幕間 拾った日の帳面
お読みいただきありがとうございます。
少し昔の、帳場のお話です。
客を送り出し、灯りを落とし、若い連中の声も遠くなった夜更けにグラントは棚の奥へ手を入れた。
出てきたのは、角の潰れた古い帳面である。
窓口の仕事は品目と勘定と日付を、一冊の帳面につけて終わる。終わった仕事の帳面は綴じて棚に上げ、新しい一冊に替える。それだけの決まりを、もう何十年も続けてきた。
この一冊だけが、綴じられずに棚の奥にある。
開くのは年に何度もない。
◇
十年前のその夜のことを、グラントは帰りの馬車から覚えている。
それより前のことは、思い出さない。思い出さないと決めているというより、帳面につけない仕事の憶え方を体がしているだけである。
煙の匂いの染みた外套に、子供が一人包まれていた。
五つか、六つ。
子供は泣かなかった。
馬車が揺れても、王都の門をくぐっても、帳場の椅子に降ろされても、泣かなかった。すすり上げも、しゃくり上げもしない。ただ、起きてそこにいた。
名を聞くと、少し間を置いて
「……リオ」
とだけ言った。
それきり、口を閉じた。
グラントはそれ以上聞かなかった。聞くことは山ほどあり、そのどれもが今聞くことではなかった。
膝が疼く夜だった。
◇
夜中に叩き起こされたバルカは、何も聞かなかった。
帳場の子供を一目見て、それから台所を借りて粥を作った。
子供は匙を持ったまま、食べなかった。
バルカは怒らなかった。器を下げ、別のものを作った。二度目も匙は止まったままだった。
三度目に出てきたのは、湯気の立つただの塩の粥だった。出汁も、香草も、腕によりをかけた何もかもを抜いてあった。
子供が一口食べた。
二口目は少し早かった。
「……そうか。塩か」
バルカはそれだけ言って、鍋の残りを全部椀に移した。
うまい飯は開いている舌に出すものだ。閉じている舌に出すのは、味のいらない、あたたかいものでいい――後年、誰かに料理を教える時、この男はそう言うようになるのだが、それはまた別の話である。
◇
子供は眠らなかった。
目を閉じないのである。夜が更けても、帳場の隅の長椅子で目を開けたまま朝を待っていた。二晩、それが続いた。
三日目の夕方に、大きな編み籠を提げた小柄な女が帳場に入ってきた。
女は子供の顔を見て、それから目を見た。
「……この子、眠り方を忘れたんじゃないわ」
籠を降ろしながら、独り言のように言った。
「眠るのが、怖いのよ。目を閉じたら、また何か、なくなってる気がするんだわ」
そして女は長椅子の端に腰かけて歌い出した。
言葉のない、揺り籠のような旋律だった。
無理やり眠らせる歌ではないの、と女は歌の合間に言った。眠っても大丈夫って、体に思い出させてあげるだけ。
七節目で、子供の首が傾いだ。
目を閉じて、女の膝に頭が着いて、それでも小さな手は長椅子の縁を掴んだままだった。女はその手を外さず、指ごと包んで歌い続けた。
子供が眠ったのは、拾った夜から三日目のことである。
◇
それから、帳場に物が増えた。
隅に子供の背丈に合う椅子が増えた。用もないのに顔を出す連中が、来るたびに何かを置いていくのである。袖から出てくる飴が増えた。三段仕掛けの錠前パズルが増えた。小さな笛が増えた。
連中はよく子供の話を聞きたがった。飯は食ったか。眠れているか。今日は何か喋ったか。
あの夜に何があったかは、帳場に出入りする者ならみな知っている。知っているから、聞くのは決まってこれからの話だった。
子供は少しずつ口を利くようになった。
笑うのはまだずっと先である。
歩き回れるようになった頃から、グラントは子供に生き残るすべを片端から仕込み始めた。
火の熾し方。水の探し方。逃げ足。手当ての順番。錠の外し方。人の顔色の読み方。財団の伝手を頼っての、竜の背での落ちない座り方。
何の備えかは、言わなかった。
仕込みながら、一つ分かったことがある。
この子は魔物にやたらと好かれる。
気性の荒い竜が、この子の前でだけ機嫌を直す。厩舎の隅で唸っていた獣が、この子の隣でだけ腹を見せて眠る。教えた覚えのないことが、一番できた。
血筋だな、とは思った。
思っただけで、口には出さなかった。
言える日が来るのかどうかも、その頃はまだ分からなかった。
◇
ある夜、帳場にフードの客が来た。
身なりは町人風だが、背筋の伸び方が町人離れしていて、足元には革張りの立派な長靴が覗いていた。当時から、変装は絶望的に下手だった。
「珍しいな。……子供がいる」
客は、帳場の隅の長椅子を見て言った。子供は椅子の上で丸くなって眠っていた。目を閉じて眠れるようになって、まだ日の浅い頃である。
「拾いものだ」
グラントは筆を止めずに答えた。
「そうか」
客はそれ以上聞かなかった。仕事の話をして、茶を一杯飲んで立ち上がった。
戸口で一度だけ振り返った。
「名は」
「リオ」
「……そうか」
フードの奥で、若い王は少しだけ笑ったようだった。
「拾ってやったつもりだろうが。……いつか救われるのは、お前の方かもしれんぞ」
答える前に客は夜に消えた。
昔から、ああいう余計なことだけは上手い男である。
◇
あの夜の頁を、グラントは一度だけ書こうとしたことがある。
日付は書けた。
品目の行で、筆が止まった。
拾いもの、と書きかけてやめた。物ではない。
預かりもの、と書きかけてやめた。返す先がない。
勘定の欄は白いままだった。値の付けようがないものを、この帳面は載せる作りになっていない。
筆を置いてそれきりである。
どんなものにも、値段がある。そう言って生きてきた男の帳面に、一行だけ値段のつけられない行ができた。
◇
十年後の夜更け、グラントはその頁を開いている。
日付の隣は、今も白い。
窓の外の荷広場は、もう静かだった。若い連中はとうに散って、明日にはまたそれぞれの持ち場でうるさくなる。
グラントは、筆を取り――やはり何も書かずに帳面を閉じた。
空欄なのではない。
空けてあるのだ。
この行の埋め方を決めるのは、俺じゃない。
帳面は棚の奥へ戻された。綴じられないまま、また次に開かれる日まで。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
幕間でした。次回から、通常のお話に戻ります。
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