第41話 休暇の使い方
「休暇をやろう」
春の夜の帳場で、グラントは唐突に言った。
リオは報告書を書く手を止めて、顔を上げた。
「休暇」
「ああ」
「……何をすれば、いいんですか」
「何もしなくていいんだよ。それが、休暇だ」
「何も、って」
リオは本気で困った顔をした。
昼は学園、夜は帳場。その二本立て以外の一日を、リオはもう何年も過ごしていない。休暇と言われて、何も思いつかないのである。
「……寝ます」
「寝るのは、いつもだろうが」
「じゃあ、何を」
グラントは湯呑みを置いて、しばらくリオの顔を見ていた。
それから、面倒くさそうに言った。
「……分かった。場所は、俺が決める。お前は、そこで、好きにしてろ。明日の朝、竜舎に来い」
「竜舎?」
「飛ぶんだよ。遠いからな」
◇
翌朝の竜舎には、翁とノワールがいた。
「――で、誰が乗るんだ」
マキアス翁は白髭を撫でながら、グラントとリオを交互に見た。
「俺だ」
グラントが言った。
リオは聞き間違いかと思った。
「……グラントさんが」
「若い頃は、乗ってた。財団の使いで、あちこちな。……体は、覚えてる」
翁が目を細めた。
「お前さん、まだ乗れるのか。……膝は」
「乗ってる間は、痛まねえ。降りてからだ」
翁はふんと鼻を鳴らして、それ以上聞かなかった。聞かないのがこの人の流儀である。
ノワールはグラントを見た。
若い黒竜は、初対面の人間をたっぷり検分する性格である。リオの時も、契約の線を咥えるまで時間をかけた。
だが、グラントの前では検分は短かった。
ノワールはグラントの顔を一度だけ見て、それから首をすっと低くした。鞍に乗れ、という姿勢である。
糸はない。契約もない。グラントはテイマーではないのだ。
それでも、竜はこの人の言うことを聞く。
理由は多分、年季だ。竜に乗っていた年月と、それより長い、人間を見てきた年月が、この人の体から竜にも分かる形でにじみ出ているのだろう。
「乗れ」
リオは副座に乗った。
グラントは鞍に座ると、手綱を軽く一度だけ引いて、ノワールの首をぽんと叩いた。
それだけで、黒竜は大扉の外へ歩み出て翼を広げた。
この人は一体、何者なのだろう。
リオは副座の上で、去年から数え切れないほど繰り返した問いをもう一度思った。
◇
飛んだのは、王都から北へ山を二つ越えた先だった。
眼下に森が広がっていた。
深い、深い森である。人の道は一本もない。地図にも多分、載っていない。
「名前は、ねえ。地図にも、ねえ」
グラントが風の中で言った。
「お前を、ガキの頃に放り込んだ森だ。火の熾し方も、水の探し方も、逃げ足も。……ここで、覚えさせた」
リオは眼下の森を見た。
覚えている、と思った。ぼんやりと、だが。
あの大きな木の形。あの沢の曲がり方。はっきりとは思い出せない。だが見ているうちに、遠い記憶の底から少しずつ浮かんでくるものがあった。
ノワールが、森の切れ目の小さな草地に降りた。
「一日、好きに遊んでこい」
グラントは副座のリオを、鞍の上から見下ろした。
「夕方、迎えに来る。それまで、何をしてもいい。何もしなくてもいい」
「……グラントさんは」
「帳場に戻る。仕事だ」
それだけ言って、グラントは手綱を引いた。
黒竜が草地を蹴って空へ抜けた。
あっという間に、空の点になった。
リオは一人で草地に立っていた。
正確には一人ではない。鞄の中で光がもぞもぞしていた。
「……リオ。おわった?」
「終わってない。始まった」
「なにが」
「休暇が」
あかりが鞄の口から帽子を覗かせた。
「きゅうか、って、なに」
「……分からない」
リオは正直に答えた。
◇
最初の半刻、リオは何をしていいか分からずに森の縁を歩いた。
歩いているうちに思い出した。沢はあっちだ。
沢があった。子供の頃、水を汲んだ沢である。水音を聞いたらはっきり思い出した。ここで桶を落として、拾いに入ってずぶ濡れになったことがある。
水を飲んだ。うまかった。
それから火を熾した。熾す必要はなかった。春の昼で寒くはない。だが熾したくなった。この森で初めて火をつけた日のことをぼんやり思い出したからだ。枯れ枝を集めて、石を組んで、火打ちを打つ。子供の頃、嫌になるほど仕込まれたあの順番で。
火がついた。
火の前でリオは座った。
座ると、何もすることがなくなった。
することがないと、眠くなる。
眠くなると、思い出した。寝る場所はあそこだ。
