第39話 解けるものなら(後編)
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第39話、これで完結です。
太い線は、硝子と金属の何層もの封じを通り抜けた。
封じは、魔力を閉じ込めるためのものである。糸は魔力ではない。心と心を繋ぐ、ただの線だ。封じの理屈の、外側にある。
線の端を、リオは一番奥の小さな熱の前に置いた。
結ばずに。
――受けるかどうかは、そっちが決めてくれ。
いつもなら、そう言う。
だが今日は、その言葉を言い切る前に線は咥えられていた。
必死に。溺れる者が投げられた縄を掴むように。
どん、と胸に来た。
重さではない。熱だった。小さくて、眩しくて、震えている、光の塊のような意識。その中に、記憶がひとつだけ焼き付いていた。あたたかい、ところ。そう言った人間の、優しい声。信じて、自分からこの箱の口に入った時の期待。
そして今。
――しにたくない。しにたくない。
「――もう、いい」
リオは、糸の向こうへ静かに言った。
「もう、暴れなくていい。……俺が、ここにいる」
糸の向こうで、小さな熱がこちらを見た。
――だれ。
――リオ。お前を、外に出す奴だ。
――……うそ、じゃない?
――嘘じゃない。
糸の向こうで、小さな熱がこちらの言葉を噛むように確かめていた。信じた言葉に、一度裏切られている。もう一度信じるのに時間がかかるのは、当たり前だった。
リオは待った。
砂は落ちている。だが、急かさなかった。急かせば、この子はまた壁に体を打ち付ける。
息一つ分遅れて、悲鳴が止んだ。
壁に体を打ち付ける鼓動が、少しずつ遅くなる。硝子の管の曇りが、引いていく。装置の外殻から、熱が抜けていった。
幕の内側が静かになった。
「……静か」
テッサが呟いた。
工具を握ったまま装置を見て、それからリオを見た。リオの手から装置の奥へと伸びている、太い一本の線を。
見て、それから何も言わずに、ゴーグルを押し上げて、また下ろした。
「読める」
声が変わっていた。
「――全部、読める」
六層目。かちり。
七層目。テッサの指が今日一番の速さで、刻印の上を走った。裏返された癖の、その裏。右から始めて、几帳面に、自分の癖を嫌いながら組んだ最後の封じ。
「あなたの考え方は、分かった。……だから、ここ」
工具が沈んだ。
かちり。
硝子の管の中で、落ち続けていた光る砂が――止まった。
指一本分を残して。
◇
外殻をテッサがそっと開いた。
一番奥の小さな空洞に、それはいた。
掌に載るほどの、光の塊。よく見れば、細い手足と、薄い羽根と、小さな顔がある。顔は涙で濡れていた。
「……妖精」
リッツが低く言った。
「特殊型か。魔力の塊みてえな種だ。あの体で、大型の三、四頭分は持ってる。並のテイマーじゃ、糸を近づけただけで弾かれる代物だぜ。……こんなもん、動力に使いやがったのか」
リオは手を差し出した。
光の塊はしばらく震えていて、それから転がるように掌の上に落ちてきた。熱い。だが、火の熱ではない。抱いた仔猫の、腹の熱に近い。
テッサはリオの手元を見ていた。
長く。
それから何も言わずに、工具を一つずつ袋に戻し始めた。
◇
リオが幕の外に出た時、搬出口の通路の向こうで、セナが荷車の陰からこちらを見ていた。
リオの両手の中で、何かが光っている。
遠目である。素人なら、灯りか何かだと思っただろう。
だが、セナはテイマー科の生徒である。テイマーの目には、分かるものがある。あの小さな光が、ただの灯りではないこと。あの掌ほどの光の中に、大型の魔物何頭分もの魔力が渦を巻いていること。そして――それが、リオの両手の中で猫のように大人しくしていること。
「……何よ、あれ」
