第38話 白い後援 〜白い花の商会〜(前編)
朝、教室の窓が白く曇るようになった。
指で拭くと、硝子の向こうの中庭にうっすらと霜が降りている。生徒たちの吐く息も白く、廊下を歩く速さがみんな少しずつ早足になった。教室の隅には火鉢が入り、火鉢当番などという係が生まれ、カイルが真っ先に立候補して真っ先に飽きた。
冬である。
王都の一年で、一番灯りの恋しい季節だ。
窓の外の空を眺めながら、リオはふと思った。
――入学から、もうすぐ一年になるのか。
ぎりぎりの登校から始まって、昼は居眠りと授業、夜は帳場と依頼。二本立ての一年は、振り返ればあっという間だった。
「おーい、リオ。寝るなら火鉢の近くで寝ろよ。風邪ひくぞ」
「寝てない。考えごとだ」
「お前の考えごとは、九割、寝てるんだよなあ」
カイルの言う通りなので、反論はしないでおいた。
隣の席では、ネイトが弁当箱ほどの大きさの携帯鍋を机に出して自慢げに磨いていた。
「冬は、俺の季節だ。昼休みに中庭で鍋をやる。具の希望は、前日までに受け付ける」
「学園で鍋って、いいんですか、それ」
「トト、いいか。規則には『火気に注意』とある。注意すれば、いいんだ」
「屁理屈の見本みたいな解釈ですね……。あ、でも僕、冬毛の特集号を持っていくので、待ち時間に読みましょう。北方の魔物は冬毛になると別の生き物みたいで、ですね――」
鍋と図鑑で冬を乗り切る気の二人である。
教壇の方では、セナが黒板に大きく「学年末試験まであと二十日」と書いて、教室中を静かにさせたところだった。
「というわけで、恒例の勉強会を開くわ。参加希望者は、今日中に私のところへ。……カイル、あなたは希望を聞いていないから。参加よ」
「横暴だ!」
「一学期の成績表を、読み上げてもいいのだけれど」
「参加します」
教室に笑いが起きた。
席に戻るセナの鞄の口から、見慣れないものが覗いていた。
毛糸玉である。深い、冬の空みたいな色の。
「編み物、するんだ」
何気なく聞くと、セナは鞄の口をぱっと閉めた。
「……しないわ」
「今、見えた」
「見間違いよ。ほら、勉強会の日程を決めるから、あなたも希望を出しなさい」
あからさまな話題の変え方だったが、追及はしないでおいた。冬は、誰でも手元に何かを抱えたくなる季節である。
試験。冬休み。そして年度末。
一年の終わりが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
◇
その昼休み、廊下の向こうから噂より早く本人が走ってきた。
「リオくん! 聞いて聞いて聞いて!」
テッサである。ゴーグルを頭に載せたまま、廊下を全力で滑り込んできた。
「決まった! 私、決まったの! 工人展の、学生枠の代表!」
「工人展の――え、すごいじゃないか」
工人展は、年度の締めくくりに王都で開かれる、職人の祭典である。鍛冶、細工、魔道具、織物。王都中の工房が一年の仕事を持ち寄る大市で、学生枠は王都のすべての技能校を合わせて毎年たった三人。歴代の選出者の名を並べれば、そのまま今の王都の名工の名簿になると言われる登竜門だ。職人街では「学生枠に名前の載った年」を、職人の生まれ年のように数える。
「出すのは、つたえ筒の改良型! 学園祭のより、ずっと遠くまで声が届くやつ! 筒を対にしてね、間に中継の芯を挟むの。そうすると距離が三倍で、しかも隣の筒と混線しない。ここが工夫なんだけど、芯の巻き方をね――」
早口の解説が始まって三分続いた。半分も分からなかったが、すごいということだけは口ぶりで分かった。
「――で、審査の先生が、面白いって言ってくれて。学生枠、三人しかいないんだよ、王都全部で。しかも一年生が入ったの、十何年ぶりだって」
「三人。……本当に、すごいな」
「えへへ」
テッサはゴーグルの位置を直して、それから声の調子を変えた。
「お父さんに言ったらね、泣いたの。店の奥で、隠れて。……隠れてるつもりで、丸聞こえだった。恥ずかしいったら」
口では恥ずかしいと言いながら、その顔は見ているこっちが照れるくらい嬉しそうだった。
「あっ、カイルくんたちにも言わなきゃ。ね、みんな、見に来てね! 絶対だからね!」
言うだけ言って、テッサは来た時と同じ速さで廊下を滑って戻っていった。
嵐のようだった。
「……すげえな、あいつ」
