第5話 百束に一束 〜学食のスープ異変〜(前編)
学園の食堂では、ここ半月ほど、妙な挨拶が定着していた。
「今日は当たりか?」
日によって、スープの味に当たり外れがあるのだ。カイルに至っては配膳の列で鍋の湯気を嗅ぎ、当たり外れを予想する芸まで身につけて、的中率で小遣いを賭け始めてはセナに叱られていた。
そして今日は、外れだった。
「……なあ。やっぱり変だぞ、これ」
昼の食堂。木の匙を咥えたまま、カイルは眉間に皺を寄せていた。
「外れの日ね。残念でした」
セナが自分の椀に口をつけ、肩をすくめる。
「いや、そこじゃねえ。……気づいてるか? ここ二日、スープ以外は全部うまくなってんだよ。パンも焼き物も、明らかに先週より上だ。煮豆なんか別物だぞ。なのにスープだけ、相変わらず外れを引く。置いてかれてんだよ、スープだけ」
「あなた、そういうことだけ本当に細かいわね」
「飯は人生だからな」
カイルは真顔だった。
リオは黙って自分の椀をすすった。
――濁っているのは、香味草だ。
出汁でも塩でもない。仕上げに入れる香味草のどれかに、雑味がある。舌の根の脇に、ざらりと引っかかる薄い苦み。知っている味のようで、思い出せない。
言わなかった。説明すると、なぜ分かるのかという話になる。それは面倒だ。
「なあ、リオはどう思う」
「眠い」
「聞いてねえよそれは」
カイルは椀を置き、配膳口の奥を睨んだ。
「怪しいのはあれだな、新しい料理人。ほら、あの目つきの怖いでかいの。あの人が来てから――いや、待てよ。あの人が来てから、他は全部うまくなったんだよな。腕は本物だ。それにスープの外れは、来る前からあったし。……あれ? じゃあ料理人、関係なくねえか?」
「一人で疑って、一人で無罪にしてあげてるわね」
セナが呆れた顔で言った。
配膳口の奥、湯気の向こうに、岩のような背中が見えた。
白い調理着を着た大男が、寸胴の前に立っている。太い腕には古い火傷の痕がいくつも走り、まな板を叩く包丁の音だけが、やたらと正確だった。料理長が腰を痛めたとかで、一昨日から入った臨時の料理人らしい。
リオは、椀に視線を戻した。
――なんで、いるんだ。
あの背中と包丁の音を、リオは知っていた。知っていたが、知らない顔で汁を飲んだ。向こうも、こちらを一度も見ない。つまり、そういうことだ。仕事中の顔に、挨拶はしない。
カイルとセナの言い合いを聞き流しながら、リオはもう一口、濁った汁を飲んだ。
雑味の正体は、分からないままだった。
◇
その日の放課後。
リオは図書館で、借りていた本を返した。
「返却期限は、昨日でした」
受け取った白紙先生が、抑揚なく言った。
「すみません。眠くて」
「眠気は罪ではありません。延滞は罪です」
「反省してます」
「反省の受付は終了しました。代わりに、こちらを」
差し出されたのは、一冊の古い料理書だった。『王都食材事典・香味草の巻』。
「……俺、借りる予定は」
「入りました。今」
リオは黙って本を受け取った。この人に予定の話で勝てたことは、一度もない。
人気のない奥の閲覧席で開くと、頁の間に薄紙が一枚挟まっていた。
『学園納入食材の件。詳細は三番街ロンド亭、裏口。今夜、亥の刻』
署名はない。いつも通りだ。
リオは薄紙を袖に落とし、料理書をぱらりとめくった。香味草の頁に、誰かの手で細い線が引いてある。
――今夜も、寝られそうにない。
◇
三番街のロンド亭は、王都でも指折りの高級料理店だ。表の扉には今夜も馬車が並び、着飾った客が吸い込まれていく。
リオが向かったのは、その裏だった。
路地の突き当たり、樽の並んだ勝手口。軽く二度叩くと、内側から錠の外れる音がした。
「よう」
戸口いっぱいに、岩のような体格の男が立っていた。
