第5話 百束に一束 〜学食のスープ異変〜(後編)
翌日の夜。
倉庫街の外れ、灯りの届かない荷車の陰に、三人は集まった。
リオとシェラは昨夜の人足姿。バルカだけは学食の仕込みを終えてから来たとかで、調理着の上に外套を羽織っただけの格好だった。潜入する気が、あまり感じられない。
「バルカさんは、どこから」
「俺は入らねえよ。でかい図体で忍び込みなんぞ、飯がまずくなる」
バルカは倉庫の脇、夜番の詰所を顎で示した。
小屋の窓に灯りはあるが、人影は動かない。耳を澄ませると、いびきが二つ、重なって聞こえた。
「……詰所、寝てますね」
「夜番てのは夜食を食う。今夜あいつらが屋台で買った夜食はな、俺が作った」
「……何か、入れたんですか」
「入れるか。腕だけだ」
バルカは心外そうに鼻を鳴らした。
「うますぎる飯を、あったかいうちに、たらふく食う。それだけで人間ってのは幸せに寝ちまうんだよ。生半可な眠り薬より、よっぽど確実だ」
毒も薬も使っていない。ただの、うますぎる飯で番人を眠らせた。
この人はこういう人だった、とリオは思い出した。
「中の見回りは四人。刻限は四半刻で一巡り。それと、二階の事務場に灯りが一つ――ご主人様の、夜なべのお勤めね」
シェラが扇子の先で倉庫をなぞった。
「わたしたちは明かり取りから。リオ、荷は持った?」
「これですか」
リオは、バルカから渡された布包みを掲げた。ずしりと重く、微かに肉と脂の匂いがする。
「……中身、聞いてもいいですか」
「昨夜、お前が言ったろ。中にいるのは、這うでかぶつだと」
バルカは倉庫の壁を顎で示した。
「ああいう所の番獣はな、まず間違いなく飢えてる。餌代をけちるのが、ああいう連中だ。――で、飢えた獣に持ってく物なんざ、昔から一つに決まってら」
「……飯」
「頃合いでな」
バルカはそれだけ言って、荷車の陰に腰を下ろした。
「行ってこい。帳簿は二階の事務場か、その近くだ。……坊主」
「はい」
「でかいのに、無理はさせるな」
誰に、とは言わなかった。
◇
明かり取りの窓は、地上から三間半。
シェラは壁の石積みの継ぎ目に指をかけると、音もなく登った。衣擦れひとつしない。窓の桟に糸を渡し、リオを引き上げる手際まで、全部が静かだった。
――俺より、静かだ。
夜の仕事で足音を褒められて育ったリオが、素直にそう思う静かさだった。
屋根裏の梁を伝い、二人は倉庫の奥へ進んだ。眼下には木箱と麻袋の山。四つの手燭の灯りが、通路をゆっくり巡回している。
そして、床を這う音がした。
昨夜、壁越しに聞いたのと同じ音。今夜は遮るものがない分、質量がそのまま耳に届く。長い。重い。木箱の谷間を、大きな影が滑っていく。
チェーンスネーク。
胴回りは酒樽ほどもあり、鎖を編んだような灰色の鱗が手燭の明かりを撥ね返している。見回りの男たちは蛇の通り道を避け、壁際だけを歩いていた。飼っている側が、怯えている。
「事務場はあの奥ね。……リオ?」
リオは、梁の上で目を細めていた。
鱗に、艶がない。ところどころ逆立って、割れている。喉の後ろには、擦れて鱗の剥げた帯が一周――鎖の痕だ。それも古い。長く繋がれて、運ばれて、また繋がれてきた体だった。
腹は、空だ。這い方で分かる。獲物を探す這い方ではない。探しても無駄だと知っている這い方だ。
「……飢えてます。ずっと」
「番犬に餌をやりすぎる番人はいないものねえ」
シェラの声から、笑いが消えていた。
「予定通り、あなたはあの子。人払いはわたし。いいわね」
その時だった。
巡回の一人が、足を止めた。
手燭がゆっくりと持ち上がり、梁の方を向く。
――しまった。
移るのが、遅れた。
梁から梁へ渡る時、普段のリオは、灯りの向きを全部数えてから動く。息と同じで、考えることですらない手順だ。その手順を、今夜は一つ飛ばした。三割しか起きていない頭は、飛ばしたことにすら気づいていなかった。
見つかったところで、どうにでもなる相手ではある。だが「どうにでもなる」と「気づかせない」の間には、仕事として天と地ほどの差がある。
光が梁に届く寸前――ふっ、と手燭の火が消えた。
風もないのに。
「あん?」
