第42話 十二匹目
お読みいただきありがとうございます。
今回は少し長めの、一話完結です。
二年生になって最初の実技の日、中庭で小さな事件があった。
事件というほどでもない。ノアのブレイドラプトル、ゼルがリオの鞄に向かって低く唸ったのである。
鞄の中身に、気づいたのだ。群れの見張り役は、魔力の大きさに敏感である。鞄の中で丸まっている掌ほどの光が、大型の魔物三、四頭分の魔力を持っていることを、ゼルは鼻で嗅ぎ取っていた。
「……こら、ゼル。何もないだろ、そこ」
ノアが首筋を叩く前に、鞄の口から赤い帽子が覗いた。
「こんにちは」
言うと同時に、あかりの光が、ふわりと一度だけ膨らんだ。
脅しではない。挨拶である。これが私、と見せただけだ。だがその一瞬、中庭の空気が、真夏の昼のように熱くなった。
ゼルの唸りが止まった。
止まって、前傾していた体がゆっくりと起き、長い尾が地面に下りた。伏せた。中庭の全員に威嚇していたあの走竜が、掌ほどの光には一度で伏せたのである。
「……先輩。こいつ、何なんだ」
「うちの子だ」
「そうじゃなくて」
「ゼルが、あかりを自分より上だと認めたんだ。見張り役は、自分より強いものには逆らわない。……詳しくは、ゼルに聞いてくれ」
ノアはしばらくゼルとあかりを交互に見て、それから諦めたように肩を落とした。
この後輩は、諦めるのが少しずつ早くなっている。悪いことではない。
その日の放課後、リオは帳場に呼ばれた。
◇
「――押収獣の預かりだ」
グラントは帳面から顔を上げずに言った。
「憲兵が昨日、東の職人街で魔物商を一軒潰した。無許可の売買と、密輸だ。商人は捕まったが、店にいた魔物が十四匹、残された。……魔物に罪はねえ。駆除するのはもったいねえし、人の手で飼われてた連中だから、野に放つわけにもいかん。行き先が正式に決まるまで、どこかで預からなきゃならん。で、うちに回ってきた」
「うち、ですか」
「表のうちだ。ヴェイル人材派遣。財団経由の、まっとうな仕事だよ。獣の扱える人手を貸す。……十四匹まとめて置ける場所は、王都に一つしかねえ」
「……第十三厩舎」
「ミラのとこだ。お前は搬入と、当面の世話の手伝い。獣医の指図に従え」
リオは頷いた。
覆面も変声も要らない、表の仕事である。押収獣の世話。それ自体は、テイマー科の生徒のバイトとして何の不思議もない。
「一つ、言っとく」
グラントが、そこで初めて顔を上げた。
「押収された魔物ってのはな、帰す先が決まってる奴と、決まってねえ奴がいる。……決まってねえ奴を見ても、抱え込むなよ。お前は、一体しか契約できねえんだからな」
「分かってます」
「分かってねえ顔だ」
図星だったので、黙った。
◇
第十三厩舎は、王都の外れの崖と川に挟まれた牧場である。
大扉の前で、二頭の番犬――ガロとジドがリオを見た。見て、鼻を鳴らして道を空けた。初めて来た日には「通さない」と言い張った二頭である。あれから何度か通って、どうやら顔を覚えられたらしい。
「――あら、来たわね」
ミラが、草地の柵の向こうから手を振った。
白衣の袖をまくって、片手に注射器、もう片手に林檎。相変わらず、挨拶は短い。
「押収の子たち、昨日の夜に着いたわ。奥の囲いに入れてある。……ひどい状態の子が半分、そうでもない子が半分」
「ひどい、というのは」
「狭い檻に、餌は最低限、水は汚れてる。売り物になるまでの間、金をかけない商売だったのよ。……ま、憲兵が潰してくれて何よりだわ」
奥の囲いには、大小の獣が十四匹まだ落ち着かない様子で固まっていた。
小型の鳥が三羽。中型の犬型が二頭。蜥蜴のような一匹。あとは、種類も見当のつかない小さな獣たち。どれも毛艶が悪く、目に力がない。
リオは柵の外にしゃがんで、細い糸を一本ずつそっと伸ばした。
触れるだけの糸である。怯え。空腹。人間への警戒。どの糸からも、似たような温度が返ってくる。
「……この子たち、帰す先は」
「憲兵が調べてる最中。生まれた場所の分かる子は、そこへ帰す。分からない子は、財団が引き取り手を探す。……大体はね、なんとかなるのよ」
