第37話 千人の糸 〜座長の舞台と、観劇の夜〜(後編)
お読みいただきありがとうございます。
第37話の後編です。
別れの場面が、来た。
春の朝である。舞台の上の母は、もう床から起きられない。
息子は覚えたての手つきで、湯を沸かし、糸を紡ぎ、母の枕元に白湯の椀を置く。教わったことを、ひとつずつやってみせる。見ていてくれ、というように。
母が笑う。
それから、歌った。
伴奏はない。痩せた母の、細い声だけである。
言葉のない、揺り籠のような旋律だった。
リオは、背筋に覚えのある震えが走るのを感じた。子守唄である。眠らせるためではなく、眠っても大丈夫だと体に思い出させるための歌。あの人はそれを知っていて、この場面にこの歌を置いたのだ。
千人箱の中で鼻をすする音が、鳴り始めた。
一つ、二つ――そして波になった。
笑いと同じだった。泣き声まで揃うのである。前の方の席から後ろへ、すすり泣きが波のように広がって天井桟敷で折り返してくる。隣の強面の男は、太い腕で目元を押さえて肩を震わせていた。誰も声を上げては泣かない。上げさせないのだ。声を上げる一歩手前のいちばん深いところに、千人まとめて留め置かれている。
舞台の灯りが、一つ消えた。
また、一つ。
歌が細くなるのに合わせて、広い舞台から順に灯が落ちていく。最後に残ったのは、枕元の小さな灯り、ただ一つ。
歌が終わった。
母の手が、息子の頭を一度だけ撫でて落ちた。
小さな灯りだけが、しばらくそこにあった。
暗転。
次に舞台へ灯りが戻った時、息子は少し大きくなっていた。
喪は明けている。
息子は母に教わったすべてを小さな鞄に詰め、あの枕元の灯りを旅提灯に移して戸口に立つ。行き先は、遠い山へ働きに出たきり便りの絶えていた父のところである。母が最後まで消さなかった灯り――帰り道が分かるように、と窓辺に点し続けたあのともしびを提げて。
待つのはもうやめたのだ。
今度はこちらから迎えに行く。
息子が朝の光の中へ一歩踏み出したところで――幕が、下りた。
一瞬の静寂のあと、千人箱が割れた。
拍手と、すすり泣きと、泣き笑いが一度に鳴った。悲しい話を観たはずの千人が、揃ってどこか晴れた顔をしていた。
リオの隣で、セナは演目札を胸に抱いたままぼろぼろに泣いて、ぼろぼろのまま誰より強く手を叩いていた。
◇
終演後の通りは、泣き腫らした顔であふれていた。
噂は本当だった。観た人がみんな様子がおかしくなる。おかしくならない方が、おかしいのである。
二人は劇場前の広場の隅の、灯りの入った軽食屋台で温かい蜜柑水を買った。セナの目はまだ赤かった。
「……すごかったわ」
「うん」
「理屈が、ひとつも、思いつかないの。悔しいくらい」
セナは湯気の立つ杯を両手で包んだ。
「お母さんが、教えていくでしょう。ひとつずつ。ああやって、渡していくのね。生きていくためのものって。……渡し終わるまで、生きようとするのね」
それから、演目札をそっと撫でた。
「最後、迎えに行くでしょう。あれで、ただ悲しいだけの話じゃ、なくなるの。……ずるいわ、あの作り」
それから、ふと口をついたように続けた。
「リオの、ご両親って――」
言いかけて、セナは止まった。
杯を持ったまま、みるみる慌てた顔になった。
「ご、ごめんなさい。今の、忘れて。踏み込むつもりじゃ――」
「いや」
リオは蜜柑水を一口飲んで、言った。
「亡くなってる。二人とも。俺が、小さい頃に」
広場の灯りが、杯の湯気をゆっくり照らしていた。
「覚えてることは、正直、あんまりないんだ。顔も、声も、はっきりとは。……ただ」
言葉を探した。探して、一番近いものをそのまま出した。
「あったかかったことだけは、覚えてる。思い出そうとすると、悲しいのより先に、あったかいのが来る。変かもしれないけど」
「……変じゃないわ」
「あと、これも変な話なんだけど」
リオは少し笑った。
「魔物とか、動物に囲まれてると、胸のあたりが、あったかくなるんだ。それで、たまに、両親の声が聞こえてくる気がする。何て言ってるかまでは、分からないんだけど。なんでかも、分からないんだけど。……昔から、そうなんだ」
セナは何も言わなかった。