男が首をかしげ、火打ちを探して俯く。その隙に、リオの襟が細い糸で引かれ、梁の陰に収まっていた。
闇の中で、シェラがひとさし指を立てて見せた。
――今の、貸しひとつ。
声はなかったが、そう書いてあった。
リオは口の中だけで謝り、頭を二度振って、眠気を奥へ押し込んだ。
◇
総崩れは、そこから始まった。
「おい、火が消えた」
「こっちもだ」
倉庫のあちこちで、灯りが次々に落ちていく。糸が手燭の蓋を引いているのだと、分かっていても目で追えない。
「誰かいるのか!?」
「落ち着け、風だろ」
「風なんかねえだろ今夜は!」
男たちの声が、揃って荒くなる。
と、闇の奥から、女の笑い声がした。
右から。いや、左から。頭上から。同じ声が、違う場所から順に響く。腹の底が冷えるような、舞台の底から立ち上るような声だった。
――舞台の発声だ。
壁と天井に当てて、声の出所を消している。昔、笛の稽古のついでに理屈だけ教わった。理屈を知っている耳でも、出所は拾えなかった。
「し、侵入しゃ――」
叫びは、最後まで続かなかった。声を上げた男は抜きかけた剣ごと手首を吊り上げられ、悲鳴の向きが縦に変わった。
一人が走り出し、張られた糸に足を取られて麻袋の山に突っ込んだ。
一人は仲間を探して振り回した手燭ごと、頭から布袋を被せられた。
最後の一人は壁際で腰を抜かし、そのまま器用に、荷締め縄で簀巻きになった。
時間にして、数十秒。
物音といえば、麻袋の崩れる音と悲鳴だけ。血の一滴も流れていない。四人は猿ぐつわを噛まされ、柱に並べて吊るされて、幕が下りた。
――ナンバーズは、全員こうだ。
分かっていても、見るたびに思う。この人たちの本業は、別にある。それでこれだ。
だが、感心している時間はなかった。
悲鳴と物音は、もう一人の住人も起こしていた。
床の暗がりで、鎌首が持ち上がる。酒樽ほどの胴がしなり、空気の震えを探って、ゆらりと揺れた。飢えた体に、騒ぎは餌の合図に聞こえる。
シェラは、そちらを見もしなかった。
吊るした男の猿ぐつわを確かめながら、通りすがりの用事を頼むように言った。
「人はわたしの領分。――大物は、任せたわ」
確認も、心配もなかった。
リオは梁から、音もなく床へ降りた。
◇
闇の中で、大蛇と向き合う。
正面には立たない。だが今夜は、隠れもしない。熱と震えで見る相手に、姿を隠す意味はない。ただ、ゆっくりと呼吸を落とし、敵でも獲物でもない何かとして、そこに立つ。
鎌首が、こちらを向いた。
舌が二度、三度、空気を舐める。
飢え。警戒。それから、深いところに沈んだ、鎖の記憶。読み取れるのはそれだけで、それだけあれば十分だった。こいつは怒っているのではない。ずっと、腹が減っていて、ずっと、怖いだけだ。
リオは、糸を伸ばした。
契約の糸。テイマーなら誰でも使う、目に見えない繋がりの術だ。普通は細い糸を時間をかけて何本も張り、少しずつ相手を馴らしていく。早くて半日。丁寧にやれば、三日。
リオのそれは、太い線が一本。
張り方も違う。説得はしない。命令の形もしていない。空腹と恐怖の輪郭を指先でなぞるように確かめて、その真ん中――「もう探さなくていい」と「もう怖がらなくていい」が重なる一点に、静かに、太く、通す。
息、ひとつ。
それで、繋がった。
線の向こうから、飢えの深さが流れ込んでくる。思っていたより、ずっと深い。番に使うにしても、限度のある飢えさせ方だった。
鎌首から、力が抜けた。
張り詰めていた空気の震えが緩み、大蛇はゆっくりと、とぐろの高さを下げていく。
リオは背中の布包みを下ろし、開いた。
中身は、拳ほどの肉団子だった。蒸してから表面を焼き締めてある。数えて、十二個。骨も筋も除いてあるのが、匂いで分かった。歯の弱った獣でも、丸呑みできる飯だ。
量が控えめなのも、たぶん、わざとだ。飢えきった腹にいきなり詰め込めば、それはそれで体を壊す。加減まで計算された、獣のための飯だった。
「……頃合い、か」
あの人は、昨夜の下見の帰り道には、もうこの仕込みを決めていたのだろう。
一つ目を、床に置いて転がす。
大蛇は舌で二度確かめ、それから、音もなく呑んだ。
二つ目。三つ目。
呑むたびに、鱗の逆立ちが寝ていく。
