監督は、上からの指図が来るのを待つ顔で堤の付け根に立っていた。

 対岸の葦の陰で、リオは濡れた服が乾くのを待っていた。

 隣でテッサが工具鞄を枕に眠り、その向こうでガルドが本当に寝ている。鞄の中のあかりは、光を小さくして休んでいる。水際にはちゃぷ。

 昼前、湿地の縁の方角から蹄の音が聞こえた。

 一頭では、なかった。

 葦の向こうから、馬に乗った一団が現れた。先頭に財団の紋の入った外套を着た兵が四人。その後ろに外套の男が一人。

 グラントだった。

 三日、と言った。三日目の昼に戻ってきた。

 グラントは馬を降りて、堤の付け根まで歩いた。歩きながら、対岸の葦を一度だけ見た。見えるはずのない葦の陰の覆面を見た顔だった。


「――この工事の、責任者は」

「……あんたか。財団の」

「今日は財団じゃねえ。国の使いだ」


 グラントは懐から一通の書状を出した。

 監督がそれを受け取って開いた。

 開いて、顔から血の気が引いた。書状の末尾に押された印を、監督は知っていた。この国に住む者なら、誰でも知っている印だった。


「……王印」

「国の中の水を、許可なく他国へ運び出した。それが理由で、この工事は今日をもって差し止めだ。人足は解散。樽は、全部この場で池に戻す。お前は財団が預かる」

「お、俺は上の指図で――」

「上の指図で国の水を盗んだなら、上に聞く。お前は、それまで預かりだ」


 監督は書状を持ったまま、崩れるように座り込んだ。

 堤の上で、人足たちが顔を見合わせていた。

 若い土工の一人が、恐る恐る手を上げた。


「……あの。俺たち、捕まるんですか」

「捕まらねえ。お前らは雇われただけだ。……ただし、帰る前に一仕事してもらう」


 グラントは、荷馬車に積まれた樽を顎で示した。


「その樽の水、全部、池に戻せ」


     ◇


 樽の水が池に戻っていった。

 人足たちが荷馬車の樽を一つずつ堤の先端まで運び、栓を抜いて、干上がった側へ流した。澄んだ水が、泥の底に音を立てて広がっていく。

 一樽。十樽。五十樽。

 干上がっていた側の底が、少しずつ水に隠れていく。仕切りの板が外され、二つに分かれていた池が一つに戻り始めた。

 若い土工が空になった樽を抱えて笑っていた。


「……なんか、こっちの方が、仕事した気がするな」

「言うな」


 昼過ぎに樽は全部空になった。

 池は来た時よりまだ浅い。だが、一つだった。

 人足たちは荷馬車に空の樽を積んで、湿地を出ていった。監督は財団の兵に挟まれてその後に続いた。最後の荷馬車が葦の向こうへ消えると、池の周りには、財団の兵四人と、グラントと、葦の陰の三人と、ちゃぷだけが残った。

 静かになった。

 三日ぶりに、人足の声も、桶の音も、樽の音もない静けさだった。

 そして、水面が光った。


     ◇


 竜が浮いた。

 三日前の夜と同じ、水の形をした古い時間が、一つに戻った池の真ん中に静かに浮かんだ。財団の兵が腰の剣に手を掛けて、掛けたまま動けなくなった。グラントが片手を上げてそれを止めた。

 リオは葦の陰から出た。

 覆面のまま、岸の水際まで歩いて立った。

 竜がこちらを見た。

 リオも竜を見た。糸は伸ばさない。結ばない。並ぶ。三日前に教わって、昨夜、力ずくで叩き起こした相手と、岸と水面で隣に立った。

 ――……らんぼうだった。

 竜が言った。


「……悪かった」


 ――……でも、おきた。


「ああ。起きた」


 水面が一度だけ大きく波打った。笑ったのだ。

 岸から少し離れた場所で、グラントがそれを見ていた。

 リオは気づかなかった。気づかなかったが、グラントの顔は三日前に竜へ頭を下げた時とも違っていた。十年前に池のほとりで眠っていた子供が、覆面をして水際に立ち、竜と並んでいる。守られていた側が、守る側に立っている。その絵を、この人だけが両方の側から見ていた。

