第45話 水面の下(前編)
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第45話です。前・中・後編の三回でお届けします。
グラントが湿地を出たのは、朝の霧が晴れる前だった。
「三日だ。……無理はするな。出させなきゃ、それでいい」
それだけ言って、葦の向こうへ消えた。
リオは池の残った半分の岸に一人で残った。正確には、鞄の中にあかりがいて、水際にちゃぷが座っていて、水面の下に竜がいる。
だが、人間はリオだけだった。
「……りお。とめる?」
水際で、ちゃぷが振り返った。
「止める。三日」
「みっか」
ちゃぷは指を三本立てようとして、四本になった。数を数えるのは、まだ苦手らしい。
対岸の堤では、朝から人足が動き始めていた。
「――今日は、堤を先へ伸ばす! 残り半分に掛かるぞ!」
監督の声が水面を渡ってきた。
残り半分。竜のいる側の水を、今日から汲みにかかるということだ。
三日、出させない。それがリオの仕事だが、水が減れば竜は苦しくなる。苦しくなれば出てくる。出てくれば、堤の先端で錘を沈めていた三人が待っている。
水を減らさせない。
戦わずに、である。
あの人足たちは、金で雇われたただの土工だ。工事には正規の許可証があり、看板には商会の名がある。表向きは、まっとうな仕事だ。それを襲えば、賊はこちらになる。国の騎士か、雇われた冒険者が来る。竜のいる池に、武装した人間が集まることになる。それは、白庭の側にとって一番都合のいい展開だった。
だから、止めるにしても、獣の仕業にしか見えない形で止めるしかない。誰も傷つけず、誰も呼ばせず、自然に。
リオは覆面を着けた。堤の先端の三人が工人展の男の側なら、素顔を覚えられるわけにはいかない。
覆面のまま、岸の葦の陰に仰向けに寝転んだ。対岸からは見えない。
そのまま、糸を伸ばした。細い、触れるだけの糸を、一本ずつ、何度も何度も、湿地の全部へ。
◇
この湿地は獣が多い。
奥にいる大きなものを牙を持つ者だけが怖がり、牙を持たない者たちが安心して集まっている安全地帯だ。水鳥、蛙鼠兎鹿。数えきれない。
その全部に糸が届く。
命令はできない。契約していない相手には、頼めるだけだ。だが、この湿地の獣たちは、奥の大きなものが守っている場所を自分たちの居場所だと知っている。その居場所が、今減らされている。
リオは頼んだ。
――水を減らす人間がいる。……止めたいんだ。傷つけずに。
返ってきたのは、湿地中の獣のざわめきだった。
最初に動いたのは、鹿だった。
葦の向こうから、鹿の群れが出てきた。十頭、二十頭。それが、堤へ土を運ぶ荷馬車の道の真ん中に並んで伏せた。
「おい……なんだ、こいつら」
御者が鞭を鳴らした。鹿は動かなかった。荷馬車の馬が、鹿の群れの前で足を止めた。馬は道に伏せた鹿を踏まない。踏めと言われても踏まない。
「追い払え! 石を投げろ!」
人足が石を投げた。鹿は、石が当たっても伏せたままだった。逃げない。逃げる理由がない。この湿地で、鹿は人間を怖がったことがない。
荷馬車が止まった。
土が堤に届かなくなった。
次に動いたのは、水鳥だった。
堤の先端で、三人の男が錘を沈めていた。その頭上に水鳥の群れが降りてきた。何百羽。羽音と鳴き声で、三人の声が互いに届かなくなった。一羽が錘の紐をくちばしでくわえて、池の真ん中へ飛んでいった。錘が水に落ちた。
「――くそっ!」
三人の一人が、鳥を払った。払った手の先で、また別の一羽が測量の板をくわえて飛んだ。
蛙が堤に上がってきた。
何千匹。堤の土の上を、湿地の蛙が埋め尽くした。人足が足を踏み出すたびに蛙が跳ねて、足元が見えなくなった。汲み桶が蛙で溢れた。
鼠が、桶と樽の紐を齧った。
兎が、人足の弁当を運んでいった。
昼過ぎには、人足の半分が働くのをやめていた。追い払っても追い払っても戻ってくる獣に、腹を立てるより先に、呆れたらしい。若い土工の一人が、道に伏せた鹿の首を、恐る恐る撫でていた。鹿は撫でられたまま、動かなかった。
「……こいつら、逃げねえんだな」
「逃げねえな。……なんか、悪いことしてる気になってきたぞ、俺」
「言うな」
金で雇われたただの土工である。悪意はない。悪意のない人間は、逃げない獣を殴れない。
対岸の草の上で、リオは仰向けのまま目を閉じていた。
獣たちは誰も傷つけていない。人間も誰一人傷ついていない。ただ、仕事が進まない。
「……監督! こんなの、聞いてねえ! 獣が、言うこと聞かねえ!」
