第39話 解けるものなら(中編)
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第39話の中編です。
人払いは静かに済んだ。
テッサが主催の係に告げたのは、「出品物の調整に不具合が出たので、点検の間、台の周りを空けてほしい」というだけである。学生枠の一年生の、初めての大舞台。多少の不具合は、誰も不思議に思わない。七番台の周りに幕が張られ、「調整中」の札が下がり、人だかりは少し残念そうに隣の懐中時計の台へ流れていった。
祭りは続いている。
幕の内側だけが、別の時間になった。
幕の外では、セナが搬出口への通路を空の荷車で塞いでいた。「点検の間、この通路は使えません」と、指定運送の顔で。台の周りの人を、もう一段遠ざけるためである。
リオは理由を言わなかった。
セナも聞かなかった。
ただ、荷車を置きながら一度だけこちらを見て小さく頷いた。あの二人なら大丈夫、と焚き火の前で言ったあの顔だった。
「――点検業者だ。呼ばれて来た」
幕をくぐって入ってきたのは、工具箱を提げた男と、欠伸を噛みながら歩く目立たない中年の男だった。
リッツとガルドである。二人とも、どこかの工房の印を付けた作業着を着ていた。窓口には、こういう時のための衣装が一通り揃っている。
「嬢ちゃん、状況は」
「封じが七層。全部、初めて見る組み方。刻限は、日暮れ」
「七層か。……よし、俺は周りをやる」
リッツは道具袋を開けた。古いオルゴールの蓋が開き、小さな影が澄んだ声で短い旋律を紡ぎ始める。歌う影のリラである。リッツの指が、歌に合わせて幕の内側の空気に錠を編むように動いた。
「音の壁だ。中の作業音は外に漏れねえ。……万一、弾けた時も、この壁の分だけは、外の連中を守れる」
万一、という言葉を誰も口に出して繰り返さなかった。
ガルドは何も言わなかった。
幕の内側の一番外側に立ち、腕を組んで幕越しに外の気配を見ている。この眠そうな男がそこにいるというだけで、幕の内側の空気が一段落ち着いた。
リオは運送の腕章のまま、テッサの後ろに立った。
点検業者の手伝いをしている運送屋。誰が見てもそう見える。
そして、テッサが装置の前に座った。
◇
一層目は早かった。
テッサの指が、外殻の継ぎ目のない曲面をなぞり、ある一点で止まり、細い工具を差し込む。かちりと小さな音がして、外殻に髪の毛ほどの隙間が開いた。
「……開いた。開いたけど」
テッサはゴーグルの奥で、目を細めた。
「この人の癖、全部、裏返ってる」
「裏返ってる?」
「私が原図で読んだ癖ね。力の逃がし方とか、封の重ね方とか。……この装置、それを、全部、逆に組んである。私が読んだって、分かってるの。分かってて、裏をかいてきてる」
つまり、あの原図で得た知識は一つも使えない。
テッサは、しかし笑った。
小さく、面白そうに。
「でもね。裏返すのにも、癖が出るの」
二層目。
テッサは封じの刻印を読まなかった。代わりに刻印を刻んだ道具の、刃の入りを読んでいた。
「この人、裏返す時、必ず右から始める。右利きで、几帳面で、自分の癖が嫌いな人。……ああ、分かる。分かるよ、あなたの考え方」
三層目。
テッサの手は、もうほとんど止まらなかった。
刻印を見て、次の刻印を予想して、予想通りの場所に工具を入れる。読んでいるのは、封じではない。封じを組んだ人間の、頭の中である。
リオはその横顔を見ていた。
祭りの夜に封じを破った腕。原図を一晩で読み切った目。あの時よりも、今のテッサはずっと遠くを見ていた。
額に汗が浮いている。冬の会場で、である。ゴーグルの縁を伝って落ちそうになるのを、リオは手拭いでそっと押さえた。テッサは礼も言わなかった。言う余裕がないのである。それでいい、と思った。
「……リッツさん。三層目、外れました。次、行きます」
「おう。ペースは悪くねえ。砂を見るな、封じだけ見ろ」
「見てません。見たら、手が、遅くなる」
光る砂はまだ半分より上にあった。
◇
展示場の三階には、客の入らない回廊がある。
昔、貴賓席として使われた名残で、今は物置と手すりだけが残っている。
その手すりに、痩せた男がもたれていた。
印象に残らない服。印象に残らない顔。ただ、手すりに置いた指だけが時折、石をこつと弾いている。
音を聞いているのである。
「――聞いていませんね」
背後から、穏やかな声がした。
エルムだった。感じのいい微笑は、今日はない。
「こんな余興を用意しているとは、私は、聞いていない」
「余興ではない。腕試しだ」
男は振り返らなかった。
「私の名を汚した娘の腕を、私の手で測る。それだけの話だ。本店には、私の裁量で動くと、伝えてある」
「あの娘には、私が話を通している最中です。工人展の後で返事を貰う約束だ。……こんなものを見せられて、誰が首を縦に振ります」
「振らなければ、それまでだ。腕を測るのに、返事は要らん」