 見て何も言わなかった。


     ◇


 蹄の音がもう一度聞こえた。

 一頭だけだった。

 葦の向こうから、馬に乗った男が一人現れた。

 長身で、笑い皺の深い四十前後の男だった。上等な旅装で、剣は帯びていない。ただ、馬の降り方だけが商人のものと違った。

 左の耳が半分欠けていた。

 男は財団の兵に一通の書状を見せた。


「シラード商会の代理人だ。工事の差し止めは承った。……残された資材と、雇い人の帳簿を引き取りに来た。書類は、揃っている」


 兵が書状を確かめた。揃っていた。差し止めた側にも、引き取りに来る側にも、それぞれの合法がある。

 男は堤を歩いた。

 堤の先端で昨夜の木箱の残骸を拾い上げ、割れた硝子の管を一つ、指で摘み上げた。摘み上げて、光に透かして笑った。

 それから、池を見た。

 竜を見た。

 長く、見た。笑い皺が動かなかった。

 そして岸のリオを見た。覆面の少年を上から下まで。

 男は硝子の管を懐に入れて、馬の方へ歩き出した。

 歩きながら、誰に言うでもなく池に向かって言った。


「――あの時、何が何でも殺しとくんだったな。……全部」


 リオは、その言葉を聞いた。

 聞いて、意味が分からなかった。あの時。何のことか、分からない。

 分からないのに――胸の底から、何かが、沸き上がった。

 引き出しが軋む音とは違う。もっと下だ。引き出しの下の、普段は蓋をしている場所から熱いものが上がってくる。工人展の夜、あかりの悲鳴を聞いて「ふざけるな」と言った時のあの熱。それが、この男の背中を見ただけで、理由もなく喉まで来ていた。

