第44話 池の子(前編)
お読みいただきありがとうございます。
新しいお話です。少し長い話になります。
夏が来た。
教室の窓は開け放され、それでも風は入らず、机の上の教科書がじわりと熱を持つ。火鉢当番が消滅した代わりに水汲み当番という係が生まれ、今度はネイトが立候補して、今度は飽きなかった。水汲みのついでに中庭の井戸で顔を洗えるからだ。
「暑い……」
カイルが机に突っ伏した。腰の剣が、鞘の上からでも分かるほど熱を持っている。
「なあリオ。ホムラのやつ、夏になってから機嫌がいいんだ。……いいんだけど、暑い」
「火の子だからな」
「鞘、革が焦げそうなんだよ」
「ハインツさんに、鞘も頼めばよかったな」
「今さら言うなよ」
隣の席で、セナが手拭いで首筋を押さえていた。
「うちのユキは、この季節、大人気よ。獣舎の子たちが、みんな隣に寝たがるの」
「いいなあ。貸してくれよ」
「駄目。……うちの子ですもの」
リオは机に伏せて目を閉じた。
眠い。夏はいつもより眠い。
眠って夢を見た。
水の夢だった。誰かと水を掛け合っている。相手の顔は見えない。ただ、笑い声と、水の音と、足元の冷たさだけがある。楽しい夢だった。楽しいはずなのに、目が覚めた時なぜか少しだけ胸が痛かった。
「アルクス。四度目だ」
「……起きてます」
いつもの教室が、いつもの温度で続いていた。
◇
夏の夜の裏路地は、昼の熱を石畳に溜め込んで、夜になっても吐き出し続ける。帳場の戸は開け放してあったが、入ってくるのは湿った空気ばかりで、風はなかった。
その夜の帳場は、静かだった。
依頼は一件もなく、グラントは帳面の整理をしていて、リオは隅の席で報告書の写しを作っていた。燭台の隣で、あかりが灯りを食べている。
帳場は、戸口から土間が一間、その奥に帳面の机、机の右手の壁際に長椅子がある。リオの席は長椅子の手前の隅で、座ったまま戸口が見える。
その戸口で、音がした。
叩く音ではない。戸が外から押されて、少しだけ開いた。隙間から、夜の湿った空気が入ってきた。
「……客か」
グラントが顔を上げた。
押し開けた戸の隙間に、子供が立っていた。
一人きりで。
十歳にも満たない、小さな子供。夜の帳場に子供が一人で来ることはない。この裏路地に迷い込む子供もいない。だから最初、リオは誰かの使いかと思った。
違った。
子供の髪が濡れていた。
雨は降っていない。夏の夜で、路地は乾いている。それなのに、子供の髪から水が滴っている。着ているものはどこかの村の古着のようで、それも濡れて、足元の床に小さな水溜まりを作っていた。
リオは、戸口の外を見た。
路地の石畳に、濡れた足跡が点々と続いていた。裸足の小さな足跡。それが帳場の戸口から路地の奥へ、角を曲がって見えなくなるまで続いている。この路地の奥には、堀がある。
堀から、歩いてきたらしい。
子供が口を開いた。
「……たすけて」
たどたどしい声だった。言葉を覚えたばかりの子供のような。
「いけ、なくなる」
リオは椅子から立ち上がっていた。
立ち上がった理由は、自分でも分からなかった。子供の声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。普段は開けない引き出しが、勝手に少し開いたような音だ。同じ音を前にも一度聞いたことがある。北の霧谷で、銀の狐の親子を見た時に。
懐かしい。
なぜ懐かしいのかは、分からない。
そして、リオより先にグラントが動いていた。
帳面から顔を上げたグラントの手から、筆が落ちた。
この人が筆を落とすところを、リオは初めて見た。
落ちた筆を拾わずに、グラントは立ち上がって戸口の子供を見た。筆は、後からネムが拾った。顔色が変わっていた。この帳場でどんな客が来ても、どんな報せが来ても変わらなかった顔が、変わっていた。
「……入れ」
声が掠れていた。
「ネム。……水を、桶で」
