幕間 灯りの見た帳場
お読みいただきありがとうございます。
幕間です。少し変わった目線で、帳場の一夜を。
あかりは灯りの中で目を覚ます。
燭台の炎のすぐ隣が、寝床である。熱くはない。火はあかりにとって水のようなものだ。浴びて、飲んで少し眠る。
この家の人間たちは、それを「灯りを食う」と言う。間違ってはいない。
人間はあかりの目には、温度で見える。
冷たい人と熱い人がいる。ほとんどの人間は、その日によって温度が変わる。だが、この家の人間たちは変わらない。誰も彼も、火の近くにいる時と同じ温度を、火から離れても持っている。
最初はそれが不思議だった。
あかりには一度忘れられない温度がある。
「あたたかいところをやる」と言った人間の、あの声。あの声は、甘くて、そして、冷たかった。今なら分かる。温度と、言葉が、合っていなかったのだ。
この家の人間たちは、言葉より先に温度が来る。
だからあかりは、この燭台の隣で眠ることにした。
◇
今夜は、人間たちが「一年の終わり」と呼ぶ夜らしい。
窓の外は雪である。帳場の戸はいつも通り開いている。厄介ごとは、年の終わりだからといって休んではくれない――と、帳面の人が言っていた。
帳面の人。
この帳場の一番奥の机に座っている、腕組みの人である。温度は低い。だが、冷たくはない。炉の底の、燠火のような温度だ。表に出ない熱を、ずっと持っている。
その帳面の人が、今夜は帳面を閉じていた。
閉じて、湯呑みを持って燭台の灯りを見ている。
「……居着いたな」
言葉はそれだけだった。
あかりは、灯りの中で羽根を一度動かした。返事のつもりである。
帳面の人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、湯呑みを置くと、燭台の蝋燭の芯を小さな鋏でぱちりと切った。炎が少し背を伸ばした。
灯りの世話のうまい人間と、下手な人間がいる。
あかりは昔から、姿を消して人間の家の灯りの隣に潜むことがあった。そこで、人間の言葉をたくさん覚えた。灯りの世話の違いも、たくさん見た。
この人はうまい。今まで見た中で、一番うまい。
◇
夜が深くなると、人間たちが一人ずつ灯りを覗きに来た。
最初に来たのは、ごはんの人だった。
大きな鍋を抱えて厨房から出てくる。鍋の中身は湯気の立つ何かで、その真ん中に蝋燭が一本立っていた。
「……食うのか」
ごはんの人は鍋を机に置いて腕を組んだ。
あかりは、灯りから出て鍋の縁にとまった。蝋燭の火に顔を寄せる。火の熱が体に入ってくる。おいしい。鍋の湯気もあたたかい。
食べた、と思う。
「……ふん」
ごはんの人はそれだけ言って、満足そうに厨房へ戻った。
温度が高い人だった。鍋そのものみたいな人だ。
次に来たのは、歌の人だった。
薬草の匂いのする、小柄な女の人である。灯りの隣に椅子を持ってきて、腰かけてあかりを見た。
「眠るのが、怖いのね」
見抜かれた。
あかりは眠るのが怖い。眠っている間に、箱の口が閉まった。目を覚ましたら、硝子と金属の中だった。あれから、眠るとまた閉じ込められる気がする。
「無理やり眠らせる歌は、歌わないわ。……眠っても大丈夫って、体に思い出させてあげるだけ」
歌の人は歌った。
言葉のない、揺り籠のような旋律だった。
あかりの羽根が、少しずつ重くなった。七節目で、目が閉じかけた。閉じかけて、怖くなって開けた。歌の人は笑って歌い続けた。
「今日は、それでいいのよ。明日、もう一節、眠れたら、それで」
温度が、じわりと深い人だった。
鍵の人は、小さな錠を灯りの隣に置いていった。
「鳴らねえ錠だ。……怖くなったら、これを鳴らせ。俺のとこの錠が、対になって鳴る」
音の合鍵、というやつらしい。
鍵の人はそれだけ言って、道具箱を提げて帰っていった。温度は金物みたいにこつこつと、硬く、あたたかかった。
布の人は小さな帽子を作ってきた。
あかりの頭にちょうど載る大きさの、赤い帽子である。
「灯りの隣は、髪が焦げるのよ。……あなたのは、髪だか光だか分からないけれど。まあ、気持ちの問題ね」
扇子を揺らして笑う、艶のある温度の人だった。帽子は少し重かった。だが、脱がなかった。
香の人は、灰色の長衣のフードを深く被ったまま灯りの前で足を止めた。
低い、静かな声の人である。男か女か、若いのか年寄りなのか、温度で見ても分からない。この帳場で、唯一温度の読めない人だった。読めないが冷たくはない。灰の中に火が残っている、そういう温度だ。
「……煙の出ない香を、置いていく」