リオは残りをまとめて置き、その横に座り込んで、大蛇が食べ終わるのを待った。急かさない。見張らない。ただ、隣にいる。
十二個目が消えた頃、大蛇は食べる前より半分ほどの高さになって、リオの座る方へ、ゆるりと胴を寄せてきた。
重く、冷たい鱗が、腕に触れる。
触れたまま、動かなくなった。
いつの間にか、シェラが近くの木箱に腰かけて、こちらを眺めていた。
「こっちは終わったわよ。……あなたのそれ、何度見ても慣れないわねえ」
「何がですか」
「なんでもないわ」
シェラは扇子を閉じて、二階の事務場を指した。
リオは頷き、それから、腕に凭れて眠る大蛇を見下ろした。
「……腹が膨れたら寝る。正しいな」
リオは、あくびを噛み殺した。
つられて寝るわけには、いかなかった。今夜はまだ、仕事がある。
◇
二階の事務場には、灯りと、先客がいた。
帳場机で算盤を弾いていた恰幅のいい男が、戸口の気配に顔を上げ――にっこり笑うシェラと、目が合った。
「ひっ」
それが、ハルツ商店の主人が今夜発した、最初で最後の言葉になった。数拍後には自分の帯で簀巻きにされ、猿ぐつわを噛まされて、部屋の隅の長持の上に、丁寧に座らせられていた。
「夜中にこそこそお仕事なんて、感心しないわねえ」
感心しない手際で人を縛った人の言うことではないと思ったが、リオは黙っておいた。
事務場の帳簿は、机の抽斗に揃っていた。仕入れに、納入に、金の出入り。どれも几帳面な字で付けられている。
「几帳面な小悪党って、助かるわねえ」
シェラが頁を繰る横で、リオは机を指の背で軽く叩いて回った。
天板。側板。抽斗の底――一番下の段だけ、音が浅い。
それにもう一つ。一番下の段を叩いた時だけ、長持の上の主人の息が、止まった。
「シェラさん。ここ、底が二重です。……ご主人の息も、そう言ってます」
主人が、がっくりと項垂れた。
「あらあら」
抽斗を抜いて底板を外すと、薄い帳面がもう一冊出てきた。墨の匂いが新しい。表の帳簿より、よほど大事に扱われてきた匂いだった。
「横流しの裏帳簿。……ふふ。鼻と耳って、こういうことね」
「バルカさんが言っただけです。俺は叩いただけで」
「謙遜は聞かない主義なの」
シェラは裏帳簿を灯りに寄せ、頁を繰りながら言った。
「上物の横流し先、二級品の仕入れ元、全部ある。ギルドはこれで一月は忙しいわ。……で、肝心の草は」
「これ、だと思います」
リオは、仕入れ帳の一列を指した。
品名は「香味草・上」。だが数量の桁が、納入記録とひと桁合わない。そして仕入れ先の欄だけが、屋号ではなく――空欄。備考に小さく「現金・使いの者」とだけある。
「顔を出さない仕入れ先。……送り主のない贈り物ほど、気味の悪いものはないわね」
「原本ごと持っていくと、ばれます」
「写しでいいわ。ギルドに渡す分から、この列だけ抜いておきましょう。この糸の先は、うちで手繰る」
シェラは薄紙を当て、驚くほどの速さで帳面を写し取っていった。舞台の台本を書き写して育った手だという。
写しを終えると、リオは柱の四人と長持の主人の縄を確かめて回った。朝までは保つ。
それから、眠る大蛇の傍らに戻った。契約は、まだ繋いだままだ。
今夜のうちに、もう一仕事――こいつの引っ越しが、残っている。
◇
倉庫の搬入口を細く開けると、外には既に、幌馬車が一台着いていた。
バルカが先触れを走らせていたらしい。御者台から降りてきたのは、外套を羽織った小柄な女だった。年の頃は分からない。外套の下は継ぎの当たった作業着で、袖口には藁と薬の匂いが染みついていた。
「ミラさん」
「あとで」
挨拶は、二文字で流された。
女はリオの横を素通りして倉庫の暗がりへ入り、眠る大蛇の前に膝をついた。灯りを寄せ、鱗を見て、目を見て、口の端をそっと開いて歯茎を見る。喉の鎖痕に指を這わせた時だけ、その手が一瞬、止まった。
「……ひどいことをするわ」
低い声だった。怒っている相手は、蛇ではない。
ひと通り診終えると、ミラはようやくリオを振り返った。
「はい、こんばんは。久しぶりね、リオ」
「久しぶりです。……挨拶、魔物の後なんですね」
「魔物が先。人は後。うちの厩舎の決まりよ」
