第44話 池の子(後編)
お読みいただきありがとうございます。
第44話の後編です。
水面が盛り上がった。
波とは違う。池の残った半分の真ん中が下から押し上げられるように膨らんで、青い光がその膨らみの縁から溢れた。
そして浮いた。
最初に見えたのは、背だった。苔のように古い青灰の鱗が、月の下で濡れて光っている。背だけで、岸から岸までの半分がある。次に頭が上がった。長い、水の流れのような首の先に分体の子供と同じ目があった。底の見えない、古い水の色の目。それが二つ、リオとグラントの高さまでゆっくりと下りてきた。
翼はない。爪もない。角も牙も見えない。
ただ、大きい。大きくて、静かで水そのものが形を持って浮いているように見えた。
竜だった。
鞄の中から、あかりが出てきた。出てきて、竜を見上げて、自分の光を小さくした。灯りを絞るように、そっと。あかりがそうするのを、リオは初めて見た。
「……ふるい。とても、ふるい」
光の妖精が、それだけ言った。あかりの百年が新しく見えるほどの、古さである。
興行で舞う飛竜とは、造りが違う。飛竜が竜の形をした獣だとしたら、これは水の形をした古い時間だ。百年に一度、伝説の側に名を残す方の竜。それが、地図にない池の真ん中に静かに浮いていた。
リオは動けなかった。
怖くはなかった。怖いという感情が、この大きさの前では形を取らなかった。代わりに胸の引き出しが、開いた。今度は軋まずに、開いた。
――りお。
声が来た。
子供の声と同じで、子供の声より深い。糸を通さず、水を通して胸の中に直接。
――……おおきく、なった。
リオは口を開いた。
開いて、何を言えばいいのか分からなかった。分からないまま、口から出たのは自分でも思いがけない言葉だった。
「……水、掛けたのは、お前か」
夢の話だ。
誰かと水を掛け合っていた、あの夢の相手。顔の見えなかった相手。
竜の目が細くなった。
――おぼえて、いた。
――……夢で、だけど。
――ゆめで、いい。
水面が一度だけ大きく波打った。笑ったのだとリオは思った。
◇
竜は、それからグラントを見た。
長く、見た。
リオは隣のグラントの顔を見た。この人は竜を見上げたまま、腕組みを解いていた。解いて、それからゆっくりと頭を下げた。
グラントが人に頭を下げるところを、リオはほとんど見たことがない。
竜に頭を下げるところは、初めて見た。
――ちょうめん、の、ひと。
竜の声がグラントを呼んだ。
帳面の人。あかりが付けたのと同じ呼び名を、この竜も知っていた。いつから知っていたのかは、分からない。
――あのこ、そだてた。
竜の目が一度リオを見て、グラントに戻った。
――ありがとう。
リオは、息を止めた。
あの子。育てた。この竜は、グラントがリオを拾って育てたことを知っている。知っているということは、拾われる前のリオを知っているということだ。
「……俺のこと、ですか」
グラントは、答えなかった。
「……久しぶりだな」
グラントが低く言った。
久しぶり。
リオは、その言葉を聞かなかったことにはできなかった。聞かなかったことにするには、はっきりしすぎていた。だが、聞き返さなかった。今夜は聞くな、と言われた夜から、まだ二日しか経っていない。
竜はグラントに答えなかった。答える代わりに、首を少し傾げた。それだけで、水面が岸まで揺れた。
――みず、へる。
「分かってる」
――ここが、なくなれば、いくところが、ない。
「分かってる。……止める。人間は、俺が止める」
グラントは、竜の目を見てはっきりと言った。
「三日だ。三日で、止める。……それまで、出るな。水の中にいろ」
竜はしばらくグラントを見ていた。
それから、目を閉じた。
閉じて、ゆっくりと頭を水面に近づけた。頷いたのだ、と分かるまで少しかかった。
◇
「……グラントさん。三日って」
「明日の朝、王都に戻る。会う奴がいる」
グラントは岸の草に腰を下ろして水筒の水を飲んだ。
「湿地の水利権なんてもんはねえ、とさっきの現場監督は言った。だがな、地図にない池でも、この国の中にある池だ。国の中の水を、無断で他国へ運び出してる。それを止められる人間が、一人だけいる」
「……エドガーさん」
「そう、あいつだ。……革の長靴で、うちに茶を飲みに来る奴だ」
リオは堤の方を見た。
日が落ちて人足が引き上げた後の堤に、灯りが三つ動いていた。夜に作業する土工はいない。堤の先端で、三人の男が荷馬車から長い木箱を下ろしていた。樽とは形が違う。細長い、人の背丈ほどの木箱を二人がかりで。月の光が箱の隙間に差して、中の硝子らしいものが一瞬だけ光った。
「……あれ」
「見てる」
グラントは立ち上がらなかった。
「あの三人は、水を汲みに来てるんじゃねえ。水が減って主が出てくる時のために、何かを沈める準備をしてる。……俺が王都で三日使う間に、あいつらも三日使う」
「あの箱の中身は」
「見当はつく。……うちに、あの手の道具を一晩で読み切った嬢ちゃんがいる。王都に戻ったら、寄越す」
「じゃあ、俺は」
「お前は、ここだ」
グラントはリオを見た。
