第40話 眠そうな先輩(前編)
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春です。二年目が始まります。
朝、教室の窓が曇らなくなった。
指で拭かなくても、中庭が見える。霜は消え、火鉢は片付けられ、火鉢当番という係は誰にも惜しまれずに消滅した。
春である。
そして、リオたちは二年生になった。
クラス替えは、なかった。この学園は、どのクラスもテイマー科と剣術科と事務科がごちゃっと混ざっている。科ごとに固めないのが学園の方針で、だから隣のクラスもその隣も、同じようにごちゃっとしている。ごちゃっとしたまま、看板の数字だけが一つ増えた。
「おーい、リオ。二年になっても寝るのか」
「寝てない。春の空気を、確かめてる」
「目、閉じてるぞ」
「確かめてるんだ」
カイルは去年より少し背が伸びた。ネイトの携帯鍋は冬を越えて、今は花見用の鍋に用途が変わっている。トトの図鑑は春毛の特集号になった。セナは黒板に「新学期の目標」と書いて、教室中を静かにさせたところだった。
変わったことと変わらないことが、教室の中にちょうど半分ずつあった。
変わったことが、もう一つ。
リオの鞄の中で、何かが光っていた。
◇
昨夜、帳場からの帰り道のことである。
宿までの暗い路地で、鞄がぼんやりと光っていた。
「……あかり。ついてきてるだろ」
「ばれた」
鞄の口から、赤い帽子が覗いた。鈴を転がすような、小さな声である。この妖精は人の言葉が分かるだけではなく、少しなら喋る。片言だが、意思ははっきりしている。
その夜は宿の部屋の燭台の隣で寝て、朝になっても帰る気配がなかった。
「学園に、来るつもりか」
「いく。リオ、いく。あかりも、いく」
「学園は、灯りが少ないぞ。退屈だ」
「リオが、いる」
リオは少し考えた。
姿は消せる種である。鞄に入っていれば、誰にも分からない。帳場には夜に戻れば、グラントも文句を言わないだろう。
――まあ、いいか。
「夜までには、帳場に戻れよ」
「わかった」
わかった、と言って鞄に潜り込んだ。鞄を開けても、ぼんやりとした光が一つ隅に丸まっているだけである。
それが二限目の途中で、退屈に耐えかねて鞄から這い出した。
最初に気づいたのは、隣の席のカイルだった。
「……おい、リオ。お前の鞄、光ってねえか」
「気のせいだ」
「いや、光ってる。なんか、出てきた」
光の塊は机の上にちょこんと座った。赤い帽子をかぶったまま教室を見回して、それからカイルを見上げた。
「……こんにちは」
教室が静まり返った。
それから、ひっくり返った。
「喋った!」
「リオ! お前、それ、何!?」
「妖精!? 妖精だよな!? 図鑑で見た!」
トトが図鑑を開き、ネイトが身を乗り出し、カイルがリオの肩を掴んで揺さぶった。
「お前、ついに! ついに相棒、決めたのか!」
リオは口を開きかけて閉じた。
連れていない。契約はしていない。あかりの糸は、工人展の夜に解いている。一度に一体しか結べない自分が、この子と繋ぎっぱなしでは仕事にならない。
だが、それをここで言えるか。
契約していない妖精が――しかも大型三、四頭分の魔力を持つ特殊型が、勝手に学園に来ている。テイマー科の教官がそれを知れば、保護か駆除か、どちらかの話になる。あかりはどちらも嫌がるだろう。
「……まあ」
リオは机の上の光を見た。光はこちらを見上げてにっこりしていた。
「うちの子だ」
嘘ではない。帳場ではそういう扱いである。
「うわあ! おめでとう!」
「手ぶらのテイマー、卒業だな!」
教室が祝福で沸いた。
教壇の方で、セナだけが黒板消しを持ったままじっと光を見ていた。
見て、それから何も言わずに黒板の続きを書き始めた。
◇
昼休み、机に突っ伏しかけたところで袖を引かれた。
セナである。声を、教室の誰にも聞こえない大きさまで落としていた。
「……ねえ。この子、テイムしてるの?」
机の上で、あかりがパンの欠片の隣に座ってパンの湯気を食べていた。
「……してない」
「ひゅっ」
セナの喉が変な音を立てた。
「してないの。あの魔力の塊を。学園の教室で。放し飼いで」
「放し飼いというか、勝手についてきた」
「……大丈夫なのよね?」
「ああ。それは、保証する」
セナはあかりを見た。あかりもセナを見上げて、帽子の位置を直した。
「……なら、問題ないわね」
テイマーとして見て、そう結論したらしい。それ以上に、リオが保証すると言ったなら保証なのだ、という顔だった。セナはそれ以上何も聞かず、自分の席に戻った。聞かない。今日も聞かない。
横で聞いていたカイルが、頭を掻いた。
「なんだよ、契約じゃねえのか。早とちりしちまったぜ」
「まあ、うちの子ではある」
「そっか。……まあ、リオの子なら、いいか」
雑な納得だったが、この男の雑な納得ほど頼りになるものもない。
◇
翌日、入学式の後の中庭は新入生であふれていた。
真新しい制服。緊張した顔。連れてきた魔物を、自慢げに、あるいは不安げに、従えた一年生たち。