エルムはしばらく黙っていた。
それから、手すりの下を見た。幕の張られた七番台。その中で、娘が一人装置と向き合っている。
「中身は」
「動力だ。上等の。魔石では、あの層は回らん」
「……上等の、動力」
エルムの声から、温度が消えた。
「生き物ですね」
「小さいのを、一つ。甘い言葉で、よく入った」
男は初めて薄く笑った。
「解ければ、娘の腕は本物だ。解けなければ、装置ごと、台ごと、吹き飛ぶ。中の動力も、一緒にな。……どちらに転んでも、娘の腕の程は分かる。私には、それで十分だ」
エルムは答えなかった。
答えない代わりに、外套の襟を直した。
「……あなたのやり方は、恩を、負債に変える」
「商人の理屈だ。私は、職人だ」
それ以上、二人は話さなかった。
エルムは回廊を去り、男は手すりの石をもう一度こつと弾いた。
◇
四層目で、テッサの手が止まった。
「……動いた」
「何が」
「封じが。今、位相が、ずれた。読んだ通りに開けようとしたら、開ける寸前で、違う形になった」
五層目も同じだった。
読める。次の封じがどこでどう組まれているか、テッサには分かる。分かって工具を入れる。その瞬間に、封じが身じろぎするようにずれる。
「中の何かが、暴れてるんだ」
リオは糸を細く伸ばした。
熱がさっきより強くなっていた。鼓動が速い。硝子と金属の何層もの奥で、小さな何かが壁に体を打ち付けている。打ち付けるたびに封じの魔力が揺れて、テッサの読みが外れる。
「読めるのに」
テッサの声が、初めて掠れた。
「読めるのに、届かない。……この人、これを、狙ってたんだ。私が読めば読むほど、中が怯えて、暴れて、ずれる」
光る砂が半分を切った。
「俺の音の壁じゃ、中は静まらねえぞ」
リッツが低く言った。
「人を、もっと下げるか」
ガルドが初めて口を開いた。
「下げられる。だが、台の周りは、それまでだ」
リオは糸の先に意識を集めた。
怯え。熱。そして――言葉ではない、言葉の手前のものが、糸を伝ってこぼれてきた。
――あたたかい、ところ。
――くれると、いった。
――うそ。うそ。うそ。
胸の奥が冷えた。
この中にいるのは、ただの動力ではない。誰かに何かを約束されてこの箱に入った、何かだ。
砂が三分の一を切った。
装置が目に見えて熱を持ち始めていた。硝子の管が内側から曇る。金属の外殻に触れたテッサの指先が、赤くなっている。
「熱い……。中の魔力が、上がってる。封じが、耐えられなくなってきてる」
「どういう意味だ」
「刻限より、早く来るかもしれない。中の子が暴れれば暴れるほど、早く」
リッツが舌打ちをした。
「壁を厚くする。嬢ちゃん、下がれる時は下がれよ」
「下がらない」
テッサの声は、震えていた。震えたまま、工具を握り直した。
「読めるのに。……読めるのに、間に合わない」
六層目にテッサが工具を入れ――封じが、跳ねた。
硝子の管の中で光る砂が一瞬、逆流するほどに。
中から、悲鳴が来た。
音ではない。糸を通して、リオの胸の真ん中に直接。
――しにたく、ない。
――しにたくない。しにたくない。
――おうちに、かえりたい。
泣いている。
この硝子と金属の何層もの奥で、小さな何かが壁に体を打ち付けながら泣いている。あたたかいところをやると言われて、その言葉を信じて自分から入って、そして今、自分が何のためにここに入れられたのかを理解し始めている。
リオは糸を握ったまま、動けなかった。
動けないまま、回廊の男の言葉が、聞いてもいないのに頭の中で組み上がっていく。
動力。上等の。甘い言葉で、よく入った。装置ごと、台ごと吹き飛ぶ。動力も一緒に。
――使い捨てだ。
魔石の代わりに、生きたものを詰めた。約束で釣って、封じて、時が来たら装置ごと消す。それで腕試しになると、あの男は思っている。
「……ふざけるな」
低い声が出た。
自分の声だと、一瞬分からなかった。
テッサが工具を持ったまま、こちらを見た。リッツの指が、止まった。ガルドが振り返った。
糸が荒れていた。
細く触れるだけのはずの糸が、リオの手の中で太く、熱く、勝手に撚れていく。獣を読む糸ではない。獣を守る糸だ。
砂が四分の一を切った。
「――無理」
テッサが工具を握ったまま、初めて後ろを見た。
「無理、間に合わない――」
リオは考えていなかった。
周りに誰がいるかも。自分が今、どの顔でここに立っているかも。窓口の隅で、覆面の下で何年も守ってきたものが何だったのかも。
考えるより先に、糸を伸ばしていた。
触れるだけの、細い糸ではない。
太い、一本の線を。
――死なせない。
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次回、後編です。
【登場人物メモ】
ガルド……十三番窓口の二番「剣聖崩し」。腕っ節担当の眠そうな男(第29話の保管庫防衛戦)。