 足が、一歩、前に出ていた。


「――リオ」


 肩を、掴まれた。

 グラントの手だった。いつの間にか隣に来ていて、覆面の少年の肩を強く握っていた。


「……まだ早い」


 低い声だった。


「今は、まだ早い。……分かるな」


 分からなかった。何が早いのかも、なぜ自分の足が前に出たのかも。だが、肩の手の強さで、分かることが一つだけあった。この人は、リオが何に反応したのかを、知っている。

 リオは、足を戻した。

 戻して、拳を、握った。

 グラントの顔色は、変わっていた。三日前、帳場で筆を落とした時と同じ変わり方で、それより深かった。

 ガルドが葦の陰から立ち上がっていた。いつの間にか、木剣を肩から下ろしている。欠伸はしていなかった。


「グラント」

「……今じゃねえ」


 グラントが低く言った。


「今じゃねえ。……書類が、揃ってる」


 ガルドは木剣を握ったまま、動かなかった。動かないまま、馬に乗る男の背中を見ていた。

 男は一度も振り返らなかった。

 蹄の音が葦の向こうへ消えた。

 肩の手が、離れた。


「……グラントさん。あの人、今、何て」

「聞くな」


 グラントは、リオを見なかった。池を見ていた。


「……今は、聞くな。それも、長くなる」


 水面の竜が静かに頭を下げた。

 リオには、それが何に対する仕草なのか分からなかった。


     ◇


 夕方、翁のノワールがテッサを迎えに来て、財団の兵が引き上げ、ガルドが「歩いて帰る」と言って葦の中へ消えた。

 池のほとりには、リオとグラントと、ちゃぷが残った。

 竜はもう水面下に沈んでいた。青い光だけが、底で続いている。


「……契約は、しません」


 リオは水面を見たまま言った。


「あいつとは、結ばなくていい。隣にいれば伝わるって、この三日で分かりました」

「そうか」

「……グラントさん。白庭は、もうこの池の場所を知ってます。三人も、あの男も、見て帰った。……村と、同じになりませんか」


 グラントは、すぐには答えなかった。

 答える代わりに、懐からもう一通、書状を出した。今朝、監督に見せたものより、薄い。


「王に、もう一つ書かせた。この湿地は、今日から国の禁猟地だ。地図に載る。財団の見回りが月に二度入る」

「……地図に、載せるんですか」

「載せる。……隠せば、見つけた奴が好きにやる。それが十年前だ。載せて、国の目を置く。人目のある場所で、白庭は手を出しにくい。あいつらは、見られるのを一番嫌う」


 隠すのではなく、見せる。

 十年前と、逆の守り方だった。


「それと、番人を置く。……誰にするかは、俺が決める。お前じゃねえ。お前は学園生だ」

「……はい」

「あの子が、また帳場に来ることもあるだろう。来たら、その時は仕事だ」

「グラントさんは、この竜を、知ってましたよね」


 聞かない、と決めていた。

 三日間、聞かなかった。だが、これだけは帰る前に言っておきたかった。答えを求めていない。ただ、知っていることを知っていると言っておきたかった。

 グラントは長い間水面を見ていた。


「……その話はな」

「長くなる、ですか」

「長くなる」


 同じ言葉だった。焼け山の前の夜、帳場で聞いた言葉と。

 いつもなら、そこで頷いていた。

 今日は、頷かなかった。


「……俺、思い出したいです。全部」


 初めて、自分から言った。

 グラントが、リオを見た。


「あの子に、まだ壊れると言われたろう」

「言われました。……なら、壊れないくらい強くなってから、聞きます。それまで、待ちます」


 グラントは、長い間、何も言わなかった。

 言わない代わりに、水筒の水を一口飲んで頷いた。


「……そうしろ」


 水際で、ちゃぷが立ち上がった。

 立ち上がって、リオの袖を掴んで言った。


「りお。また」

「ああ。……また来る」

「ちゃぷ、まつ」


 子供はそれだけ言って、水の中へ歩いて消えた。

 その夜の帳面の品目欄には、几帳面な字でこう載った。

『池の保全 一件(依頼人・水の子)』

 燭台の隣で、あかりが帽子を直した。


「……みず、の、こ。また」

「また、だな」


 リオは、いつもの席で船を漕ぎ始めていた。

 帳場の主は帳面を閉じて、長い間、閉じた帳面の表紙を見ていた。


     ◇


 ルヴィナの本店の、白い花の飾られた部屋で報告が読み上げられた。


「――竜は、取れませんでした。装置は現場で破壊。工事は、レニオの王印で差し止め。湿地は国の禁猟地に指定され、地図に載ります」


 卓の誰も、声を出さなかった。


「妨害したのは、三人です。獣を動かすテイマー。装置を読む職人。……それと、光る何か。三つとも、レニオの王都の、例の窓口の手だと思われます」


 名代が、卓の上座を見た。

 上座の声は、しばらく黙っていた。


「……テイマー」

「はい。覆面を着けた、若い男です。湿地の獣を一日で従えました。獣使いとしては、規格の外です」

「その男が、池にいる限り、竜は取れんか」

「取れません」


 上座の声が、息を吐いた。


「なら、竜は後だ。……先に、そのテイマーだ」


 卓の端で、左の耳が半分欠けた男が、笑い皺を深くした。


「承った。……あの池を見て、思い出したぜ。十年前、竜だけ狙って、ガキを放っといた。あれが失敗だ」

「……ガキ、とは」

「村に一人、ガキがいた。竜を動かしたのは、あのガキだ。ガキが泣きながら糸を繋いだ瞬間に、うちの連中は水に呑まれて全滅した。竜は、ガキがいなけりゃ動かねえ。……竜より先に、ガキの首を落としとくべきだった」


 名代が、眉を上げた。


「その子供は」

「死んだと聞いてる。村ごと燃えたからな。……生きてりゃ、面倒なことになるが」


 男は肩をすくめて、割れた硝子の管を卓の上に放った。


「ま、今度の覆面は大人だ。ガキじゃねえ。……手は、抜かねえよ」


 白い花が、一輪、揺れた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


三話にお付き合いいただき、ありがとうございました。


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