その一角で、悲鳴が上がった。
「――ぎゃっ」
「ひ、ひぃっ」
新入生が三人、尻もちをついていた。
その前に、一体の魔物が前傾姿勢で立っていた。
二本の脚。長い尾。鱗と羽毛の入り混じった、青みがかった灰色の体。前脚の先に刃のように反り返った爪。
ブレイドラプトル。刃爪の走竜である。
中型だが、速い。速くて、賢くて、そして今、明らかに威嚇していた。喉の奥で、低い細かい音を鳴らしている。
その傍らに新入生が一人立っていた。
背筋を伸ばした、負けん気の強そうな顔の少年である。制服の襟に特待生の印。
「――下がってろ、って言っただろ!」
少年は、尻もちをついた三人に向かってそう言った。守っているつもりの言い方で、脅しているようにしか聞こえない言い方だった。
「ノア・ヴェルナー。特待生。……その子を、下がらせろ」
教官の声がした。マリウス教官である。腕を組んで少し離れたところに立っていた。その横で、ガルフを連れたダリオが、面白くなさそうに見ていた。
「下がらせてます! こいつは、俺を守ってるだけで――」
「守る相手が、この中庭の全員から、お前を守ってるように見えるぞ」
マリウス教官の言い方は素っ気ない。だが、言っていることは正しかった。
ラプトルは下がらない。ノアが下がれと言うほど、むしろ前に出る。
◇
リオは、いつの間にかその輪の外側に立っていた。
見ていたのである。ラプトルを。
鱗の艶。爪の手入れ。鼻先の湿り。羽毛の生え際に、ブラシの跡が残っている。
――大事に、されてる。
威嚇している魔物を見て、まずそう思った。
「……いい世話の仕方だね」
声に出したつもりは、なかった。だが、出ていた。
ノアが振り返った。
「は?」
「その子。毛も、爪も、鼻も、全部いい。……毎日、時間をかけてる」
「当たり前だ。俺の相棒だぞ」
「うん。だから、こうなる」
リオは一歩輪の中に入った。ラプトルの音が、一段高くなった。
「ブレイドラプトルは、群れの見張り役だ。群れの外を、全部、敵だと思う。……その子にとって、群れの中は、今、君一人だ」
「……」
「君が、周りを敵だと思って身構えてると、その子は、それを見て、周りを敵だと決める。君を守ろうとして。……だから、下がれって言っても、下がらない。君がまだ、身構えてるから」
ノアの口が少し開いた。
「じゃあ、どうすれば」
「自分で先に、周りに挨拶した方がいい」
リオは言った。
「その子は、主の顔を見て、決めてる。主が、群れの中だと思った相手を、その子も、群れの中だと思う。……やってみて」
ノアはしばらくリオを睨んでいた。
睨んで、それから尻もちをついたままの三人の方を向いた。
「……あー。その。……悪かった。俺、ノア。こいつは、ゼル。……よろしく」
不器用な、挨拶だった。
だが、ラプトルの音が止まった。
止まって、前傾していた体がゆっくりと起きた。長い尾が地面に下りた。
ゼルと呼ばれたラプトルは、主の顔を一度見上げた。それから三人の新入生を一度ずつ見て――伏せた。
中庭が、ほっと息を吐いた。
「……よし」
リオは、そう言って輪の外に戻ろうとした。
「待った。……先輩、名前は?」
「リオ」
ノアはリオの顔を上から下まで見た。眠そうな目。少し伸びた前髪。制服の襟はややよれている。その襟に――自分と同じ、特待生の印が付いていた。
「……先輩も、特待生」
「ああ。同じ印だ」
「……あんたが、あの」
「あの?」
「入学前に、噂で聞いた。テイマー科に、眠そうな先輩がいる。手ぶらで、魔物を一体も連れてないのに、なんか、すげえらしいって」
リオは返事に困った。
その噂の出所を、リオは大体知っている。カイルである。
「……寝るのは、好きだけど。すごいって方は、知らない」
そこへ、マリウス教官の声が飛んできた。
「アルクス。……ちゃんと先輩をやってるな。偉いぞ」
振り向くと、教官は腕を組んだままこちらを見ていた。素っ気ない顔のまま褒めるという器用なことを、この人はたまにする。
「ヴェルナー、先輩を見習え。今のが、テイマーの仕事だ。魔物を従えることじゃない。魔物に、何を見せるかだ」
マリウス教官はそれだけ言って、去っていった。
柵の外で、ダリオが舌打ちをした。
「……寝てばっかりの奴が、先輩面かよ」
その足元で、ガルフがリオに向かって尾を振っていた。
「振るな!」
ノアは、教官の背中とリオの顔を交互に見た。
「……先輩。また、聞きに来てもいいか」
「いいけど。……昼休みは、寝てるから、午後にしてくれ」
噂は本当だったらしい、という顔をノアはした。
◇
放課後、鞄の中であかりが言った。
「リオ。きょうも、たのしかった」
「そうか」
「あした、また、いく」
「……夜までには、戻れよ」
「わかった」
教わる側だった去年が、終わった。
教える側に回る春が、こうして始まった。
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次回、後編。手袋の話です。