セナの唇がそう動いたのが、見えた。
それから彼女は首を横に振って、荷車を通路から引き戻した。
聞かない。今日も聞かない。
リオは、その背中に心の中でだけ頭を下げた。
◇
三階の回廊で、痩せた男が手すりから身を離した。
用は済んだのである。娘は解いた。腕は本物だった。それで十分だ。
立ち去りかけた男の背中に――
光が当たった。
リオの掌の上で、光の塊が震えを止めて回廊を見上げていた。
――あいつ。
糸を通して声が来た。さっきまでの泣き声とは、違う声だった。
――あいつ。あたたかいところって、いった。あいつ。
リオは糸を緩めなかった。
止めることも、できたはずだった。契約の線はリオの手の中にある。引けば、光は収まる。
引かなかった。
止める気はなかった。
あたたかいところ。
この子はその言葉で箱に入れられた。信じて自分から。……その言葉の意味を、リオは知っている。思い出そうとすると悲しいより先に来る、あの温度のことだ。誰かがそれを餌に使った。餌に使って、使い捨てにしようとした。
許す理由が、一つも見つからなかった。
光の塊が掌から飛んだ。
一直線に回廊へ。小さな体が一瞬、灯台のように膨れ上がり――閃光が走った。
石の手すりが、砕けた。
男の外套の肩が、焦げて裂けた。手すりを掴もうとした手の甲に、光が走った跡が赤く残った。
男は倒れなかった。
だが、初めて、印象に残らない顔が歪んだ。
光の塊はリオの掌に戻ってきた。震えていた。だが、もう泣いてはいなかった。
男は焦げた肩を押さえて、回廊の上から七番台を見下ろした。
テッサを。そしてリオを。
それから懐から小さな筒を取り出し、指でへし折った。
白い煙が回廊に噴いた。
煙が薄れた時、手すりの前に男はいなかった。
ガルドが幕を跳ね上げて回廊への階段を駆け上がったが、物置はもう空だった。壁の奥に古い通用口が開いていた。
消え方が慣れていた。
◇
大市場の裏の、荷馬車の中である。
痩せた男は焦げた外套を脱ぎ、手の甲の赤い跡をじっと見ていた。
娘の腕は本物だった。それはいい。想定の内である。
想定の外は一つだけだった。
――あの、テイマーの小僧。
運送屋の腕章を付けた、ただの手伝いに見えた。あれが、封じの外から動力を黙らせた。並のテイマーなら、糸を近づけただけで弾かれる種を素手で。
――あの小僧さえ、いなければ。
男は、手の甲の跡を袖で覆った。
――……覚えたぞ。
◇
工人展の、閉幕の日。
学生枠の三台のうち、七番台の筒に審査の特別賞の札が下がった。
王都の名工の名簿に、一年生の名前が載ったのである。修理屋の父は今度こそ隠れる場所を探して、見つからず、人だかりの真ん中で顔を覆って泣いた。
その人だかりの外れに、エルムがいた。
テッサは人だかりを抜けて、自分からその前に立った。
「――お返事を、しに来ました」
「伺いましょう」
エルムの微笑は、いつも通りだった。いつも通りに見えた。
「その前に、一つ。……あの装置。あなたの側の人が、やったんですよね」
テッサはまっすぐに聞いた。
白庭の話は窓口で聞いている。あの装置の線の癖は、祭りの道具と同じ手だった。祭りの道具の持ち主が誰の側かも、もう知っている。繋げるのに、時間は要らなかった。
「私の指示では、ありません」
「でも、あなたの側の人です」
短い沈黙があった。
「……ええ」
「じゃあ、答えは、決まってます」
テッサはゴーグルの縁を指で押さえた。
「生き物を、使い捨ての動力にする。そういう人たちの技術なんて、見たくもありません。……私の腕は、売り物じゃない。貸すだけです。貸す相手は、私が決めます。あなたたちには、貸しません」
エルムはしばらく黙っていた。
それから、外套の襟を直した。
「残念です。……本当に、残念だ」