昼間、学食の配膳口の奥にいた臨時料理人――バルカ・ロンド。この店のオーナーシェフにして、十三番窓口のNo.5。毒味の料理人。
「学食の飯、まずかったろ」
「スープは。……他は、うまかったです」
「当たり前だ」
バルカは笑いもせずに言って、リオを厨房へ入れた。
夜の仕込みを終えた厨房は、火が半分落とされて薄暗い。作業台の上に、見慣れた草の束が積まれていた。学食のスープに使われている香味草だ。
「まず、答え合わせだ。坊主、昼のスープ、何がおかしかった」
「香味草。どれかに雑味があります。舌の根の脇に引っかかる苦み」
「上等だ。舌ぁ鈍ってねえな」
バルカは束の山から三つ、抜き出して並べた。
「今日、学園に納入された香味草が三百束。そのうち、こいつが三束だ」
「……見た目、同じですね」
「同じだ。目じゃ分からん。香りもほぼ同じだ」
「じゃあ、どうやってこの三束を」
「囓った」
「囓った?」
「三百束、全部だ。生葉の端を一枚ずつな」
バルカは、なんでもないことのように言った。
三百束。一枚ずつ。リオは、この男の昼間の仕込みの量を思い出した。あの仕事の合間に、である。
「生だと差はほとんど出ねえ。出ねえが、分かる。舌ってのはそのためにある。――で、煮出すと、こうなる」
バルカは小鍋を二つ火にかけ、片方に普通の束を、片方に抜き出した束を、それぞれ少量ちぎって落とした。数分煮出して、小皿に取る。
「飲め」
一皿目は、澄んだ良い香味だった。
二皿目を口に含んだ瞬間、リオは眉を寄せた。昼の学食の、あの濁り。それを何倍も濃くした苦みが、舌の根に絡みついた。
「……これだ」
「偽緑葉って草だ。本物の香味草と、葉の形も色もほぼ同じ。畑に紛れて生える。味だけが、こうして裏切る」
「毒、ですか」
「毒なら話が早かった」
バルカは腕を組んだ。
「うちの伝手で調べさせてる最中だが、少なくとも即効の毒じゃねえ。飲んでも腹も壊さん。ただ――妙な成分が、ほんの少しだけ乗ってる。それが何かは、まだ分からん」
「害がないのに、混ざってる」
「そこだ。そこが気に入らねえ」
バルカは、抜き出した束を作業台に置いた。
「いいか、坊主。仕組みを言うぞ。この偽緑葉、混入の割合はおよそ百束に一束だ」
「百に一……少なくないですか。ばれないためにしても」
「逆だ。ばれないために、百に一なんだよ」
バルカは太い指を一本立てた。
「納入の検品てのは、束単位の抜き取りだ。何百束から一束抜いて、小鍋で煮て、味を見る。百に一なら、検品がハズレを引く目は百に一。まず通る」
二本目の指が立つ。
「家庭の鍋は、一束ずつ使う。ハズレを引いた家は、その晩の汁がまずくなる。だが百日に一度だ。かかあは自分の腕を疑って、終わりだ。誰も草を疑わねえ」
三本目。
「ところが学食は、でかい寸胴に何十束もまとめてぶち込む。百に一なら、大鍋はほぼ毎日どこかでハズレを引く。しかも一束で鍋ごと味が崩れる濃さときてる。――分かるか。この混ぜ方は、小口じゃ絶対にばれず、大口でだけ発覚する」
リオは、二皿目の残りを見下ろした。
「……検品を、知ってる人間の仕事」
「そういうこった。素人の混ぜ物じゃねえ。流通と検品の穴を知り尽くした奴が、割合まで計算して混ぜてる。唯一の計算違いが、学食のでかい寸胴よ。家庭の鍋と料理屋の小鍋しか、頭になかったんだろうさ。害のねえ量を、どこまで気づかれずに流せるか――」
バルカは、束を指で弾いた。
「こいつは、試してやがる」
厨房が、静かになった。
落とした火の中で、炭が一つ爆ぜた。
「それとな、坊主。こいつは畑に紛れた雑草なんかじゃねえ」
バルカは束の根元を、リオの方へ向けた。
「切り口が揃ってる。葉の育ちも揃いすぎてる。人の手で育てて、人の手で刈って、人の手で紛れ込ませた草だ」