小さな壺から、一滴。灯りの根元に落とすと、匂いが静かに立った。花でも薬でもない澄んだ匂い。
「この家の坊やは、煙が嫌いでな。……お前さんも、閉じ込められた口だろう。閉じた匂いは、もう、要らんだろうさ」
それだけ言って、香の人は来た時と同じ静けさで消えた。
眠そうな人は、何も言わなかった。
灯りの前に立って、欠伸をしながら両手を炎にかざして、暖をとるふりをした。ふり、である。この人は寒くない。かざした手の陰で、あかりが眠れるようにしただけだ。
温度は、眠っているようで、起きていた。
そして一言の人が来た。
黒い上着の、細身の人である。楽器の箱を提げて、帳場の入口に少し立って灯りを見た。
「……居着いたか」
帳面の人と、同じ言葉だった。
一言の人は、袖から小さな飴を一つ出して灯りの隣に置いた。それだけで、帰っていった。
温度は暗かった。灯りなのに、暗い。弔いの火のような、静かで、深い暗さである。そういう温度の人間を、あかりは初めて見た。
帳面の人が湯呑みの陰で小さく言った。
「……ラウルまで、来やがった」
◇
糸の人は帳場の隅で眠そうだった。
昼の間、糸の人はここにいない。「学園」という場所へ行く。帰ってくるのは夕方で、帰ってくるといつも眠そうで、それから覆面という布を顔に着けて夜の仕事に出る。時々、朝まで戻らない。
なぜそんなに眠いのに、昼も夜も起きているのか。
あかりにはまだ分からない。分からないが、この帳場の人間たちが糸の人の眠そうな顔を誰も笑わないことだけは、分かる。笑わないで、飯を多く盛り、椀を大きくし、夜食を届ける。それがこの家の糸の人への温度だった。
今夜も帳場にいる。年の終わりの夜に、家に帰らないでここにいる。
あかりには糸の人の温度が、一番よく分かる。
箱の中で、一番奥まで糸を伸ばしてきた人だ。太い、一本の線を。溺れる者に縄を投げるように。あの時の温度を、あかりはまだ覚えている。怒っていた。ものすごく、怒っていた。それなのに、糸の先はあたたかかった。
怒りとあたたかさが、同じ糸を通ってきた。
そういう人間を、あかりは他に知らない。
「――去年も、ここで、年を越しました」
糸の人が帳面の人に言った。
「毎年だ」
「毎年ですね」
それだけの会話だった。
それだけで、帳場の温度が少し上がった。
糸の人が灯りの方を見た。それから、細い糸をそっと伸ばしてきた。
――あかり。
――なに。
――年が、明ける。……人間は、それを、めでたい、って言う。
――めでたい?
――去年が終わって、また、あたらしい年が来る。それが、めでたい。
あかりは灯りの中で考えた。
あたらしい年に、この灯りがある。この家がある。それはたしかにめでたい。
――……めでたい。
――ああ。
糸の先があたたかかった。
◇
王都の鐘が鳴った。
一年の、終わりの鐘である。雪の夜に遠くから何度も。
人間たちは鐘を聞きながら、それぞれの場所でそれぞれのことをしていた。ごはんの人は鍋を見ていた。歌の人は口の中で歌っていた。鍵の人は錠を磨き、布の人は扇子を止め、眠そうな人は目を閉じ、糸の人は眠そうな目で灯りを見ていた。
帳面の人は帳面を開かなかった。
鐘が鳴り終わると、帳面の人は立ち上がって燭台を持った。
「……来い」
あかりは、灯りごと運ばれた。
帳場の奥の、小さな階段。その上の、小さな部屋。
帳面と本と紙の山と、狭い寝台と窓が一つ。窓辺に空いた燭台の座が、一つ。
帳面の人は、そこにあかりの灯りを置いた。
「灯りは、ここだ。……消えねえのが、仕事だぞ」
温度の低い声で、それだけ言った。
あかりは赤い帽子をかぶったまま、新しい寝床に座った。
窓の外は雪である。
外は寒い。
だが、ここはあたたかい。
あたたかいところは、ちゃんとあった。
燭台の炎が少し背を伸ばした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
幕間でした。次回もよろしくお願いいたします。
【あかりの呼び名と、その人】
帳面の人……一番 グラント・ヴェイル(帳の主)
眠そうな人……二番 ガルド・レイヴン(剣聖崩し)
香の人……三番 オルフェ・アシュレイ(灰の魔女)
歌の人……四番 ネム・アルレット(眠らせ屋)
ごはんの人……五番 バルカ・ロンド(毒味の料理人)
布の人……六番 シェラ・リュート(糸繰りの舞台屋)
鍵の人……七番 リッツ・カーヴァン(錠前師)
一言の人……十番 ラウル・ベルカント(葬送楽士)
糸の人……リオ(番号なし)