ミラは林檎を齧りながら、囲いの隅を顎で示した。
「なんとかならない子も、いるけど」
隅に白いものがいた。
最初、雪の塊かと思った。真っ白な毛の、掌に載るかどうかの小さな獣。長い耳を背中にぴたりと倒し、囲いの一番奥の壁に体を押し付けている。他の獣とも距離を取っている。
「フロストラビット。北方の希少種よ。冬毛が真っ白で、春になると灰色に生え変わる。……本当なら、この季節はもう灰色になってるはずなんだけど」
「あの隅だけ、少し寒いですね」
「気づいた? あの子の力よ。周りの空気を冷やすの。北の雪の中で体を守るための力だけど、こっちでは夏の氷室代わりになるって、密輸の値が付くのよ。……熱を出した獣の隣に置くと、応急の手当てにもなる。獣医としては、正直、欲しい力だわ」
「まだ、真っ白ですね」
「ええ。生まれてから、まともに季節を浴びてないの。……あの子はね、密輸された子じゃないのよ。密輸された親から、あの商人のところで生まれた子」
リオは白い獣を見た。
白い獣もリオを見ていた。長い耳の下の、赤い目で。
「北の領域に帰しても、冬を越せない。餌の取り方も、穴の掘り方も、雪の避け方も、誰にも教わってない。……野生で生きられない子は、野生には帰せないの」
「帰す先が、ない」
「ないわね。財団が探すことになるけど、フロストラビットは飼うのが難しいのよ。警戒心が強くて、人に慣れるまで普通は一年くらいはかかるわ。手間を惜しまない引き取り手が、そう簡単に見つかるとは思えない」
リオは糸を伸ばそうとしてやめた。
囲いの隅の白い獣が、それより早く耳を立てたからである。
近づくな、という耳の立て方だった。
「……あなた、抱え込まないでよ」
ミラが林檎の芯を放りながら言った。
「あなたは一度に一体。それに、あなたのところには、もう灯りが一つ居着いてるでしょう」
「グラントさんと、同じことを言うんですね」
「同じことを言われる顔をしてるのよ、あなたが」
リオは答えなかった。
白い獣の赤い目を、もう一度見た。
帰す先がない。
その言葉をリオはこの冬一度聞いている。硝子と金属の中から出てきた光の塊が、糸の向こうで言った言葉だ。おうちはない。あいつがこわした。
あの時、リオは帰す先を作った。帳場の燭台の隣に。
だが、今回はそれができない。この白い獣は、灯りを食う妖精ではない。世話がいる。庭がいる。餌と水と、同じ種類ではなくても、隣で眠る仲間がいる。
そういう場所を、リオは持っていない。
持っていないが、一つだけ知っていた。
柵の外にしゃがんだまま、リオは一人の名前を思い浮かべていた。
◇
翌日の昼休み、トトの図鑑が机の上で開かれた。
「フロストラビット……ありました。北方の希少種。冬毛は純白、夏毛は灰色。警戒心が非常に強く、人に慣れるまで一年を要する。……あ、ここ。『群れで暮らす種であり、単独での飼育は不向き。同種または気性の穏やかな小型獣との同居が望ましい』」
「群れで暮らす」
「そうみたいです。冬毛特集号にも載ってたんですけど、飼育の項はこっちの方が詳しくて。あ、あと『周囲の気温を下げる能力を持つ。夏季は特に重宝される』って」
「暑がりの子には、いい隣人だな」
トトは少し得意そうだった。図鑑の知識が教室の外で役に立つ日は、そう多くない。
「ありがとう、トト」
「いえ。……でも先輩、どうしてフロストラビットの飼い方なんか」
「バイト先で、預かってるんだ」
嘘ではない。
そして放課後、リオは獣舎へ向かった。
セナはいつものように、放課後の獣舎で藁を替えていた。肩のフワがリオに気づいて、ぴと鳴いた。
「珍しいわね。獣舎まで来るなんて」
「話がある」
「……何」
リオは藁の山の脇に立って順番に話した。押収獣のこと。第十三厩舎のこと。隅で壁に体を押し付けている白い獣のこと。そして帰す先がないこと。
セナは、藁を替える手を止めずに聞いていた。聞き終えて、それからフォークを藁に立てた。
「……それで」
「セナに、頼みたい」
「私に」
「その子を、引き取ってほしい」
セナはしばらくリオの顔を見ていた。
見て、それからいつもの顔で言った。