「……栽培してる。わざわざ」
「そういうことになるな。何のためか、とは聞くなよ。分からんもんは分からん。――ただ、勘だけ言っとく」
バルカは束を置き、指についた葉の匂いを嗅いだ。
「毒を盛る気なら、こんな回りくどい真似はしねえ。銭と手間をかけて、毒にもならんもんを、気づかれねえように流す。こいつが確かめてるのは草の中身じゃねえ。草の通り道だ」
「通り道」
「どの道を通せば、どこの鍋まで届くか。……本命は、次に流すもんだろうよ。勘だがな。だから帳簿を取る。通り道の元を辿る。それが今回の仕事だ」
「学園の味が落ちた件は」
「ありゃ別口の、ただのせこい話だ。納入業者のハルツ商店が、上物を横流しして二級品にすり替えて、利ざやを抜いてる。味が落ちた本筋はそっちよ。偽緑葉は、そのどさくさに乗って紛れ込んでる――業者自身も知らねえ可能性がある」
「せこい話、の割に」
リオは、作業台の草の束を見た。
「バルカさんが直々に、二日も潜ってるんですね」
「掘ったら、せこくなかったのよ」
バルカは指の脂を布で拭った。
「横流しは入り口だ。出るわ出るわ――産地の偽装、量目のごまかし、盗品食材の故買、挙句は違法な魔物取引まで噛んでる。小悪党は小悪党でも、ずいぶん手広い小悪党だった」
「表のギルドは」
「動けねえ。学園の納入には財団の顔も貴族の家も絡んでる。表から摘発すりゃ、面子の潰し合いで話が三年は寝る。だから学園は、表に出せねえ相談として、うちに回した」
「……依頼主、学園なんですね」
「財団経由の、金の動く正式な仕事だ。依頼の文言は短けえぞ。『原因を特定し、静かに取り除くこと』。以上だ」
バルカは束を作業台に置き直した。
「言っとくがな、坊主。うちは義賊でも正義の味方でもねえ。依頼があるから動く。依頼がなけりゃ、ハルツの横流しなんぞ王都の日常だ」
「知ってます」
「だな。……まあ、飯に細工する野郎が心底気に入らねえのは、依頼とは関係ねえ、俺の私情だがよ」
「……いつから気づいてたんですか」
「話が来たのが五日前。厨房に入ったのが一昨日だ。人の台所を調べるにゃ、まず自分の舌で確かめるのが筋でな。すり替えは初日の晩に割れた。草が割れたのが昨日だ」
「二日、ですか」
「二日ありゃ、台所のことは大体分かる」
「今日の昼のスープは」
「選り切る前に、鍋に入っちまった分だ。明日からは抜く」
「気づきませんでした。厨房にいるの」
「気づかれてたら潜入の意味がねえだろ」
その時、勝手口の錠が、外から鳴った。
叩いてもいないのに、するりと開く。
「――あら。もう始めてるじゃない。ひどいわ、わたし抜きで」
夜気と一緒に入ってきたのは、長い外套の女だった。
外套の下は舞台裏のような黒ずくめで、指先だけが手袋から出ている。年の頃は分からない。分からないように、作ってある顔だった。
「錠、閉めてたぞ」
「閉まってる錠なんて、この王都に一つもないわよ」
女はさらりと言って、リオを見た。
その瞬間、作ってあった顔がふっと緩んで、ただのおばの顔になった。
「リオちゃん。大きくなったじゃない」
「……シェラさん。その呼び方、そろそろ」
「あら、駄目? じゃあ坊や」
「リオでいいです」
「ふふ。はい、リオ」
シェラ・リュート。歌劇団の座長にして、十三番窓口のNo.6。糸繰りの舞台屋。
昔、リオに笛と、人前での立ち居振る舞いを教えた人でもある。教え方はガルドの次に容赦がなかった。
「話はどこまで?」
「仕組みまでだ。段取りはこれからよ」
バルカが作業台に、王都の地図を広げた。
「標的は納入業者――ハルツ商店の倉庫だ。四番街の外れ、倉庫街の三号棟。すり替えの証拠と、偽緑葉の仕入れの記録。帳簿と現物、両方押さえる」
