第33話 しんがりの二人(中編)
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第33話の中編です。
旧道は思ったより、生きていた。
崩れかけの箇所はあるものの、道の形は残っている。昔は麓と尾根を繋ぐ本道だったのだろう、ところどころに苔をかぶった石積みが覗いた。
日のあるうちに、二人は支尾根の肩まで下りた。
「今日は、ここまでだな」
カイルが空を見て言った。
雲はまだ北の稜線に留まっている。だが日は傾き、山の冷えが足元から上がり始めていた。夜の山を灯りもなしに歩くのは、下手な崖より危ない。それくらいは二人とも、身に染みて知っている。
野営の支度は驚くほど早かった。
カイルが枯れ枝を集め、石で竈を組み、焚き付けから火を立ち上げるまで、ほとんど手が止まらない。
「慣れてるな」
「剣術科は、野営訓練が多いからよ。……つっても、火の立ち上げは、隊で一番早いけどな」
にっ、と笑う。自慢が嫌味にならないのは、この男の得な性分である。
リオはその間に、水と食い物を集めてきた。
岩の裂け目の湧き水。倒木の陰の茸。棘のある藪の奥の、甘い実。
「……お前、なんで一発で見つけてくるんだ? この山、初めてだろ」
「勘だよ」
勘の中身は言っていない。水場は、鳥の飛び方が教えてくれる。茸と実は、さっきすれ違ったリスの頬袋が教えてくれた。獣の道は、山の台所への近道である。
ネイトの鍋がここで役に立った。
湯気の立つ茸の汁を挟んで、火の番を決める。前半カイル、後半リオ。
「なあ、リオ」
椀を置いて、カイルが言った。
「明日、あの獣に会うかもしれねえよな。血の跡、旧道の方に続いてた」
「……多分な」
「そんときはよ」
カイルは火を見たまま続けた。
「俺が前に出るから、お前は作戦でも考えててくれ。それで行こうぜ」
「……いいのか、それで。お前が損する分担だろ」
「損じゃねえよ」
即答だった。
「俺は、頭で勝負したら、お前に勝てねえ。お前は、腕で勝負したら、俺に勝てねえ。だったら、足して一人前になりゃいいんだよ。……なあ、これ、結構いい考えだろ」
「二人で一人前か」
「おう。文句あるか」
「ない」
リオは少し笑って、椀の残りを飲み干した。
こういうことを照れもなく言えるのが、この男の才能だと思う。教室では測れない、人の側の才能である。
◇
同じ頃、麓の演習場は騒がしかった。
崩落の報せで、教官たちは日暮れまで走り回った。生徒は全員無事、ただし二名、崩落の向こう側――報告のたびに本部の天幕の空気が重くなる。
「救助隊は、夜明けと同時に旧道の下から入る。いいか、生徒は絶対に山に入れるな」
教官の声は疲れて掠れていた。
天幕の外、焚き火のひとつを生徒たちが囲んでいた。
「リオーッ! カイルーッ! 飯できてるぞーッ!」
ネイトが山に向かって、腹の底から叫んでいる。
「ネイトくん、届かないですよ、さすがに」
「いいんだよ、トト。届けって叫ぶのが、大事なんだよ」
「はあ……。あ、でも、そうですね。……ごはんできてますよーっ」
トトの控えめな声が続いた。
その焚き火の端に、セナはフワを膝に載せて座っていた。
騒がない。叫ばない。ただ、火を見ている。
「……セナさんは、心配、なさらないんですか」
隣に座ったクラリスが小さく聞いた。委員長の顔はさすがに硬い。
「心配?」
セナは火から目を離さずに言った。
「あの二人なら、大丈夫よ」
あっさりしたものだった。
フワが膝の上で、同意するようにふ、とあくびをした。
「……ええ。そう、ですよね」
クラリスは頷いた。それから、少し迷って続けた。
「リオさんは、その。……慣れて、いらっしゃるから」
「ふうん?」
セナの目が初めて火から離れて、クラリスを見た。
「詳しいのね、委員長」
「い、いえ。何となく、です。何となく」
クラリスは慌てて火に向き直った。
セナはそれ以上聞かなかった。聞かない代わりに、胸の内で一つ数を足した。
――お茶会、香り選び、それから、これ。
まあ、いい。今は。
二人が帰ってきたら、その時にまとめて数えることにする。
◇
夜半、リオは火の番を代わって、一人で焚き火の前にいた。
カイルは岩を背に、剣を抱いたまま器用に眠っている。寝入りの早さも野営慣れの内である。
最初に気づいたのは、糸だった。
張っておいた触れ糸の見張り網に、大きな気配が引っかかった。
重い。それに――熱い。
傷が膿んで、体の中で火を焚いているような悪い熱である。
リオは動かなかった。焚き火に枝を一本だけ足した。
闇の中に、両の目が灯った。
火明かりの届く際に、それは立っていた。
大きな山猫だった。灰褐色の毛皮に、濃い灰の斑。肩の高さは人の腰を超える。房毛の立った耳が、こちらの音を全部拾っている。
見間違えようがなかった。
グランリンクス。深山の斜面を縄張りにする、単独行の山猫である。そして――スナと同じ種だった。
この国の山で野生のグランリンクスを見た、という話は聞いたことがない。スナも南の闘技場から来た。つまりこいつは、山向こうから来たのだ。
そして、その左肩に矢が刺さったままだった。
根本まで深く。周りの毛が固まって変色している。
――抜けない場所に、刺さってる。自分の口でも、届かない場所。
グランリンクスは低く唸った。
威嚇である。だが、踏み込んでは来ない。もう、踏み込むだけの余力を惜しんでいるのだ。
リオは目を合わせたまま、ゆっくり視線だけを下げた。敵意はない、の姿勢である。
長い、長い数呼吸のあと、山猫はふいと身を翻した。
闇に溶ける寸前、左肩を庇う足取りがはっきりと見えた。
「……あのままだと、死ぬな」
誰にともなく呟いた。
「――だな」
背後で声がした。
振り向くと、カイルが剣を抱いたまま薄目を開けていた。
「起きてたのか」
「途中からな。……お前が枝を足した音で」
カイルは身を起こして、闇の際を見た。
「で、どうすんだ、リオ」
「どう、って」
「明日、多分また会うぜ、あれと。旧道は一本道だ。……で、お前は今、あいつを追い払う顔じゃなくて、あいつの怪我の心配をする顔をしてた」
見られていた。
リオは少し呼吸を置いてから、観念した。
「……治せるなら、治したい。あの矢は、人の矢だ。人が刺したものくらい、人が抜かないと」
「よし、分かった」
カイルはそれだけ言って、また岩に背を戻した。
「作戦は、お前の仕事だろ。……朝までに、考えとけよ」
目を閉じる寸前、付け足した。
「細けえことは、起きてから聞く」
リオは鍋に湧き水を足して火に戻し、沸いた湯を、傷を洗う分だけ水筒に取り分けておいた。