追いついてきたカイルが、素直に感心した声を出した。
「下町の修理屋の娘が、名工の名簿に載るかもしれねえんだろ。大したもんだぜ」
まったくである。
ただリオは、廊下の角に消えた背中を見送りながら別のことを考えていた。
あの腕は、もうこちら側の世界でも知られ始めている。祭りの夜の封じを、ひと月で破った腕。原図を一晩で読み切った目。
良いことの、はずだった。
腕が上がって名が売れる。職人としてまっすぐな道だ。
なのに、胸の隅で何かが小さく引っかかった。
◇
「――ところで」
放課後、帰り支度をしているとセナが机の前に立った。
「あなた、力仕事は、できるの」
「急だな。……多分、人並みには」
「そう。なら、ちょうどいいわ」
セナは鞄から一枚の紙を出した。ラティス運送、と屋号の入った求人の張り紙である。
「うちが、工人展の指定運送に入ったの。会期中の搬入と搬出、全部。指定運送って、分かる? 出品物を運べるのは、うちの馬車だけってこと。名誉なのだけど……その分、荷札の山が、もう、家の壁一面なの。お父さん、三日前から寝る時も帳面を抱えてるわ」
「それは、忙しそうだ」
「それで、人手が、全然足りなくて。お父さんが、信用できる若いのがいたら連れてこい、って」
「なるほど」
「時給は、出るわ」
「やる」
「食いつきが早いわね」
セナは少し呆れた顔をして、それから張り紙をリオの机に置いた。
「搬入は朝が早いわよ。居眠りの人に、務まるかしら」
「金がかかってれば、起きられる」
「……その理屈、威張って言うことじゃないと思うのだけど」
口ではそう言いながら、セナの目はどこか楽しそうだった。
「じゃあ、決まりね。試験勉強と、両立すること。それが条件」
「勉強会と、搬入バイトと、本業……」
「本業?」
「……授業の話」
危ない。冬は口も滑りやすい。
◇
夜の帳場で搬入バイトの件を伝えると、グラントは湯呑みを持ったまま、ほう、という顔をした。
「工人展の指定運送。ラティスの。……そいつは、ちょうどいい」
「ちょうどいい?」
「工人展ってのはな、王都中の腕と、金と、目利きが集まる場所だ。まっとうな商談の隣で、まっとうじゃねえ品定めもされる。……ここんとこ、会場の下見にしちゃ熱心すぎる連中の噂も、聞こえてきてる」
グラントは、指で机をこつと叩いた。
「うちも会期中は、目を増やしたかったところだ。お前が搬入で表から入れるなら、願ってもねえ。荷を運びながら、耳と目だけ、開けとけ」
「見るのは、何をですか」
「荷を見ねえで、人を見てる奴だ」
グラントは湯呑みを置いた。
「工人展の会場でな、品じゃなくて、職人の顔と、搬入の経路と、警備の巡り方ばっかり眺めてる客がいたら、そいつは買い物に来てるんじゃねえ。……何をしに来てるのかは、まだ分からん。分からんから、目が要る」
「分かりました。……給金は」
「運送屋から貰え。うちからは、まかないの格上げだ」
「格上げって、何が出るんですか」
「冬だからな。……鍋だ」
「鍋」
「バルカの冬鍋を舐めるなよ。あれを目当てに、昔、依頼人が三回も相談事をでっち上げた」
悪くない条件だった。
表では荷を運ぶ。裏では目を開けておく。
考えてみれば、覆面も変声もなしで堂々と現場に居られる仕事というのは初めてかもしれなかった。
◇
その夕方、王都の下町では初雪がちらついていた。
通りの角の小さな修理屋は、店じまいの支度の最中だった。軒先の看板には、工具の意匠。店先の棚には、修理を終えた鍋や錠や燭台が引き取りを待って並んでいる。どの品にも値札の裏に小さな字で「直した場所」が書き添えてあるのが、この店の流儀だった。
店の奥からは、火の匂いと、金物を磨く音と、上機嫌な鼻歌が聞こえる。娘の吉報から、この店の鼻歌はずっと止まっていないのである。
テッサの、実家である。
雪のちらつく通りを、一人の客が歩いてきた。
仕立てのいい外套に、上等な菓子折り。悪い噂というものが一つもなさそうな、感じのいい微笑。
客は看板を見上げて目を細めた。
それから、雪を軽く払って暖簾をくぐった。
「ごめんください。――シラード商会の、エルムと申します」
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次回、後編です。