「……どうして、私なの。その厩舎で預かればいいでしょう。財団だって、引き取り手を探すんでしょう」
「探す。でも、見つかるとは限らない。それに、群れで暮らす種なんだ。一匹だけで、どこかの屋敷の籠に入れられるより――」
リオは、そこで一度言葉を選んだ。
選んで、選ばずにそのまま言った。
「帰す先がない子に、居場所を作れる人を、俺は一人しか知らない」
獣舎が静かになった。
フワがセナの肩の上で、わずかに膨らんだ。
セナは、藁に立てたフォークの柄をしばらく握っていた。それから、手を離した。
「……そういうことを」
声がいつもより低かった。
「そういうことを、真顔で言うのは、やめてほしいのだけれど」
「本当のことだから」
「知ってるわ。だから困るのよ」
セナは獣舎の奥の十一匹の寝床を見た。
フワ。ノル。耳の長い子。小さい子たち。この一年で彼女が一匹ずつ、自分の理屈と観察で結んできた子たちである。
「……警戒心が、強いのね」
「一年くらい、慣れないらしい」
「群れで暮らす種で」
「ああ」
「うちには、十一匹いる」
セナはそれだけ言って、フォークをまた手に取った。
「連れてきなさい。……庭で会うわ。うちの子たちと一緒に」
承諾は、それだけだった。
◇
白い獣はミラの籠に入れられて、ラティス家の庭に来た。
籠の中で、体を一番奥に押し付けて耳を倒している。厩舎の囲いにいた時と、同じ姿勢である。
庭には十一匹がいた。
だが、今日の十一匹は輪を作らなかった。
セナがそう指図したのである。
「囲まない。近づかない。……見るだけ」
十一匹は庭のそれぞれの場所で、それぞれのことをしていた。フワは陽だまりで丸くなり、ノルは日向に伸び、耳の長い子は草を食み、小さい子たちは積み箱の周りで遊んでいる。誰も籠を見ない。見ないふりをしている。
セナは籠の扉を開けた。
開けて離れた。庭の縁の椅子まで下がってそこに座った。
リオは、もっと離れた柵の外に立っていた。
「……近づかないんだな」
「近づいたら、逃げるわ」
セナは椅子の上で膝を抱えた。
「警戒心の強い子に、理屈は通らない。私が何を言っても、何をしても、あの子は聞かない。……だから、待つ」
「待つのか。セナが」
「意外?」
「少し」
「……カイルが、言ってたのよ」
セナは籠の方を見たまま言った。
「山猫の前で、あなたはずっと待ってたって。あの人、他のことは全部盛るのに、そこだけ妙に静かに話すの。……理屈で詰めるのをやめたら何が起きるか、私は見てないけど、聞いた。真似してみるわ。上手くできるかは、分からないけど」
リオは何も言わなかった。
言う代わりに柵に肘を掛けて同じ方を見た。
待った。
母屋の窓が途中で一度開いた。母が顔を出して、庭の籠と、椅子の娘と、柵の外のリオを一度ずつ見た。見て、何も言わずに窓を閉めた。しばらくして、柵の外に湯気の立つ茶が二つ置かれていた。置いた人の姿は、もうなかった。
待った。
半刻、白い獣は籠から出なかった。
一刻、籠の扉の縁まで来て、また奥へ戻った。
日が傾き始めた頃、耳の長い子が草を食みながら籠の近くを通った。通っただけである。籠を見もしなかった。だが、白い獣の耳がその時初めてわずかに動いた。
同じ耳の長さの獣が、目の前を通ったのである。
耳の長い子は、籠の少し先で草を食み続けた。逃げも寄りもしない。ただ、そこにいる。
白い獣が籠の縁に前足を掛けた。
セナは動かなかった。
リオも動かなかった。
白い獣は籠を出た。出た途端、春の庭の空気がその一角だけひやりとした。耳の長い子が、涼しい方へ一歩寄った。
白い獣は、耳の長い子の隣までゆっくりと跳ねた。二跳び。三跳び。隣に並んで、同じ草を食み始めた。
フワが陽だまりで片目だけ開けた。
ノルが日向でしっぽを一度だけ振った。
小さい子たちは、遊ぶのをやめなかった。
誰も囲まなかった。囲まないまま、群れの中に一匹増えた。
夕陽の中で、セナが椅子から立ち上がった。
立ち上がって、庭の真ん中までゆっくりと歩いた。白い獣が耳を立てた。だが、逃げなかった。隣に耳の長い子がいたからである。
セナは白い獣の前にしゃがんだ。