草地の端の大きな木の根元。根が椅子のようにうねって張り出している。
そこに体を預けた。
子供の頃、この根元で寝た。何度も。ここがこの森で一番安全な場所だと、誰かに教えられた気がする。誰だったかは思い出せないが。
「リオ。ねる?」
「……休暇だから」
あかりはリオの膝の上で帽子を直した。
「きゅうかは、ねる、こと?」
「多分」
「わかった。あかりも、ねる」
膝の上のあかりは、春の日を浴びていた。
燭台の火とは違う。日の光は体の芯までゆっくりと温める。
「……ぽかぽか」
覚えたばかりの言葉らしかった。言って、気に入ったらしく、もう一度言った。
「ぽかぽか」
春の森は静かだった。
鳥の声。風の音。沢の水。
リオは眠った。
◇
最初に来たのは大蛇だった。
木の根元を、太い体がゆっくりと渡っていく。人の胴ほどある灰緑の鱗。眠っている人間の周りを一周して匂いを嗅ぎ、それからゆるくとぐろを巻いた。
子供の頃、冬の夜に、この蛇は震える子供に巻きついて温めた。蛇は変温の生き物である。温める力はない。だが風を防ぐ壁にはなった。
覚えていたらしい。
次に狼の群れが来た。
灰色の痩せた狼たち。眠っている人間を遠巻きに見て、それから一頭ずつ伏せた。輪になって、外を向いて。見張りの形である。
梟が頭上の枝に降りた。
狐の一族が足元に丸くなった。
森の獣たちである。
十年ぶりに戻ってきた子供の匂いを覚えていたのは、たぶん大蛇だけだった。蛇は長く生きる。狼も狐も、十年前とは顔ぶれが変わっている。それでも森で一番古い生き物が巻きついた相手を、森は敵と数えなかった。覚えていた者に、倣ったのである。
あかりが膝の上で目を覚ました。
獣たちを見回した。獣たちも光を見た。
「……こんにちは」
大蛇が舌を一度出した。
返事らしかった。
あかりは帽子を直して、また光の中で丸くなった。
リオは眠り続けていた。
夢を見ていた。何の夢かは、起きた時にはもう覚えていなかった。
ただ、あたたかい夢だった気がする。誰かの声がしていた気もする。何を言っていたのかは分からない。
眠っている顔は、帳場にいる時とも教室にいる時とも違った。
何も守っていない顔だった。
◇
夕方、黒い竜が森の切れ目に降りた。
グラントは鞍から降りて膝を一度さすり、それから草地を見渡した。
光が一つ、木の根元にある。あかりの灯りだ。目印にはちょうどいい。
その光の周りに――
グラントは足を止めた。
大蛇がとぐろを巻いている。狼が輪になって伏せている。梟が枝にいる。狐が足元にいる。
その真ん中で、一人の若者が木の根に体を預けて眠っていた。
ノワールが背後で低く唸った。若い竜には、この光景がどう見えているのか。
「……静かにしてろ」
グラントは竜の首をぽんと叩いた。
それから、ゆっくりと輪に近づいた。
狼たちが顔を上げた。大蛇が頭をもたげた。
グラントは止まらなかった。
止まらずに、輪の外側で立ち止まった。
獣たちはしばらくこの人間を見ていた。十年前、子供を連れてこの森に来た人間である。大蛇はこちらの匂いも覚えていたらしい。
狼がまた伏せた。
大蛇が頭を下ろした。
グラントは眠っている顔を見た。
十年前、この森に放り込んだ子供は、火を熾せず、水を見つけられず、それでも泣かずに木の根元で丸くなっていた。あの時も、朝に迎えに来るとこの蛇が巻きついていた。
――血筋だな。
思っただけで、口には出さなかった。あの日と同じである。
グラントは輪の外に腰を下ろした。
起こさなかった。
膝が少し痛んだ。だがしばらく、そのまま待つことにした。
◇
帰りの空は夕焼けだった。
副座でリオはまだ半分眠っていた。
「……グラントさん」
「なんだ」
「休暇って、何をすればよかったんですか」
「今のでいい」
「寝ただけですけど」
「寝るのが、一番難しいんだよ。お前には」
リオはその言葉の意味を少し考えた。
考えているうちに、また眠くなった。
膝の上であかりが言った。
「リオ。またいく」
「……ああ。また行こう」
黒い竜が夕焼けの空を王都へ向かって飛んでいく。
鞍の上で、帳の主は手綱を軽く握ったまま何も言わなかった。
副座で船を漕ぎ始めた若者が落ちないように、竜の首をもう一度ぽんと叩いただけだった。
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【登場人物メモ】
ノワール……アルバ竜技団の若い黒竜。ゼノの弟子(第35話)。