「獣ってのは、言うこと聞かねえもんだろうが! 追い払え!」
「追い払えねえんですよ! 逃げねえんだ!」
水面を渡って、人足たちの声が聞こえた。
堤の先端で、三人の男が作業をやめて立っていた。
鳥を払うのをやめて、湿地を見回している。獣が逃げないことの意味を、この三人だけは考えている顔だった。
一人が、こちらの岸を見た。
見えるのは、葦だけだ。葦の陰の覆面までは、見えない。
男は、しばらく見て、目を逸らした。
逸らし方が、慣れていた。だが、慣れていても考えていることは分かった。この獣の動きには、人の手が入っている。人の手が入っているなら、誰かがいる。テイマーが。
リオは目を閉じたまま、糸を細くしたり太くしたりして、獣たちに頼み続けた。
一日目の日が、暮れた。
堤は一歩も伸びなかった。
◇
二日目の昼、空に羽音がした。
鳥にしては、大きすぎる。
見上げると、黒い竜が湿地の上を旋回していた。翼の先が夏の光に光る。ノワールである。
その背に、白髭の翁と、その後ろにしがみついた工具鞄の小さな影が乗っていた。
「――覆面くーん!!」
空から、声が降ってきた。
ノワールが岸の草地に降りると、鞍の後ろからテッサが工具鞄ごと転がるように降りてきた。翁は鞍の上から降りもせず、白髭を撫でて言った。
「一晩で帰る。……お前さんに用があるのはこっちの嬢ちゃんだ。俺は、荷を届けただけよ」ゴーグルを額に上げて、髪は風でぼさぼさで、顔は驚くほど嬉しそうだった。
「グラントさんから、紙が一枚! 『嬢ちゃん、南の湿地の池へ。覆面が待ってる。竜が送る』って、それだけ! 竜が送るって何かと思ったら、本当に竜が迎えに来た! 初めて飛んだ! すごかった!」
「……落ち着いてください、テッサさん」
「落ち着いてるよ! これでも!」
落ち着いていなかった。
「空から見たら、湿地って全部繋がってるんだね! 水の筋が、こう、血管みたいに! あと覆面くん、目が死んでるよ。寝てないでしょ」
「二日、岸で寝てた。……少しずつ」
「駄目だよ! ……って、私が言えることじゃないか。原図の時、私も一晩寝てないし」
「ガルドさんは」
「歩いて来るって。竜は嫌いなんだって。……今夜か、明日には着くと思う」
ノワールがリオを見て首を低くした。
――仕事が、なくてもだ。……あるなら、なおさらだ。
――ありがとう。
翁がノワールの首を叩き、黒竜は湿地の空へ抜けていった。一晩で帰る、というのは本当らしい。
テッサは岸に立って、池を見た。
見て、それから対岸の堤を見た。工具鞄から遠眼鏡を出して堤の先端を覗いた。
覗いて動きが止まった。
「……あれ」
遠眼鏡を持つ手が、下がった。
「あの木箱。……開いてる。中身が、見えた」
「何ですか」
「継ぎ目のない外殻。何層もの封じ。硝子の管。……あの人の手だ。あの祭りの道具と、工人展の装置と、同じ手」
テッサの声が、低くなった。
工人展の会場で装置を読んだ時と同じ声だった。
「あれ、封じの装置だよ。水の中で使う型を、大きくしてある。水に沈めると、沈めた場所の水域ごと、魔力を眠らせる。……あの大きさなら、この池の半分は、効く」
リオは水面を見た。
底で、青い光が静かに続いている。
「……眠らせる」
「眠らせる。水が減って弱ってる時に、あれを沈められたら、この池の主は――」
テッサは、そこで言葉を切った。
切ってリオを見た。
「二度と、起きられない」
リオは何も言わなかった。
言わない代わりに、水際に座っているちゃぷを見た。ちゃぷは泥に足を浸けて水面を見ている。二日間、ずっとそうしている。
「……沈めさせない」
声が出た。
テッサがリオの顔を見た。ゴーグルの奥の目が、わずかに細くなった。工人展の夜、糸を見た時と同じ目だった。何も言わない目だった。
「じゃあ、私は、読む」
テッサは工具鞄を開けた。
「あの装置を、遠くから読む。沈める前に、どこを止めれば止まるかを見つける。……覆面くんは」
「獣を、動かします」
「うん。それでいい」
テッサはそれ以上何も聞かなかった。
聞かない代わりに、遠眼鏡をもう一度堤へ向けた。
堤の先端で、三人の男が開いた木箱の周りに灯りを並べ始めていた。
日はまだ高い。だが、灯りを並べている。
「……今夜だ」
テッサが言った。
「今夜、沈める気だ」
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次回、中編です。




