第37話 千人の糸 〜座長の舞台と、観劇の夜〜(前編)
お読みいただきありがとうございます。
新しいお話です。今回は、観劇のお話です。
「――リュート座って、知ってる?」
昼休みの中庭で、セナがさらりと言った。
「今、王都で一番、札の取れない劇団。今度の演目、すごく評判が良いのよ。『ともしび』っていうの」
「へえ」
「病気のお母さんが、小さい息子に、生きていくためのことを、ひとつずつ教えていくお話ですって。座長さんが自分で母親を演るの。それが、当たり役で。……観た人が、みんな、様子がおかしくなるくらい泣くんですって」
セナは教科書の角を指で撫でた。
「一度で、いいのよ。一度でいいから、観てみたいのだけれど……札が、発売の朝に消えるらしくて」
おねだりというより、手の届かない星の話をする時の、ただの遠い目だった。言うだけ言って、セナはもう教科書に戻ろうとしている。
リオははたと思い出した。
リュート座。座長。
――そういえば、伝手が、あるんだった。というより、伝手の塊のような職場にいるのだった。
「……あのさ。伝手、あるかもしれない」
「え」
セナの顔がぱっと上がった。
「ほ、本当に? リュート座よ? 札が、朝に消える方の?」
「多分。二枚くらいなら」
「二枚」
セナは口元を両手で覆った。
それから覆ったまま、くぐもった声で言った。
「……行く。行くわ。絶対に、行く」
いつもの澄まし顔を作り直す余裕も、ないらしかった。教科書が机から滑り落ちかけていた。
◇
その夜の帳場でリオが相談を切り出すと、グラントは書き物の手を止めて顔を上げた。
「リュート座の札」
「はい。二枚」
「二枚……」
グラントの筆が、止まった。
「ん? ……二枚か?」
「……二枚です」
グラントはしばらくリオの顔を見て、それから実に嫌な感じの間を置いて言った。
「誰と行くんだ」
「……クラスメイトと」
「ふうん」
それ以上は聞かなかった。聞かない代わりに、口の端がわずかに上がっていた。
「札は、明日には用意しとく。座長預かりの席だ、いい席だぞ」
「ありがとうございます。……あの、代金は」
「経費だ」
「経費?」
「若手の、情操教育費だ」
帳簿につける気らしかった。何の品目で載るのか、考えたくもない。
リオが帳場を出ていった後――
奥の間から、ネムが湯呑み片手にするりと現れた。
「……ねえ。今の、聞いた?」
「聞いた」
「あの子が。お芝居に。二枚で」
「ああ」
二人は顔を見合わせた。
長い付き合いである。それ以上の言葉は、要らなかった。
「リッツ」
グラントが帳場の脇に声を投げると、工具箱を抱えたリッツが待ってましたという顔で出てきた。
「例の『聞き耳』な。ちょうど、実地の試験がしたかったところなんだ」
聞き耳。リッツが防犯用に拵えている、双子の錠である。片方の錠が拾った物音を、対になったもう片方が離れた場所で鳴らす。留守中の帳場の異変を知るための道具――という、真っ当な触れ込みの品だ。
「劇場ってのは、あれだぜ。音の条件が最悪だ。ざわめき、音楽、千人の客。……その中から狙った席の声だけ拾えりゃ、こいつの性能は本物ってことになる」
「つまり、あくまで試験だ」
「試験だな」
「性能の、確認よねえ」
三人の言い分は、完璧に揃っていた。
揃いすぎていて、誰一人真っ当に聞こえなかった。
◇
当日のリュート座は、開演前から熱があった。
王都の中央劇場。千人箱と呼ばれる大箱の前に、開場を待つ列が通りの角まで折り返している。
待ち合わせの時計台の下に、セナは先に来ていた。
普段の制服ではなく、深い青の外出着。いつもきっちり結んでいる髪が、今日は半分だけ下ろしてある。
「……その、似合ってる」
「知ってるわ」
即答だった。即答のくせに、セナはそれきり耳のあたりを少し赤くして、時計台の文字盤を見上げていた。
「フワは?」
「お留守番よ」
「珍しいな。いつも肩に乗せてるのに」
「劇場は、鳥は入れないもの」
セナは澄まして言った。それから、聞こえるか聞こえないかの声で付け足した。
「……それに、今日は、席は二つしか、ないでしょう」
「え?」
「何でもないわ。ほら、開場よ。行くわよ」
劇場の中に入った途端、セナの様子が変わった。
「――見て、リオ! 天井! 天井画よ! 星の航海図になってる!」
「ほんとだ」
「あっちの緞帳、あれ、全部手刺繍じゃないかしら。あの大きさで? 嘘でしょう? ねえ、演目札、買っていい? 記念に。あと、あの売店の、月の飴っていうの、あれも」