「押さえた後は?」
「すり替えの件は、証拠ごと表のギルドに流す。手柄もくれてやる。うちの名前はどこにも出さねえ」
「いつも通りね。で、わたしの出し物は」
「人払いと、入りの演出。倉庫にゃ夜番の用心棒が五、六人いる」
「五、六人」
シェラは扇子を開いて、口元を隠した。
「一幕で終わっちゃうわ」
「終わらせるんだよ。長引かせる舞台じゃねえ」
「分かってるわよ。……それで、この子は?」
「帳簿探しの鼻と耳。それと――」
バルカは、少しだけ言葉を切った。
「倉庫にゃ、番犬がいるって話だ。夜の間だけ放されてる。それの相手だ」
「あら。なら安心ね」
シェラの言い方には、確認も心配もなかった。天気の話と同じ調子で、決まりきったことのように。
リオは、あくびを噛み殺した。
「……決行は」
「明日の夜。今夜は下見だけだ。おい坊主、寝てんのか」
「起きてます。三割くらい」
「三割で倉庫街まで歩けるか」
「歩けます。慣れてるので」
「その慣れが一番怖いのよねえ」
シェラが扇子の陰で笑った。
それから彼女は、持ってきた布包みを解いた。出てきたのは、着古した風合いの人足の上着が三着。明日の分と、今夜の下見の分らしい。
「はい、リオ。着てみて」
袖を通すと、シェラは正面に回り、襟と肩を手早く直した。袖を一寸詰め、腰の紐の位置を変え、最後に襟元を少しだけ着崩す。
「……何か違いますか。これで」
「違うわよ。仕立てのいい服の着方が抜けてないの。人足の子は、袖をこう捲るの。寒くても」
指先が袖を二折りする。それだけで、鏡がなくても分かるくらい、上着が体に馴染んだ。
「衣装は体に合ってないと、嘘になるのよ」
「……覚えておきます」
「ふふ。昔は笛の構えで同じことを言ったわねえ」
「あれは覚えてます。腕が上がらなくなるまでやらされたので」
◇
倉庫街は、夜になると音の質が変わる。
昼間は荷車と怒鳴り声で埋まる通りが、今は等間隔の常夜灯と、遠い酔漢の歌だけになる。三人は荷運び人足の帰り道を装って、四番街へ歩いた。
「それで、学園はどう? お友達はできた?」
「シェラさん。仕事中です」
「歩いてるだけの間くらい、いいじゃないの。ネムから聞いたわよ、いい子たちと組んでるって」
「……普通です。普通の友達です」
「あらあら」
扇子の陰で、シェラが笑った。何がおかしいのかは、聞かないでおいた。聞くと長くなる。
三号棟の前を、三人はゆっくり通り過ぎた。
ハルツ商店の倉庫は、石積みの土台に木の上屋を載せた、この街区では標準的な建物だった。搬入口は正面に一つ、人の出入り口が脇に一つ。窓は高い位置に明かり取りが並ぶだけ。
「夜番の詰所は脇の小屋。灯りが二つ……交代で回してるわね」
シェラが、通りすがりの足取りのまま小声で言った。
「屋根は?」
「明かり取りの窓から入れるわ。桟の幅も十分。……リオ、聞いてる?」
リオは、返事をしなかった。
足を止めていた。
倉庫の壁の前。昼間なら荷車の音に消えてしまうような、低い、長い音を、耳が拾っていた。
重いものが、床板の上を滑る音。
途切れて、また続く。壁一枚向こうを、右から左へ。
「……リオ?」
「静かに」
音が、止まった。
こちらの気配を拾ったのだ。壁の向こうで、大きな何かが、じっと耳を澄ませている。息遣いは低く、長い。犬のそれではなかった。
リオは壁から一歩離れ、二人を見た。
「……中に、大物がいます」
「番犬でしょう? 昼の聞き込みでは、大きな犬を放してるって」
「犬じゃないです」
リオは、壁を見上げた。
「足音がしない。――這ってます」
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