ミラは大蛇の鼻先に手の甲を寄せてから、幌馬車を指した。荷台には藁が厚く敷かれ、水桶まで据え付けてある。
「食べさせたのは、あなた?」
「飯はバルカさんです。俺は、置いただけで」
「量の加減も正しかったわ。花丸はあの人に付けておく。――それとこの子、違法飼育の押収品だから、うちの厩舎で引き取る決まりなの。仕方なく、決まりでね」
仕方なく、と言う声は、少しも仕方なさそうではなかった。
「さ、お行き。歩ける?」
リオが線の向こうへ、そっと促す。
大蛇は緩慢に頭を起こし、リオの足元に一度だけ舌を伸ばしてから、長い体を荷台へ流し込んでいった。
「契約は、切ってくれていいわ」
荷台に乗り込みながら、ミラが言った。
「ここから先は、わたしの領分。……この子はもう、あなたの匂いを覚えてるもの」
リオは頷いて、テイムを解いた。
切れる瞬間、向こう側から微かな名残のようなものが返ってきた気がした。気のせいかもしれない。どちらでも、悪い気はしなかった。
幌馬車は、夜の倉庫街を音もなく去っていった。
行き先は、第十三厩舎。あの鎖の痕が鱗の艶に埋もれて見えなくなるまで、たぶんミラは餌をやり続ける。
◇
翌々日の夜、リオはバルカに連れられて、香の店の前にいた。
軒先から、甘いような苦いような煙が、夜気に溶けている。
「入らねえのか」
「……外で待ってます」
「相変わらず、オルフェの煙は苦手か」
バルカは笑って、帳簿の写しと偽緑葉の束を持って暖簾の奥へ消えた。
聞こえてきたのは、やり取りの断片だけだった。低い、性別の分からない声が「預かる」と言い、それから「三日」と言った。
三日後、白紙先生経由で薄紙が一枚届いた。
『成分同定は継続。神経を緩める働き。この濃度では無害。作為的な栽培品と断定。仕入れ元、追跡中』
分かったことより、分からないことの方が重い報せだった。
リオは薄紙を燭台で燃やし、灰を窓の外に逃がした。
◇
数日後の昼、食堂は騒がしかった。
「ハルツ商店の主人が捕まったってよ! ギルドに証拠の束が匿名で届いたんだと。しかも横流しだけじゃなくて、産地偽装だの盗品の買い取りだの、余罪がざくざく出てきてるらしいぜ。当分出てこられねえな、ありゃ」
カイルが、どこで仕入れたのか事情通の顔で言った。
「へえ」
「へえって、お前なあ。俺たちのスープの仇だぞ」
「仇は取れたのか」
「取れた」
カイルは、椀を両手で掲げた。
湯気の向こうで、目が潤んでいる。
「今日のスープ、当たりどころじゃねえ。人生で一番うまい」
「大袈裟よ。……本当ね。何これ、おいしい」
セナも二口目で目を丸くした。
リオも椀に口をつけた。
濁りは、どこにもなかった。澄んだ香味の奥に、腰の据わった出汁。学食の域を、二段くらい超えている。
配膳口の奥では、岩のような背中が、今日も正確に包丁を鳴らしていた。料理長の腰が治るまで、あと数日はいるらしい。
帰り際、食器を返す列で、一瞬だけ目が合った。
バルカは何も言わず、顎で裏口の方を指した。
人気のない裏手に回ると、大男は煙草も吸わずに、壁にもたれて立っていた。
「蛇な。厩舎で早速、飯の量が足りねえと文句を垂れてるらしいぞ」
「……元気になってますね」
「ミラの加減は正しい。文句が出るのは、治ってきた証拠よ。まあ、あいつは最後にゃどうせ太らせすぎるんだがな」
バルカは壁から背を離し、リオの頭に大きな手を一度だけ乗せた。
「今回は上出来だ。……気が向いたら店に来い。飯を食わせてやる。裏口からな」
「表からは」
「お前、うちの表の値段を知ってるか」
「……いくらですか」
「一皿で、お前の宿代のひと月分だ」
「裏口から行きます」
「そうしろ」
◇
その夜、眠り鹿の宿。
マルタのスープを飲みながら、リオはふと思った。学食の味は確かに上がったが、このスープの味は、これはこれで別の当たりだ。理屈は分からないが、そういうものらしい。
寝台に入ると、眠りはすぐに来た。
静かな、大きい池の夢を見た気がする。
翌朝のリオは、我ながら珍しいくらい、よく眠れていた。
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