第35話 空の御用聞き
お読みいただきありがとうございます。
今回は、配達のお話です。
「――配達だ」
夜の帳場で、グラントは一枚の依頼書を机に滑らせた。
「先の崩落でな。北西の峠の荷馬車道が、丸ごと埋まった。復旧は、早くて雪解けの後だ」
先の崩落には覚えがある。縦走演習でリオとカイルを取り残したあの崩落は、峠の道も一本、食い潰していたのだった。
「困るのは、峠の向こうだ。国境沿いの村は、冬ごもりの前に、王都から薬と物資を仕入れる。その道が、死んだ」
「……冬までに、別の道は」
「大回りの南街道なら、ある。荷馬車で二十日だ。冬の方が先に着く」
グラントは指を上に向けた。
「だから、空だ。財団の名目で、届け物を頼まれた。薬箱が三つ、越冬の道具が一式。……空の御用聞きってわけだ」
「行き先は」
「国境の村。……ん、お前、行ったことがあるな」
依頼書の村の名に、見覚えがあった。
少し前、怯えて暴れる魔物を北の魔物領域へ帰した、あの仕事の村である。
「ぜひ、受けさせてください」
「……やけに、乗り気だな」
「あの魔物が、その後どうしてるか、気になっていたので」
◇
竜舎の大扉の前には、白髭の翁と――見慣れない黒い竜がいた。
ゼノより、二回り小さい。それでも馬よりはずっと大きい。墨を流したような黒い鱗に、若さの分だけ傷が少ない。
「ノワールだ」
マキアス翁が、顎で示した。
「まだ十にならねえ、うちの若手よ。ゼノが今、空の教育をつけてる最中でな。……仕上げには、実地が一番だ。連れてけ」
「ゼノじゃ、ないんですか」
「ゼノは稽古がある。それによ」
翁はにやりとした。
「大先生ばっかり借りてちゃ、若いのが育たねえだろ。契約は、担当の若いのが今朝解いてきた。いつでも結べるぞ」
竜舎の奥から、灰色の大竜が首だけ伸ばしてこちらを見ていた。ゼノである。触れ糸を軽く投げると、教官の声が返ってきた。
――あれは、力むと、右に流れる。直してやれ。
――分かった。……厳しいんだな、先生は。
――儂の弟子だ。当然だろう。
リオはノワールの前に立った。
若い竜の目が、じとこちらを値踏みしている。緊張と、負けん気が半々の目だった。
太い線を一本撚り上げて、端をその心の前に置く。
結ばずにである。受けるかどうかは、そちらが決めてくれ。
ノワールはゼノと違ってたっぷり検分した。線の匂いを嗅ぐように、ためつすがめつ時間をかけて――それから意を決したように、がぶりと咥えた。
どんと胸に来た重さは、ゼノより軽く、その分跳ねるように元気だった。
――俺、右に流れるって、言われたか。
――言われた。
――……くそ。直ってると思ったのに。
若い声だった。荷は、興行の道具運びに使う副座に薬箱ごと括りつけた。
「行ってきます」
「おう。――ノワール。荷と客に、傷ひとつ付けるんじゃねえぞ」
黒い竜は任せろというように、高く一声鳴いた。
◇
王都を出て空路は北西へ。
ノワールは確かに力むと右に流れた。
風が強まるたび翼に力が入り、進路がじりと右へずれる。若さである。
――ノワール。力、抜いていい。
――抜いたら、落ちる。
――落ちない。風は、殴るものじゃなくて、乗るものだ。……ほら、ゼノの背中、思い出して。あの人、翼で殴ってなかっただろ。
糸の向こうで、若い竜が記憶を辿る気配がした。
翼から、ふと力が抜けた。
機体が――竜体が、すっと安定する。
――……あ。
――それ。それを、覚えて。
それからの飛びは、見違えた。
◇
最初の山なみに、霧がかかっていた。
西の霧山である。
近づくにつれ、リオは糸を細く長く山へ投げた。挨拶のためである。
この山の主とは、大きな縁があった。右の奥歯を抜いた場に立ち会ったのがリオで、別れ際に主は、困ったらいつでも霧山へ来るがいいと言った。
――主どの。上を通ります。リオです。
返事の代わりに、山が動いた。
行く手の霧が、すうと左右に割れたのである。山肌に沿って、霧のない道が一本まっすぐに通った。
――降りて、顔を見せていけ。
張りのある声が、糸を伝って響いた。
尾根の草地に、大角鹿の主は悠然と立っていた。若木ほどの角。左後ろ足の古傷。相変わらずの、山そのもののような佇まいである。
ノワールが、降り立つなり緊張で棒立ちになった。若い竜にも格というものは、匂いで分かるらしい。