奥からネムが出てきて、子供を見て一瞬だけ足を止めた。止まって、何も聞かずに桶に水を汲んできた。ネムの顔も変わっていた。
湯でも毛布でもなく、水を桶で。濡れて震えている子供に出すものとしては、おかしい。だが、グラントもネムも、それをおかしいと思っていない顔をしていた。
バルカが厨房から顔を出して、子供を見て、何も言わずに引っ込んだ。しばらくして、握り飯が一つ皿に載って出てきた。子供は握り飯を見て、皿の縁に手を触れて、触れただけで手を引っ込めた。食べ物というものを知らないような仕草だった。
子供は、帳場の隅の長椅子に座った。
足元に置かれた桶に、両手を浸けた。飲むのではない。浸けて、しばらく水面を見ていた。震えが、止まった。
リオはその隣にしゃがんだ。
「……いけって、どこの池?」
子供がこちらを見た。
目が深かった。
子供の目ではない。底の見えない、古い水の色をした目。その目がリオを見て少しだけ細くなった。
「……りお」
名前を呼ばれた。
リオは息を止めた。
名乗っていない。この帳場で、リオの名前を口にした者はいない。それなのに、この子供は当たり前のように名前を呼んだ。
「……なんで、俺の名前を」
子供は答えなかった。
答える代わりに、少しだけ首を傾げて言った。
「……わすれた?」
胸の引き出しが、もう一度軋んだ。
忘れた。何を。分からない。分からないのに、口が勝手に動きかけた。
「ちゃ――」
そこで、止まった。
何を言おうとしたのか、自分で分からなかった。子供はリオの口が動くのを見て、それから水面に目を戻した。
子供が、桶から手を上げた。
濡れた小さな手が、リオの手を握った。
握られた瞬間、水が来た。
糸は、伸ばしていない。人間の子供に糸を伸ばす理由はない。それなのに、握られた手から腕を伝って、水がリオの中へ入ってきた。糸の側から来た。向こうが、こちらへ糸を通したのだ。
子供の手の冷たさではない。もっと深い。もっと広い。底の見えない池の水が、糸の先に静かに広がっていた。古い、古い水。何百年もの間、同じ場所で眠っていたような水。
そして、その水はリオを知っていた。
糸を通してそれが分かった。この水はリオを覚えている。リオが覚えていないものを、この水は全部覚えている。
子供が、手を離した。
リオは、しばらく動けなかった。
燭台の灯りが、揺れた。あかりが灯りの中で羽根をぱたぱたさせている。落ち着かないらしい。光の妖精が落ち着かないほどの何かが、この帳場の隅の長椅子に、桶に手を浸けて座っている。
◇
「――南の湿地だな」
グラントが低く言った。
子供が頷いた。
「地図にない池だ。……人が、入ってるのか」
子供がもう一度頷いた。
「みず、へる。にんげんが、はこぶ。……まもるひと、いない。だから、とめる、ひと、いない」
守る人がいない。
その言葉をグラントは何も言わずに聞いた。聞いて、目を閉じて、開けた。
「リオ」
「……はい」
「明日の朝、出る。仕事だ。依頼人は、この子だ」
「依頼」
「依頼だ。帳面に載せる。品目は、池の保全。……行くぞ」
リオはグラントの顔を見た。
顔色はもう戻っていた。戻していた、というのが正しい。この人は戻し方を知っている。
「グラントさん。……この子」
「聞くな」
即答だった。
「今は、聞くな。……行けば、分かる。行って、分からなくても、いい。今夜は、聞くな」
リオは口を閉じた。
閉じて隅の長椅子を見た。子供は桶に手を浸けたまま、まだ水面を見ている。
その隣に、いつの間にかあかりが座っていた。
光の妖精と、濡れた髪の子供。足元に水溜まりを作りながら座っている子供を、あかりは帽子の位置を直しながらじっと見ていた。
「……みず」
あかりが小さく言った。
「ふるい、みず。……おおきい」
子供があかりを見た。
見て、初めて少しだけ笑った。
その夜、帳場の隅の長椅子は朝まで濡れていた。
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次回、中編です。




