第33話 しんがりの二人(後編)
お読みいただきありがとうございます。
第33話、これで完結です。
朝の旧道は露で濡れていた。
血の跡は下るほどに濃くなった。点だったものが線になり、時々、獣が体を休めた窪みには溜まりになった。
「……近いな」
カイルが声を落とした。
リオは頷いた。触れ糸の網には、朝からずっとあの悪い熱が掛かりっぱなしである。熱は昨夜より上がっていた。
旧道が切通しに入った。
両側を岩壁に挟まれた、荷車一台分の幅の道である。昔の人間が岩を割って通した道なのだろう。抜けるまで逃げ場はない。
その、抜け口に。
グランリンクスが、いた。
こちらを向いて、低く身を沈めていた。灰褐色の毛が逆立ち、房毛の耳が真後ろに倒れている。左肩の矢の周りは、昨夜より黒く腫れていた。
喉の奥から、地鳴りのような唸りが切通しに反響した。
昨夜の、余力を惜しむ獣ではもうなかった。
――熱が、上がりきってる。痛みで、何もかもが敵に見えてる。
「下がるか」
カイルが囁いた。
「駄目だ。背中を見せたら、来る」
「だよな」
カイルはそれだけで察して、すとリオの前に出た。
約束通りの、立ち位置である。
腰の剣が鞘走りの音もなく、抜かれた。正眼よりやや低い、静かな構え。教練の型というより、相手を測る、実戦の構えだった。
グランリンクスの唸りが、一段深くなった。
リオはその響きの中に聞いた。
怒りの底の、悲鳴を。
――刺さってる。ずっと、刺さってる。抜けない。追ってくる。人間は、追ってくる。
矢。狩人。山越え。そして今、目の前にまた刃を構えた人間がいる。
この獣の目に映っているのは、リオとカイルというより、山向こうから続いている一連の「人間」である。
だったら。
まず、その絵を消さなくてはならない。
「カイル」
リオは言った。
「――剣を、納めてくれ」
切通しの空気が、一瞬止まった。
目の前には、腰の高さの山猫が飛びかかる姿勢で沈んでいる。間合いは十歩ない。剣を納めろとは、つまり丸腰でそこに立てということである。
正気の指示ではない。
カイルは――納めた。
ちと鍔の鳴る音が、一つ。
問い返しも、ためらいの間も、なかった。
「……ついでに、頼みがある。ゆっくり、その場に座ってくれ。目線を、あいつより下げたい」
「おう」
カイルは座った。
剣から手を離し、岩床の上にどっかりと胡座をかいた。飛びかかられれば、避けようのない姿勢である。それを切通しの真ん中で、やってのけた。
――あとで、カイルは言った。怖くなかったと言えば、嘘になる。膝の裏が、ずっと震えていた。ただ、リオが「納めてくれ」と言った時の声が、教官の誰よりも、落ち着いていた。ああいう声を出す奴の言うことは、聞くものだと、体が先に決めた。そういうことらしい。
人間二人が刃を仕舞い地に座った。
グランリンクスの唸りが、わずかに揺れた。
沈めていた体が、ほんの少し浮く。飛びかかる姿勢が、緩んだのだ。
狩人は座らない。
この獣が山越えの間に覚えた「人間」の絵と、目の前の絵が合わなくなった。その、僅かな隙間に。
リオは触れ糸をそっと通した。
――敵じゃない。
弾かれた。怒りと熱が糸ごと払い落とす。構わず、もう一度。ゆっくり。細く。
――敵じゃない。矢は、おれたちのじゃない。
――……。
――痛いのは、知ってる。左の肩。自分の口じゃ、届かない場所。
唸りが止んだ。
房毛の耳が、倒れたままぴくと動いた。
――抜かせてほしい。人が刺したものくらい、人が抜かないと、駄目だろ。
長い、沈黙だった。
やがてグランリンクスは、唸りの代わりに細く長い息を吐いた。
立っていられなくなったのだ、と分かった。限界はとっくに過ぎていたのである。獣は崩れるように横腹を岩床に着け、それでも目だけは二人を離さなかった。
――早く、しろ。
――ああ。