声に嘘はなかった。それがこの人の怖いところである。
「オズワルド――あの職人のやり方は、私の商売を、一つ、潰しました。……値札の裏に、直した場所が書いてある。そんなお店を、大事になさい」
それだけ言って、エルムは人だかりに紛れて消えた。
テッサはその背中を見送って、それから大きく息を吐いた。
ゴーグルを額に上げる。職人の顔が終わった。
いつものテッサが、戻ってきた。
◇
その夜、帳場はいつもより明るかった。
リオは今夜は覆面を着けていなかった。
あかりの糸を握っているのは、リオである。会場で素顔のまま糸を伸ばした以上、この件に限っては覆面で別人を装っても仕方がない。今夜のリオは、窓口の付き添いでも覆面でもなく、「あかりのテイマー」として帳場の隅に座っていた。
テッサは、工人展の顛末をグラントに報告しに来ていた。装置のこと、封じの層のこと、回廊の男のこと。報告はもう済んでいる。
明るさの理由は、机の上にあった。
光の塊が、燭台の隣にちょこんと座っている。燭台の灯りが好きらしく、時々灯りに手を伸ばしては熱くて引っ込める、を繰り返していた。
「――で。帰す先は」
グラントが湯呑みを持ったまま、聞いた。
リオは糸で聞いた。
――おうちは、どこだ。
――……ない。あいつが、こわした。
帳場が静かになった。
グラントはそれ以上聞かなかった。
代わりにリオを見て別のことを聞いた。
「回廊の一発。……止めなかったんだな」
「はい」
「そうか」
湯呑みを置く。
「落ちてりゃ、死んでたぞ。あの高さだ。……殺していたら、どうした」
答えは、なかった。
止めなかったあの時、そこまで考えていなかった。考えていなかったことが、そのまま答えだった。
「一発で済ませたのは、上出来だ。二発目は、止めろ。……あれは、あの子の傷だ。お前の傷じゃねえ」
「……はい」
グラントは帳面を開いて、几帳面な字で書いた。
『特殊型 一体(預かり)』
名前の欄は空けたままだった。
「……名前、つけないんですか」
「うちが決める話じゃねえ。……そのうち、誰かが呼ぶ」
そのうち、はすぐだった。
奥の間から出てきたネムが、燭台の隣の光を見て、あら、と目を細めた。
「灯りが、増えたのねえ。……あかり。あなた、あかりって呼ぶわ」
光の塊がぴくと羽根を動かした。
嫌ではないらしい。
厨房から顔を出したバルカが、ぼそりと言った。
「……飯は、食うのか、それ」
「灯りを食うらしいです」
「灯りか。……鍋に、蝋燭を立てとく」
何かが決定的に間違っていたが、誰も訂正しなかった。
その帳場の隅で、報告を終えたテッサが工具箱を抱えたまま上機嫌だった。
理由は誰も知らない。
鼻歌まで出ている。時々リオの方を見ては、ゴーグルの奥で目を細めて、また鼻歌に戻る。
リオは居心地が悪かった。
幕の内側で、糸を伸ばした。素顔で。テッサの目の前で。窓口で覆面の下から何度も伸ばしてきた、あの糸と同じものを。
見られた、と思う。見られたはずだ。あの人の目は、糸の型を見分ける。なのに、あれからテッサは何も言わない。何も聞かない。ただ、上機嫌なのである。
「……なあ」
グラントが湯呑みの陰から、小声で言った。
「なんで嬢ちゃん、あんな機嫌いいんだ」
「……知りません」
知らない。知らないが多分ろくなことではない。
帳面の上で『預かり』の二文字が、燭台の光に揺れていた。
預かりものと書かれた小さな灯りと、名前のない行と――この帳場には、そういうものが少しずつ増えていく。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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