「落ち着いて」
「落ち着いてるわ」
落ち着いていなかった。目が、天井と緞帳と売店の間を忙しく三往復している。教室では見たことのない顔だった。魔物の話をする時とも、また違う。年相応の、ただのはしゃいだ顔である。
演目札と月の飴を買い込んで、席に着いた。
一階の中央、舞台が一番よく見える並びだった。座長預かりの席、の名は伊達ではないらしい。
「すごい席……。ね、音響のことなのだけど、この劇場、壁の湾曲がね、声を客席に――」
早口の授業モードが始まりかけて、セナは自分でぴたりと止めた。
「……いいえ。今日は、理屈は、お休み」
演目札を大事そうに膝に置いた。
――ちなみに、その斜め後ろの区画に、外套の襟を立てた三人組が座っていることを、この時のリオは、まだ知らない。
開演の鐘が鳴った。
千人のざわめきは、すぐには止まらなかった。鐘くらいでは、人は静かにならないのである。
そこへ、幕の裏から声がした。
「――ようこそ、おいでくださいました」
たった、それだけだった。
口上ですらない。挨拶が一つ。
なのに、ざわめきが――千人分のざわめきが、外套の裾を払うみたいにすうと消えた。
リオは腕に鳥肌が立った。
今の声は大きくなかった。張ってもいない。それなのに、千人の耳が一斉に同じ一点を向いた。人の注意の向きを、声一つでまとめて掴んで回した。
知っている声だった。
そして、知っている技だった。ただし、こんな規模で使うところは見たことがなかった。
幕が上がった。
◇
演目『ともしび』の筋は、単純である。
山里の母子。母は長くない。だから母は、幼い息子に生きていくためのことをひとつずつ教えていく。それだけの話だ。
だから、この劇の凄みは筋というより、客席で起きることにある。
母親役は座長が自分で演っていた。
深い葡萄色の髪を質素に結った、痩せた母。帳場ではいつも扇子を揺らして笑っている、あの人である。だが、舞台の上のその人はリオの知っている誰でもなかった。ただの、長くない母だった。
開幕から四半刻もすると、リオは奇妙なことに気づき始めた。
千人の客が同じ呼吸をしているのである。
熱の下がらない夜、母がそれでも息子の小さな手を取って糸の紡ぎ方を教える場面で、息を呑む音が千人分、同時に鳴った。ばらばらではない。同時にである。息子が覚えたての生意気な口を利く場面では、笑いが客席を波のように走った――前から後ろへ、きれいに一往復。誰かが笑い遅れることも、笑い残ることもない。
隣の席の、腕っ節で生きてきたような強面の男が、身を乗り出して口を半分開けていた。
前の列の子供が、笑う。その直前に舞台の上の声が、ほんのわずかに緩んでいる。客が笑うから声が緩むのではない。声が緩むから、客が笑うのだ。順番が逆なのである。
休憩なしの長丁場で、咳の音一つしなかった。千人いてである。
――糸だ。
リオは確信した。
客席の上に目に見えない細い糸が、千本張られている。声の抑揚で引き、間で緩め沈黙で束ねる。観客は誰も引かれていることに気づかない。気づかないまま、笑うところで笑い、呑むところで呑み、同じ息で同じ場所を見ている。
思わず、テイマーの感覚で客席の空気を探った。
――ない。
糸は、一本も張られていなかった。触れ糸も、魔力も、術の類も何ひとつない。あるのは、声と、間と、灯りの明滅。それだけである。
つまりあの人は、道具も力も使わずに、テイマーが糸でやるようなことを鍛えた喉と呼吸だけで、千人相手にやってのけているのだ。
糸のないところに糸が見える。
それがどれほど恐ろしいことか、多分この千人の中でリオにしか分からない。
千人を一つの楽器にする芸。
――これが、師匠の、本業か。
笛の指使いと、立ち居振る舞いと、着付けの理屈を教わったあの人の表の顔。舞台の上で母を生きながら、その同じ喉と、間と、灯りの明滅で、千人箱の呼吸を握って離さない。演じる者と、繰る者を同時にやっているのだ。
物語は進む。
息子は教わっていく。糸の紡ぎ方。火の熾し方。金の数え方。人への頭の下げ方。
母は教えていく。ひとつ教えるたびに、咳がひとつ深くなる。
季節が進む。
客席の千本の糸が、ゆっくりと同じ方向に引かれていくのが分かった。
この話はこれからそこへ向かうのだ。
母と、息子の別れの話に。
隣の席で、セナが小さく息を吸った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。
次回、後編です。