リオは立ち上がった。
「カイル。手伝ってくれ。……もう、暴れる力もない。けど、痛みで跳ねるかもしれない。肩の付け根を、押さえててほしい」
「おう。……触っていいのか、俺が」
「お前は、もう、大丈夫だ。剣を納めた人間のことは、覚えてる」
二人がかりの、処置だった。
カイルが体重をかけて肩を固定し、リオが矢柄を短く折り、鏃の向きを読んで一息に抜いた。獣の四肢がびくと跳ね、カイルが「おう、よしよし」と、まるで馬でもなだめるように押さえ込む。膿を出し、鍋で沸かして冷ました湯で洗い、持ってきた薬草を揉んで当て、布を裂いて巻く。
汚れを見て、血を止めて塞ぐ。手当ての順番は、考えるより先に手が覚えていた。子供の頃から、嫌になるほど仕込まれた順番である。
終わった時には、二人とも汗だくだった。
グランリンクスはしばらく岩床に伏せたまま、荒い息を整えていた。
やがてゆっくりと起き上がり、左の前足にそっと体重を載せた。一度、二度。
それから二人を等分に見て、糸の向こうで短く言った。
――借りは、覚えておく。
切通しの岩壁を信じられない身軽さで駆け上がり、灰褐色の姿は朝の山に消えた。
跡には折れた矢柄が一本。
カイルが長い長い息を吐いた。
「…………なあ、リオ」
「なんだ」
「お前、今、あいつと、しゃべってたよな」
「…………」
「いや、いい」
カイルは手を振って自分から打ち切った。
「細けえことは、分かんねえ。けど、お前がすげえのは、昔から知ってた。……今日、確かめただけだ」
そして折れた矢柄を拾い上げ、リオに放って寄越した。
「ほれ、戦利品。……行こうぜ。飯が待ってる」
◇
二人が麓の演習場に自力で下りてきたのは、その日の昼過ぎだった。
最初に気づいたのは、やはりネイトだった。
「――来たァァァッ! リオとカイルだァァァッ!」
演習場がひっくり返った。
教官たちが血相を変えて駆け寄り、無事の確認と説教が同時に降ってきた。カイルは説教を全部「すんませんした!」の一言で受け止め、その裏で、リオはトトから水筒を受け取っていた。
焚き火の前から、セナが歩いてきた。
駆けてはこない。いつも通りの足取りで、いつも通りの顔で、二人の前に立った。
「おかえり」
「ただいま」
「……遅かったわね」
それだけだった。それだけで、十分だった。
クラリスがその後ろで、何度も何度も頷いていた。
夜、報告と夕食が済んだ焚き火でカイルの武勇伝が始まった。
「――で、崖だよ、崖。これがもう、切り立っててよ。俺とリオで、こう、ひょい、ひょい、ひょーいっと」
「三回飛んだのですか」
「飛んだね。あと熊みてえにでかい山猫が出た。俺が、こう、にらんで、追い払った」
「にらんで、ですか」
「気迫だよ、トト、気迫」
にらんだのも、山猫が去ったのも、事実である。剣を納めて座ったこととリオの糸のことだけが、話から綺麗に抜けていた。
カイルは盛る。盛るがリオの秘密の側には、指一本触れなかった。
「まあ、あれだ」
武勇伝の締めに、カイルは隣のリオの肩に腕を回した。
「こいつがすげえってことだけ、覚えとけ。細けえことは、俺も知らねえ」
どっと笑いが起きた。
その笑いの中で、リオは思っていた。
崖で剣を納めて座った男。盛った話で、秘密だけを綺麗に抜いた男。
「なあ、リオ」
解散間際、カイルが拳を突き出してきた。
「今回の俺ら、一人前だったよな」
「……ああ」
リオは拳を合わせた。
「一人前だった」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
三話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。
【登場人物メモ】
スナ……第十三厩舎で療養中のグランリンクス(第8話)。元闘獣。