「ご無沙汰してます。……歯の調子は、どうですか」
――良い。林檎が、右で噛める。
主はこともなげに言って、それから、じっとリオを見た。
――して。今日は、何に困った。
「困ってません。配達の途中です。……その、挨拶に寄っただけで」
主はしばらく黙った。
――困ってもいないのに、来たのか。
「はい」
――……変わった子だ。
角が、ゆっくりと一度傾いた。あれはこの主の笑い方である。
――北へ行くなら、尾根の風は西から来る。若いのに、そう教えてやれ。
「ありがとうございます」
山の主の風予報ほど確かな餞別はない。
◇
尾根伝いに北へ飛ぶ途中、リオは一箇所だけ寄り道をした。
尾根の肩の、開けた岩場である。岩の窪みが白く光っているのは天然の塩が吹くからで、季節ごとに方々の山から獣が塩を舐めに集まる。山と山の噂が行き交う、獣界の井戸端だった。
降りると、居合わせた獣たちが一斉に固まった。
角の欠けた山羊。毛替わりの途中の狐。岩陰の兎たち。
その中に一際大きな灰色の影があった。
灰をまぶしたような毛並みの、大猪。肩の高さはリオの背を超え、牙は腕ほど。
――アッシュボアさん。
西の山の主である。山賊の食料庫を丸ごと支払いに、一晩だけ力を借りた相手だった。
――……お前か。噂の。
――お久しぶりです。
――塩舐め場に、人間が降りてくるな。皆が固まっておる。
もっともである。
リオは荷の隅から布袋を一つ出した。王都で仕入れてきた、粗塩の袋である。
岩の窪みの一番舐めやすい高さのところに、袋の口を開けて置いた。
――お邪魔した分です。皆さんで。
借りたら、返す。使ったら、払う。場所を借りたなら、場所に払う。夜の森で仕事をする者の、昔からの流儀である。
固まっていた獣たちの目の色が、あからさまに変わった。
――……ふん。
アッシュボアが、鼻を鳴らした。
――噂通りの、変な子供だ。歯痛の主が気に入るわけよ。
飛び立つ時、眼下の塩舐め場では早くも兎たちが袋に群がっていた。
今夜あたり、山々の噂に新しい一行が増えるのだろう。
◇
国境の村には、昼過ぎに着いた。
黒い竜が降りてくるのを見て村は一瞬ざわめき、それから広場に出てきた猟師が、覆面のリオを見て破顔した。
「――おお! いつかの、覆面のテイマーさんか!」
魔物の見極めの、あの時の猟師である。
薬箱三つと越冬の道具は、村長の家に無事に納まった。峠が埋まったと聞いてから村は薬の残りを数えて暮らしていたそうで、頭を下げられすぎて覆面の下の首が疲れた。
「そうだ、テイマーさん。いい報せがある」
帰り際、猟師が言った。
「あんたが北へ帰したあの魔物な。……魔物領域の際の水場に、居着いたらしい。渡りの鳥が運んでくる話じゃ、仲間も二頭、増えたと」
「……そうですか」
干上がった水場の記憶ごと震えていた、あの魔物である。
水場に居着いた。仲間が増えた。
覆面の下で、リオは長く目を閉じた。
「良い報せ、確かに受け取りました」
◇
帰りの空は夕焼けだった。
主に教わった通り、尾根の風は西から来た。ノワールはもう右に流れなかった。
帰り道、北の空の遠くで燐光がひとつ、瞬いた気がした。霧の谷の方角である。銀の毛並みの親子は、達者にしているだろうか。
竜舎に降りると、翁とゼノが待っていた。
「どうだった、若いのは」
「右の癖、直りました。……最後のひと山、自分で風を選んでましたよ」
「そうかい」
翁は素っ気なく言ったが、白髭の奥は笑っていた。
契約の線をそっとほどく。名残の間際、若い声が糸の先で言った。
――なあ。また、乗るか。
――仕事があれば。
――……仕事が、なくてもだ。
返事をする前に、線はほどけて消えた。
ゼノが、弟子の首に自分の首をこつんと当てていた。
その夜、窓口の帳面の品目欄には、几帳面な字でこう載った。
『空の御用聞き 一件(塩・一袋を経費に含む)』
塩の一袋まで帳面に載せるのが、うちの主任である。
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【登場人物メモ】
西の霧山の主……老いた大角鹿。第16話で王都に来て歯の治療を受けた。
アッシュボア……西の山の主の大猪(第6話)。
ノワール……アルバ竜技団の若い飛竜。ゼノの弟子。
次回もよろしくお願いいたします。




