第44話 池の子(中編)
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第44話の中編です。
翌朝、帳場を出たのは三人と一つだった。
グラントと、リオと、濡れた髪の子供。それに、リオの鞄の中のあかり。
グラントが自分で現場へ出るのは珍しい。帳場の主は帳場にいるのが仕事で、外へ出るのは年に一度の村の顔出しくらいだとリオは聞いていた。それが今朝は帳面をネムに預けて、外套を着て戸口に立っていた。
「……グラントさんも、行くんですか」
「行く」
それだけだった。理由は言わない。昨夜「聞くな」と言った人に、朝になって聞き直す気はなかった。
財団の馬車で、王都を南へ出た。
子供は、馬車の床に置いた桶に両足を浸けて座っていた。桶の水が減ると、子供の目に力がなくなる。減った分をリオが水筒から足す。そういう子供らしかった。
「……なんで、水がいるんだ」
聞いても子供は答えなかった。桶の水面を見て、それから窓の外の南の空を見た。
鞄の中で、あかりが言った。
「みず、の、こ。……あつい、ところ、にがて」
光の子が水の子を評しているらしい。あかりは桶の子供を怖がらなかった。怖がらない代わりに、わずかに距離を取っていた。光と水の、それが礼儀なのかもしれない。
グラントは、馬車の中で一度も口を開かなかった。
窓の外を見ている。南へ南へ。景色が街道から野へ、野から湿地の縁の森へ変わっていく間、腕を組んだままただ見ていた。
リオは、この人の横顔をこんなに長く見たことがなかった。
◇
湿地の縁で馬車を降りた。
ここから先は、道がない。葦と、泥と腰まである草。人の足では半日かかるという奥へ、子供が先に立って歩き出した。
桶はもう要らなかった。
湿地には水がある。子供は水溜まりから水溜まりへ、水筋を選んで歩いた。乾いた土を踏まない。踏まないように、水のある方へ曲がりながら進む。その足跡は来る時は乾かなかった。
リオとグラントは、その後ろを歩いた。
葦が背より高くなり、空が細くなった。
泥に足を取られながら、リオは気づいた。この湿地は、獣が多い。
多すぎる。葦の根元に水鳥の巣が並び、足元を蛙が跳ね、鼠が走り、鹿の親子が葦の向こうからこちらを見ている。どれも逃げない。人間を怖がっていない。
そして、危険な魔物が一匹もいない。
触れ糸を投げると、返ってくるのは「ここは安全だ」という、獣たちの緩んだ気配ばかりだった。牙を持つものは、この湿地に近づかない。奥にいる大きな何かを、牙を持つものだけが怖がる。怖がって寄らないから、牙を持たないものたちが集まって、安心して暮らしている。
この湿地は、奥にいる何かが作った、安全地帯だった。
その安全の中心に、一つだけ。
ずっと奥に、大きな気配。大きすぎて、糸が届く前に糸の側が怯んで戻ってくる気配。
「……グラントさん」
「言うな」
先に言われた。
グラントはこちらを見なかった。
「言うな。……見てからだ」
子供が葦の壁の前で足を止めた。
振り返ってリオを見る。それから、小さな手で葦を押し分けた。
葦の向こうが、開けた。
◇
池があった。
湿地の真ん中に、湖と呼んでもいいほどの水面が静かに広がっている。深い。岸から見ても、底がない。水の色は、湿地の濁りとは無縁の、澄んだ古い青だった。
その池の、半分が、干上がっていた。
岸の一方から、土の堤が池の中へ舌のように伸び、堤で仕切られた側の水が汲み出されている。仕切りの内側では人足が桶で水を汲み、桶から樽へ移し、樽を荷馬車へ積む。荷馬車は空の樽を運び込み、満杯の樽を運び出していく。仕切りの内側の底が、もう泥になって見えていた。
残りの半分の水が、澄んだままで、ただ狭くなっている。
「にんげん。……はこぶ」
子供が小さく言った。
リオは、干上がった側と残った側を順に見た。
工事は、大きい。畑のために湿地の水を抜く規模を、はるかに超えている。しかも抜いた水を捨てずに、樽に詰めて運び出している。水が、目的なのだ。組織の金で、組織の人数で池を一つ消そうとしている。看板が堤の入口に立っていた。
――南湿地干拓事業。
その下に事業主の名があった。
リオはその名を知っていた。
――シラード商会。
「……あの人の」
声が出た。
帳場の客用の椅子に座って、依頼書を置いていった人。感じのいい微笑で「良い帳場だ」と言った人。その商会の名が、地図にない池の水を抜く工事の看板に堂々と書かれている。