正しいことを言うタイミングをいつも間違える彼女が、今日は何ひとつ言わずにただ聞いていた。
「それにさ。今は、バイト先に、変な人がいっぱいいて」
「変な人」
「飯を山盛りにする人とか、薬草くさい歌のうまい人とか、鍵の話しかしない人とか、話の長い上司とか」
「ふふ」
「あの人たち、家族みたいなんだ。血は繋がってないけど。……だから俺、結構、幸せなんだと思う。両親の分まで、あったかいのが、ある」
セナは杯の縁の向こうから、リオを見た。
赤い目のまま、少し笑った。
「……話してくれて、ありがとう」
それだけ言った。
それだけで、よかった。
◇
――同じ頃。
広場を挟んだ向かいの甘味屋の奥の席で、三人組が小さな錠を囲んでいた。
聞き耳の錠は、性能試験の名に恥じない働きをしていた。屋台の雑踏の中から、狙った二人分の声だけを綺麗に拾い続けている。
そして、三人は全滅していた。
ネムは手ぬぐいを顔に当てたまま、さっきから声を殺して泣いている。
「……あの子……あったかかった、って……あの子が……」
リッツは、天井を向いて目をしばたたかせていた。錠の性能を誇る顔では、もうなかった。
「……おい、グラントさんよ。俺たち、聞いちゃいけねえもんを、聞いてねえか」
グラントは答えなかった。
湯呑みを持ったまま、ずっと黙っていた。
薬草くさい歌のうまい人が泣きながら笑い、鍵の話しかしない人が洟をすすった。話の長い上司は湯呑みを置くと、手を伸ばして――
ぱたり、と。
聞き耳の蓋を閉じた。
「……ここから先は、俺たちが聞いていい話じゃねえ」
誰も反対しなかった。
◇
翌日の夜の帳場は、いつも通りだった。いつも通りに見えた。
リオは帳場の隅で報告書を書き終えると、筆を置いて何気ない声で言った。
「そういえば。――聞き耳の試用、うまくいきましたか」
帳場の空気が、固まった。
グラントの筆が止まり、棚の整理をしていたネムの手が止まり、工具箱を抱えて通りかかったリッツが抱えたまま静止した。
「な……」
グラントが、実にゆっくりと顔を上げた。
「何のことだ」
「昨日の劇場です。斜め後ろの区画に、外套の襟を立てた三人組がいたので」
「……他人の空似だろう」
「梁の鳩が教えてくれました。開演前から、ずっとこっちを見てる三人がいるって」
鳩である。証人が鳩なのである。言い逃れの利く相手ではない。
「あー……いや、あれはだな、リオ。あくまで、道具の性能試験というやつで――」
「あら。続けて?」
戸口から、声がした。
扇子を手にした長身の女が、ゆったりと帳場に入ってきた。
リュート座の座長、シェラ・リュートである。呼んだのはリオだ。告げ口、ともいう。
「グラントちゃんが、わたしの客席で、何の試験をしたって?」
「シェ……シェラ……。これは、その」
「わたしの劇場よ。わたしの客席で、わたしが気づかないとでも思った? 三階の袖から、丸見えだったわよ。外套の襟なんか立てちゃって、可愛いこと」
扇子がぱちんと閉じた。
帳場の温度が、二度ほど下がった気がした。
「若い二人の、初めての観劇を。よりにもよって、盗み聞きの道具の試験場にしてくれたわねえ。……ねえ、主任さん?」
「……試験は、成功した」
「あらそう。よかったわねえ」
シェラはにっこり笑った。舞台で千人を泣かせた喉が、たった三人を震え上がらせるのに本気の半分も要らないらしかった。
「罰として、三人とも、来月の公演、裏方のお手伝いね。大道具運びと、札もぎと、客席の掃除。ネムちゃんとリッツちゃんは、素直に白状したら軽くしてあげる」
「聞きました」「聞いちまいました」
即答だった。見事な、手のひら返しである。
「グラントちゃんは、主犯だから、千人分の座布団叩きも追加」
「……横暴だ」
「あら。人の客席で商売道具を試した人が、何か言った?」
ぐうの音も出ていなかった。
リオは帳場の隅で報告書を綴じながら、その騒ぎを眺めていた。
昨日セナに話したことは、ひとつも訂正しなくていいと思った。
家族みたいなんだ、と言ったのは本当である。
ただ、少しばかり騒がしすぎる家族では、ある。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




