幕間 池の夜
お読みいただきありがとうございます。
幕間です。少し昔の、ある村の夜の話。
これは、今から十年ほど前の話である。
時間を、少しだけ戻す。
その村は地図に載っていない。
王都から南へ半日、湿地の縁の森を抜けた先にある。家は二十軒足らず。住んでいるのは、夜の仕事から退いた者と、その家族と、少しばかりの協力者。十三番窓口の、隠れ拠点のひとつだった。
グラントは年に一度、夏の終わりにこの村を訪ねる。
帳面には載せない仕事である。退いた者の顔を見て、困りごとがあれば聞き、なければ茶を飲んで帰る。それだけの仕事に丸一日かける。若い頃からの決まりだった。
村の一番奥に池がある。
裏庭と呼ぶには広すぎる、静かな大池である。森の水を集めて、底が見えないほど深い。村の家並みの一番奥、池に面して一軒の家が建っていた。村伝いの、最後の家である。
「――来たか、グラント」
家の前で、男が手を上げた。
ヨナス・アルクス。年はグラントより少し下で、肩幅が広く日に焼けている。若い頃は王都で、夜の仕事の一番荒っぽいところを担っていた。今は畑を作り、池を見て暮らしている。
「エマは」
「池だ。……今夜は、起きるかもしれんと言ってる」
グラントはそれ以上聞かなかった。
この家の夫婦には、番号がある。
十三番窓口の番号は十番までだと、王都の裏では思われている。一番から十番。帳場の帳面にも、そう載っている。
だが実は十一番と十二番がある。
帳面には載らない。王都の夜の仕事のためではなく、この村の、この池のためだけにある番号だった。池の底で眠り、数年に一度だけ目を覚ます相手を守るために、先代の主任が二人に与えた。十一番がエマ。十二番がヨナス。二人とも若い頃は王都のナンバーズで、テイマーだった。魔物と結ぶ糸を持つ者が、なぜ剣も持たずに池のほとりに住むのか。その理由を知っているのは、窓口の中でも古参の数人しかいない。
グラントは池へ歩いた。
◇
池のほとりに、女が一人座っていた。
エマ・アルクス。細い体で髪を後ろで結び、膝の上で細い糸を撚っている。撚っているのは、契約の糸ではない。もっと細い、触れるだけの糸である。それを池の水面にそっと垂らしている。
「……いらっしゃい。今年も、暑いわね」
「起きるのか、今夜」
「たぶん。水が、少し重いもの。……起きる前は、いつもそう」
エマは水面を見たまま言った。
水が重い、というのがどういう意味なのかグラントには分からない。分からないがこの女が言うなら、そうなのだろう。
エマの足元で、小さな子供が眠っていた。
五つか六つの、男の子。草の上に丸くなって、口を少し開けて幸せそうに寝ている。夏の夕方の、涼しくなり始めた風の中で。
リオ。この夫婦の一人息子である。
グラントはその子供の寝顔を見た。
見て、それから隣を見た。
もう一人、子供が座っていた。
リオより少し小さい。濡れた髪。着ているものは、村の子供の古着らしい。膝を抱えて、眠っているリオの顔をじっと見ている。村の子供だろう、と最初は思った。
だが、足元の草が濡れていた。
夕立はなかった。池からは五歩離れている。それなのに、その子供の周りの草だけが水を含んで濡れている。
グラントはエマを見た。
エマは水面から目を離さずに言った。
「……その子は、リオの友達よ」
「友達」
「池が、リオにだけ寄越すの。あの子が眠ると、遊びに来る。……あの子は、正体を知らない。不思議な友達だと思ってる」
グラントはもう一度濡れた髪の子供を見た。
子供がこちらを見た。
目が深い。子供の目ではなかった。底の見えない池の色をした、古い古い目だった。
一瞬だけ。それから子供は、また眠っているリオの顔を見た。
「……分体か」
「そう。本体は、あの池の底で眠ってる。……人間を信用しない子なの。私たちにも、水面までしか見せない。それが、リオにだけは、あの姿で来る」
「なぜ、リオにだけだ」
「さあ」
エマは少し笑った。
「糸が、太いからじゃないかしら。あの子、生まれた時から、私たちより太い糸を持ってる。……血筋だと、ヨナスは言うけど」
血筋。
グラントはその言葉を口の中で転がした。
転がして飲み込んだ。
◇
日が落ちて、池が光った。
月の光ではない。水の底から薄い青が滲むように、水面全体が明るくなった。
ヨナスとエマが、池のほとりに並んで立った。二人とも糸を撚っている。細い、触れるだけの糸を水面に垂らして。
守護、という言葉を、グラントはこの時初めて絵で見た。
戦っているのではない。武器も持っていない。ただ池のほとりに立って、水面の下の相手に「ここにいる」と伝え続けている。それだけのために、二人はこの村に住み、この池のほとりに家を建て番号を負っている。
水面の下で、大きな影がゆっくりと動いた。
影の大きさは、池の半分ほどあった。それが一度だけ水面近くまで浮いて、また沈んだ。
竜だ。
飛竜ではない。興行で舞う下位の竜でも、山にいる地竜でもない。百年に一度、伝説の側に名を残す真の竜。それがこの地図にない村の、裏庭の池にいる。
リオが目を覚ました。
目を覚まして隣の濡れた髪の子供を見て、当たり前のように手を伸ばした。
「ちゃぷ。おきた」
濡れた髪の子供が、リオの手を取った。
二人はそのまま池の縁まで歩いていって、水に足を浸けて遊び始めた。片方は人間の子供で、片方は池の底にいる古い竜の分体である。それが水を掛け合って笑っている。
ちゃぷ、というのはリオが付けた名前らしかった。水の音を、そのまま名前にしている。子供の付ける名前は、大体そういうものだ。
ヨナスが糸を垂らしたまま、グラントに言った。
「……あれが、この池の番の、本当のところだ」
「守ってるのは、竜か。それとも、リオか」
「両方だ」
ヨナスは笑わなかった。
「竜は、リオを守る。俺たちは、竜を守る。そういう順番になってる。……この村の誰も、俺たちがここで何をしてるかは、知らん。知らなくていい」
「知ってる奴は」
「お前と、ガルドと、ネムと、バルカと。……それで全部だ。他には、話してない」
グラントは頷いた。
頷いて、池のほとりで水を掛け合っている二人の子供をしばらく見ていた。
「……竜が出た年は、鱗が縁に残る」
ヨナスが、水面を見たまま付け足した。
「一枚残らず、池に戻す。それがこの村の決まりだ。外に出せば、鱗一枚で、この池の場所が売れる」
「守れてるのか、その決まりは」
「今のところは」
帳面には今夜のことは載らない。載せないと、若い頃に決めた。この村の、この池のこの夫婦のことは、帳面の外に置く。それが、番号を十番までにしておく理由でもあった。
◇
夜明け前、グラントは村を出た。
見送りに出たのはヨナス一人で、エマは池のほとりから動かなかった。まだ、水が重いのだという。
「来年も来い」
「来る」
「……リオのことだがな」
ヨナスは、そこで少し言葉を切った。
「あの子の糸は、いずれ、俺たちの手に負えなくなる。この村では、育てきれん。……その時は、頼む」
「その時は、まだ先だろう」
「先だといい」
それだけの会話だった。
グラントは湿地の縁の森を抜けて王都へ戻った。帳場に戻り、帳面を開いていつもの仕事に戻った。
村のことは帳面に載せなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
幕間でした。次回から、本編に戻ります。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。