糸を伸ばした。
リオの糸とは、違う。セナの糸は彼女のやり方の糸である。差し出すのではなく、群れの糸に一本足す形。十一本の糸が既にあるところへ、十二本目を隣に置く。
白い獣は隣の耳の長い子を見て、それからセナを見た。
見て――咥えた。
人に慣れたのではない。群れに入ったのである。一年かかるはずの距離を、十一匹が先に埋めていた。
「……十二匹目」
セナが小さく言った。
声が少し震えていた。理屈ではない声だった。
「名前は、決めてあるわ」
「早いな」
「昨日の夜、決めたの。……ユキ」
白い獣は自分の名前をまだ知らない。知らないまま、灰色に変わる前の白い毛を夕陽に染めて、耳の長い子の隣で草を食んでいた。
◇
翌日の教室では、十二匹目の話がもう広まっていた。
「セナ、十二匹目って本当か! どんな奴だ!」
「白い兎よ。……まだ、慣れてないから見せないわ」
「兎かあ。うちのゼルと相性悪そうだな」
カイルは、いつの間にか後輩のノアのラプトルまで「うちの」に含めていた。
「フロストラビットですよね。図鑑で見ました。冬毛が真っ白で――」
「トト。あなた、なんで知ってるの」
「先輩が、昼休みに聞きに来たので」
セナがリオを見た。
リオは机に突っ伏して寝たふりをした。
「……あなた、私に話す前に、トトに調べさせてたのね」
「準備は、大事だから」
「準備」
セナはそれ以上何も言わなかった。耳の先だけが赤かった。理由は聞かないでおいた。
◇
数日後、セナは籠を提げて第十三厩舎に来た。
検診である。密輸業者の下で生まれた子は、一度は獣医に診せておく方がいい、とリオが言い、セナが「当たり前でしょう」と返した。
ミラは柵の向こうで、いつも通り林檎を齧っていた。
「――あら、来たわね。あなたが、ラティスの家の娘さん?」
「セナ・ラティスです。……ユキを、診ていただきに」
「ユキ。……いい名前ね。出しなさい」
セナは籠を開けた。
白い獣は籠から出て、セナの足元にぴたりと寄った。数日前、壁に体を押し付けていた獣とは別の獣のようだった。
ミラは白い獣を見なかった。
代わりにセナの手を見た。籠を開ける手。獣が足元に来た時の、腰の落とし方。触ろうとせず、手の甲を下に向けて獣の側から嗅がせる距離の取り方。
「……ふうん」
ミラは林檎の芯を放った。
「あなた、糸で診てるわね」
「え」
「触る前に、耳の付け根が張ってるのを見た。違う?」
セナは少し驚いた顔をした。
「……はい。籠の中で、耳を倒し続けてたから。付け根が、凝ってると思って」
「正解」
ミラはそれだけ言って白い獣を診始めた。
診ながら、独り言のように付け足した。
「……悪くないね、その目」
診終えて、ミラは白い獣の背を、手の甲でそっと撫でた。空気がひやりとした。
「夏になったら、この子、貸してね。熱の出る子が一番多い季節なのよ」
「……はい」
セナはそれ以上は答えなかった。
代わりに、ミラの手つきを――獣に触れる前の、糸の使い方を――じっと見ていた。
リオは柵の外からそれを見ていた。
ミラの目がセナを見る目。セナの目がミラの手を見る目。
この二人が、いつか同じ場所で獣を診る日が来るかもしれない、と――そこまで考えてやめた。先の話である。先の話は先で決まる。
◇
その夜の帳面の品目欄には、几帳面な字でこう載った。
『押収獣の預かり 十四匹(うち一匹、ラティス家へ)』
「……ラティス家、な」
グラントは帳面を閉じながら言った。
「抱え込むなとは言ったが。人に抱えさせるのは、聞いてなかったな」
「抱えてません。……居場所を、作っただけです」
「同じことだろうが」
「違います」
リオは珍しく言い切った。
「返す先がないなら、居場所を作る。……それを、俺は、この帳場で教わりました」
グラントはしばらく黙っていた。
それから湯呑みを取って、一口飲んで言った。
「……上出来だ」
燭台の隣で、あかりがぱたりと羽根を動かした。
【登場人物メモ】
ミラ・フォルカ……第十三厩舎の獣医(第8話)。五十一本の細い糸で厩舎の獣たちと繋がっている。
ガロとジド……第十三厩舎の番犬(第8話)。




