第33話 しんがりの二人(前編)
秋の合同縦走演習は、アルフェン高等技能院の年に一度の名物である。
科の垣根を取り払い、混成の班を組んで二泊三日で国境寄りの連山を歩き通す。テイマー科は獣の扱いを、剣術科は護衛の型を、他の科もそれぞれの持ち場を、山という一番正直な教室で試される。
リオの班は七人だった。
班割りは教官のくじで決まる。セナともクラリスとも別の班になり、代わりによく通る声が隣にいた。
「よーし、次の休みは尾根の先だとよ! あと少しだ、頑張れお前ら!」
カイルである。
剣術科のこの男は、班長でも何でもない。班長は別の、真面目な上級生である。それなのに、列がだれると声を出すのはカイルで、その声で列が持ち直すのもまた事実だった。
「カイル、お前の荷、なんでそんなに大きいんだ」
「ん? ああ、ネイトの鍋が入ってる。あいつ、張り切って二つも持ってきやがったから」
「班、違うだろ」
「出発の時、重そうだったからよ。野営地に着いたら、渡す」
当たり前のように言う。
リオは少し笑った。こういう男なのである。教室の成績表では測れないところで、この男の周りにはいつも人がいる。
隊列の殿は、テイマー科と剣術科から一名ずつ。後ろからの獣にいち早く気づくのがテイマー科の役目で、いざという時に立つのが剣術科の役目である。演習のその決まりで、リオとカイルは初日からずっと列の一番後ろが持ち場だった。
荷の紐が緩んで列から遅れた一年生が、ずるずると殿の二人のところまで下がってきた。カイルは歩きながら片手でそれを縛り直してやり、ついでに自分の歩幅を半歩だけ緩めた。
誰も気づかないくらいの、半歩である。
殿が緩めば、列の尻も緩む。列の速さがそれでちょうど、一番遅い者に合った。
◇
異変に最初に気づいたのは、リオだった。
二日目の昼、尾根道に入ってしばらくした頃である。
――静かすぎる。
山は本当はうるさい場所だ。鳥が鳴き、藪が鳴り遠くで獣が枝を踏む。その音の織物が、この山域ではぷつりと途切れていた。
見上げると、鳥の群れが進行方向から逆へ、逆へと流れていく。
獣道には新しい足跡が一つもない。
――みんな、避けてる。この先の、何かを。
リオは、列の前方の教官に伝えるべきか迷った。「鳥の飛び方が変です」では、根拠として弱い。テイマー科の勘、で通るか。
迷っている間に、山の方が答えを出した。
ずん、と。
腹に響く音がして、尾根の先の斜面から鳥が一斉に弾け飛んだ。
「――全員、止まれ!」
教官の声と二度目の音は、ほとんど同時だった。
尾根道の先、行く手の斜面の上で土煙が上がっていた。木がなぎ倒され、人の頭ほどの石が跳ねながら道を越えて谷へ落ちていく。
土煙の中に一瞬大きな影が見えた。
四つ足の、灰色の大きな影。それが斜面を横切り、稜線の向こうへ消えた――直後、緩んだ斜面が音を立てて滑り出した。
「崩れるぞ! 戻れ、走れ!」
列が悲鳴と一緒に反転した。
道は尾根の細道である。七人の班と、その後ろに続いていた二つの班、二十人余りが一斉に狭い道を戻り始める。転ぶ者、荷に足を取られる者、立ちすくむ者。
反転すれば、さっきまでの殿は先頭になる。
だが、二人は走り出さなかった。どちらからともなく道の山側に張り付いて、逃げてくる列を先に通し始めた。
「走れ走れ、荷は捨てていい!」
カイルが立ちすくんだ下級生の襟首を掴んで前へ押し出し、リオは転んだ生徒を引き起こして背を叩く。
「下を見ない。前の人だけ見て」
頭上で、めきめきと嫌な音が育っていく。
最後の一人が安全な岩場に飛び込むのを見届けて二人も走った。
走ったが――道の方が、先に終わった。
二人のすぐ前で、尾根道が丸ごと、斜面ごと、谷へ抜け落ちたのである。
土煙。轟音。
それが収まった時、リオとカイルの立つ場所と班の皆が退がった岩場との間には、えぐれた斜面が口を開けていた。道であったものは、もうどこにもなかった。
「――リオ! カイル!」
谷向こうの岩場から、ネイトの大声が届いた。こういう時、あの声量は本当に頼りになる。
「無事だ! 二人とも無事!」
カイルが両腕で大きく丸を作って返した。
教官の声が続いた。風に千切れながらも、要点は届いた。――そこを動くな。救助を呼ぶ。日暮れまでには。
リオとカイルは、顔を見合わせた。
それから、二人同時に空を見た。
北の稜線に灰色の雲が湧き始めていた。山の天気の崩れる前触れは、この二日で嫌というほど教官に叩き込まれている。雨になれば、緩んだ斜面はまた崩れる。救助どころではなくなる。
そしてもう一つ。
リオは、崩落の斜面の上――大きな影が消えた稜線を見ていた。
「……カイル。さっきの、見たか」
「ああ。でかい獣だろ。あれが斜面を崩したんだよな」
「多分な。……それと、あれ」
リオは崩れ残った斜面の際を指した。
なぎ倒された木の幹に、赤黒いものが点々と擦れていた。
「血だ。……あの獣、怪我してる。それも、かなり」
「怪我した獣が、暴れながら、この山域をうろついてる、と」
カイルは腕を組んだ。
「で、俺たちはここで、雨と夜を待って救助待ち、と。……おい、リオ。これ、待つのが正解か?」
「正解じゃないと思う」
リオは即答した。
待つ、が正解だった遭難を、リオは知っている。いつかの、増水の沢の時だ。あの時は、水が引くという確かな見込みがあった。今は逆である。時間が経つほど雨と夜と手負いの獣、悪い札が増えていく。
足元の岩に、指が入るほどの亀裂が走っていた。さっきの崩落で緩んだ斜面は、こちら側にも続いている。雨が来れば、この足場ごと落ちる。
そして、さっき指した赤黒い点々は、崩れた斜面からこちらの岩場の下を抜けて続いていた。手負いの何かが、この足場のすぐ近くを通っている。
待てば、確実に危ない。動けば、危ないかもしれない。それなら、動く方だった。
「南側の支尾根を回れば、旧道がある。地図で見た。遠回りだけど、崩れた斜面を避けて、麓の演習場まで下りられる」
「歩けるのか、その道」
「分からない。でも、ここで濡れて夜を明かすよりはいい」
「よし、決まりだ」
カイルの決断は、いっそ気持ちがいいくらい早かった。
谷向こうへ二人で身振りを交えて伝える。南の旧道から自力で下りる。心配するな。教官が何か言い返していたが、風が千切って届かなかった。代わりにネイトの大声が届いた。
「――分かった! 麓で、飯作って待ってるからな!」
二人は荷を背負い直した。
カイルがふと息を吐いて、それから、にっと笑った。
「なあ、リオ」
「なんだ」
「お前とふたりなら、なんとかなる気がすんだよな。……根拠はねえけど」
「根拠、ないのか」
「ねえよ。けど、当たるんだ、俺のこういうのは」
言って、カイルは先に立って歩き出した。
リオはその背中を追いながら、稜線の方をもう一度だけ見た。
血の点々は、南へ――二人がこれから行く方角へ続いていた。
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次回、二人だけの山の夜です。