グラントは看板を見て、それから池を見た。
池を長く見た。
岸から水面へ、水面から底の見えない青へ。その目が、ここ数年のどんな時とも違う色をしていた。
「……ここに、移ったのか」
聞こえるか聞こえないかの声で、グラントが言った。
移った。
どこから、とは言わなかった。リオは聞かなかった。聞かなかったが、胸の引き出しがまた軋んだ。
◇
グラントは財団の調査員の顔で、工事の監督に会った。
財団の身分札を見せ、干拓事業の許可証を見せろと言う。監督は面倒そうに書類を持ってきた。書類は揃っていた。揃いすぎているほど揃っていた。
「土地の所有は」
「無主地です。地図にも載ってない湿地でさあ。誰も文句は言わねえ」
「水利権は」
「湿地の水に権利もなにも。抜いた水は畑に使うんでさあ。……財団の旦那、何が問題で」
「畑に使う水を、樽に詰めて運び出すのか」
「……上の指図でして」
「問題があるかどうかを見に来た」
グラントは書類を返して堤の上を歩いた。
リオはその後ろを歩きながら、人足たちを見ていた。荷を見ないで、人を見る。工人展の時に教わった目だ。
人足は、四十人ほどいた。堤を伸ばし、仕切り、汲み、詰め、運ぶ。汲むたびに仕切りの内側の水面が下がり、澄んだ青が泥の色に変わっていく。それを、何日も繰り返してきたのだろう。堤は、もう池の半分に達している。
人足の大半は、金で雇われたただの土工だった。だが、堤の先端に、三人ほど土を運んでいない男がいた。水面を見ている。水面の下を測るように見ている。
三人とも、土工の服を着ているのに、手が汚れていない。持っているのは鋤ではなく、細い筒と、紐で吊った錘だった。錘を水面に沈めて、深さを測っている。水を抜くだけなら、深さの測量は要らない。一番深い場所を探している。水が減った時、池の主が最後に逃げ込む場所を。
その一人が、こちらを見た。
見て、すぐに目を逸らした。
逸らし方が、慣れていた。工人展の会場で、台の脚を指で弾いた男の、あの消え方と同じ種類の慣れだった。
◇
日が落ちて人足が引き上げた。
工事の灯りが消えると、池は湿地の闇の中に青く沈んだ。
リオとグラントは、残った側の岸に焚き火を作らずに座っていた。火を焚くと子供が嫌がる。子供は岸の水際に、足を浸けて座っていた。
「……グラントさん」
「言うな、と言った」
「聞きません。……一つだけ、言わせてください」
グラントは答えなかった。答えないのは、聞くということだ。
「昨日から、ずっと、懐かしいんです。この子も、この池も。なんでかは、分からないんですけど」
リオは水面を見た。
「……多分、昔、ここじゃない場所で、この水を知ってた気がします。それだけです」
グラントは長い間何も言わなかった。
やがて、湯呑みの代わりに水筒を取って一口飲んで、言った。
「……知ってた。お前は」
それだけだった。
「……あれは、争わねえ」
グラントが、水面を見たまま言った。
「水の竜は、争わねえ。争えば、人間の側の思う壺だ。水から出た竜は、ただの的になる。あの三人が測ってるのは、そのための場所だ」
「じゃあ、どうして――」
「眠ってた。水が減って、やっと起きかけてる。……だから、あの子が来た。人間を止めるのは人間の仕事だと、池の主は知ってる」
人間は、人間が止める。
守る人がいない、と子供が言ったのは、そういう意味だった。
水面が光った。
月の光とは違う。水の底から薄い青が滲むように、池の残った半分が明るくなった。
子供が、岸から立ち上がった。
立ち上がって、一度だけ、リオを振り返った。
「……りお。まって」
待って。それだけ言って、水の中へ歩いて入っていった。膝まで。腰まで。胸まで。それから、水面の下へ頭が消えた。
水面が静かになった。
そして池の底で、大きなものが目を覚ました。
糸を伸ばすまでもなかった。伸ばしていない糸の側から、水が来た。昨夜、握られた手から来たものと同じ、古い古い水。それが今度は池一つぶんの大きさで、リオの胸の中に静かに広がった。
――起きた。
グラントが隣で低く言った。
「……来るぞ。動くな」
水面の下で、影が動いた。
池の半分ほどもある影が、ゆっくりとこちらへ。
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次回、後編です。