「お前の仕事は、王都じゃねえ。この池だ。起きたばかりの主のそばにいて、水から出させないことだ。……あいつは争わねえ。争わねえが、水が減れば、苦しくなる。苦しくなった時、そばに誰がいるかで、出てくるかどうかが変わる」
「……俺で、いいんですか」
「お前しかいねえ」
即答だった。
「起きたばかりの竜を落ち着かせられる奴は、この国に、お前しかいねえ。……昔から、そうだった」
昔から。
グラントは、そこで口を閉じた。閉じてから、自分が言いすぎたことに気づいた顔をした。気づいて水筒の蓋を閉めた。
リオは聞かなかった。
聞かない代わりに池を見た。竜はもう水面下に沈んでいた。青い光だけが、底の方で静かに続いている。
「……結ばなくて、いいんですね」
「結ぶな」
グラントは即座に言った。
「あれは、結ぶ相手じゃねえ。結ぶってのは、こっちが上に立って手綱を持つことだ。あれには手綱がいらねえ。隣に立って、同じ方を向いてりゃいい。それを、並ぶって言うんだ。……必要なら、向こうから来るだろう」
向こうから来る。帳場で握られた手から水が来た時と、同じことを言っている。
リオは、糸を撚りかけていた手を止めた。
止めて、太い線を撚らずにほどいた。
結ばない。並ぶ。
それがこの池の主との、正しい距離らしかった。
◇
夜明け前、水際に子供が戻ってきた。
濡れた髪、古着、深い目。昨夜水の中へ歩いて消えた姿のまま、岸に上がってきてリオの隣に座った。
竜の分体だ。本体が起きている間も、この姿で岸に来られるらしい。
「……りお」
「ああ」
「あした、ちょうめんのひと、いく。……りお、いる?」
「いる。三日、ここにいる」
子供はそれを聞いて、足元の泥に両足を浸けた。
「……りお、いった」
「何を」
「むかし。りおが、いった。……ちゃぷ、って」
リオは、子供を見た。
ちゃぷ。
帳場で口が勝手に動きかけた時に、出てこなかった言葉だ。それを、この子供が代わりに言った。
「……ちゃぷ」
口から、出た。
名前だった。この子供に、リオが付けた名前だ。いつ付けたのかは、分からない。どこで付けたのかも、分からない。だが、この口はその名前を覚えていた。
「……ちゃぷ」
もう一度言うと、子供は初めて、声を出して笑った。
水の跳ねるような、小さな笑い声だった。
笑って、それから、濡れた手を伸ばした。
リオの額に、その手が触れた。
「……ひとつ、だけ。かえす」
◇
夏の午後だった。
池がある。今の池ではない。もっと小さくて、岸に草が茂っていて、その向こうに家の屋根が見える。
水の中に、小さな子供が二人いる。
一人はリオで、一人は、濡れた髪の子供だ。二人とも腰まで水に浸かって、両手で水を掬っては掛け合っている。水しぶきが夏の光に散って、笑い声が池の上を渡っていく。
――ちゃぷ! ちゃぷ、こっち!
自分の声だった。今よりずっと高い、子供の声。
岸に、人がいる。
女の人が草の上に座って、膝の上で細い糸を撚っている。髪を後ろで結んだ細い体で、水面を見ながら時々こちらを見て笑う。その顔が、見える。はっきりと、見える。
その隣に、男の人が立っている。肩幅が広くて日に焼けていて、腕を組んで水を掛け合う二人を見ている。口の端が、わずかに上がっている。
――リオ。
女の人が、呼んだ。
――リオ、そろそろ上がりなさい。冷えるわよ。
その声を、リオは知っていた。
煙の中で、名前を呼んでいた声だ。獣に囲まれて眠る夜に、聞こえる気がしていた声だ。誰の声か分からないまま、あたたかいとだけ思っていた、あの声。
――もう少し!
子供のリオが答える。男の人が笑って、女の人が呆れた顔をして、濡れた髪の子供がまた水を掛ける。
夏の午後だった。
それだけの午後だった。
◇
額から、手が離れた。
岸に朝の光が差し始めていた。池の水面が、白く明るくなっていく。
リオは、泣いていた。
声は出さなかった。出そうとも思わなかった。ただ、頬を伝って落ちるものを止められなかった。
なぜ泣いているのか、全部は分からない。分かっているのは、今見た二人の顔をリオはずっと知らなかった、ということだけだ。顔も、声も、はっきりとは覚えていない。そう言って生きてきた。
今、見た。
聞いた。
名前を呼ぶ声の主を、初めて、顔で知った。
「……ぜんぶは、まだ」
子供が、静かに言った。
「……かえせない。りお、まだ、こわれる」
「……いい」
声が、掠れた。
「今は、これでいい。……ありがとう」
子供は頷いて、泥の中に足を浸けたまま水面を見た。
背中で、足音がした。
グラントが、立っていた。いつからそこにいたのか、分からない。水筒を差し出して、何も言わなかった。リオは受け取って、一口飲んだ。飲んで、袖で顔を拭いた。
「……グラントさん。俺、思い出しました」
「そうか」
「全部じゃないです。夏の午後を、一つだけ」
「……そうか」
グラントは、それ以上何も言わなかった。言わない代わりに隣に腰を下ろした。
朝の光の中で、池の残った半分が澄んだ青を取り戻していた。
その青の底に、あの二人を覚えている水が、まだ眠っている。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。
次回、第45話です。




