第31話 山を越えた客人
お読みいただきありがとうございます。
今回は、少し遠くの国の話から始まります。
その依頼は緊急扱いの札がついていた。
国境の村で、魔物が一体暴れている。討伐隊が組まれる前に様子を見てきてほしい――窓口に持ち込まれたのは、そういう依頼だった。
「討伐じゃ、ないんですか」
リオが聞くと、グラントは帳面から顔も上げずに答えた。
「村の猟師が言うにはな、その魔物、暴れちゃいるが、人を襲っちゃいないんだと。ただ、怯えて暴れてるだけに見えると。……で、討つ前に、話が通じる相手かどうか、確かめてくれと」
人を襲わず、ただ怯えて暴れる魔物。
それはリオの仕事の匂いがした。
「話が通じなけりゃ、どうするんです」
「その時は、討伐隊の仕事だ。……うちの国――レニオはな、魔物と共に暮らす国だ。話の通じる魔物とは組んで、畑を耕し、荷を運び、暮らしを回してる。テイマーってのは、その要だ。……だがな、それは、なんでもかんでも仲良くするって意味じゃねえ。人に牙を剥く獣は、討つ。話が通じない相手とは、線を引く。その線引きができるから、俺たちは魔物と暮らしていられる。それが、獣と暮らす国の、筋ってもんだ」
筋の通った話だった。
「行ってきます」
「おう。……無理はするな。ダメそうなら、引け」
◇
国境の村はレニオの西の端、険しい山脈の麓にあった。
山の向こうは、ルヴィナ王国である。
村の広場では猟師や自警団が、遠巻きに納屋を囲んでいた。壊れた柵、荒らされた畑。その奥の納屋の中で、何かが低くうなっている。
リオは覆面を着け、人垣の後ろからそっと近づいた。
「おい、あんた、窓口の人かい」
年嵩の猟師が、声をかけてきた。
「そうです。……あれ、いつから」
「昨日の夜からだ。山から降りてきて、あの納屋に潜り込んじまった。何度か出てこさせようとしたが、そのたびに暴れる。……もう三度も、柵を壊された」
「怪我人は」
「いない。それが、妙でな」
猟師は顎を撫でた。
「あれだけ暴れてりゃ、誰か噛まれてもおかしくねえ。だが、あいつ、人には向かってこねえんだ。ただ、囲まれると暴れる。追い詰めると暴れる。……逃げ場を探して、暴れてるみたいに見える」
逃げ場を探している。
リオは納屋の暗がりに目を凝らした。
◇
その時、人垣の中で誰かが苛立った声を上げた。
「なあ、もう討伐しちまえばいいだろ。魔物なんざ、素材にすりゃ金になる。何をぐずぐず」
「よせ」
年嵩の猟師が、たしなめた。
「うちは、そういう村じゃねえ。討つと決めるのは、ギルドの許可が要る。勝手に殺せば、こっちが罰せられる。……お前さん、ルヴィナから流れてきた冒険者だろう。あっちのやり方を、こっちで振り回すな」
「けっ。手ぬるいねえ、レニオは」
男は舌打ちして、それでも引き下がった。
そのルヴィナという言葉に、リオは少し引っかかった。
「……ルヴィナじゃ、勝手に討伐していいんですか」
「ああ」
年嵩の猟師が、声を落とした。
「山の向こうは、魔物を狩って暮らす国だ。冒険者が魔物を狩って、素材を売って、金にする。それが立派な商売として成り立ってる。討伐に、許可なんざ要らねえ。見つけたら、狩る。それだけだ」
「……そういう国も、あるんですね」
「どっちがいいって話じゃねえよ」
猟師は山の稜線を見上げた。
「向こうは向こうで、魔物に襲われて死ぬ人間が、うんと減ったって聞く。安全な国さ。……ただな、近ごろ、山を越えてくる魔物が、増えてる。狩られて、棲家を追われて、こっちへ逃げてくるんだ。あれも、たぶん、その口だろう」
狩られて、棲家を追われて逃げてくる。
納屋の暗がりで低くうなる何かを、リオはもう一度見た。
◇
人垣を下がらせ、リオは一人で納屋の前に立った。
中にいるのは、大型の獣だった。
狼に似ているが、もっと大きい。灰色の毛並みに賢そうな目。片方の前足を、庇うように上げている。怪我をしているのだ。追われる途中でついた傷だろう。
目が合った。
その目には明確な敵意があった。人間への、拭いようのない不信。
リオは目をそっと外した。
じっと見るのは、挑発になる。父さんに一番最初に教わった作法だ。
それから床に片膝をつき、細く撚った糸をゆっくりと獣の足元へ這わせた。押さえつけず、ただ届くように。
――怖がらせて、ごめん。
――俺は、狩りに来たんじゃない。
獣が牙を剥いた。糸を拒む。
当然だった。この獣にとって、人間はずっと「敵」だったのだ。追いかけてくる、槍と杖を持った恐ろしいもの。糸を伸ばしてくる人間なんて、罠にしか見えないだろう。
リオは糸を引っ込めなかった。
拒まれたまま、ただそこに置いておく。無理には繋がない。
――お前が山で見てきた人間は、みんな、槍と弓を持ってたんだろうな。
――ここには、それがない。
――俺は、お前を、山まで送りたいだけなんだ。
どれだけの時間が経ったろう。
獣の、荒い息が少しずつ静かになっていった。
牙が収まる。
庇っていた前足が、そろそろと地に降りる。
そして――灰色の獣は、リオの伸ばした糸に鼻先をそっと寄せた。
繋がった、瞬間。
流れ込んできたのは、山の記憶だった。
仲間と駆けた稜線。その仲間が次々と人間たちに倒されていく光景。放たれる火の球。振り下ろされる、光る刃。空を裂く、無数の矢。冒険者と呼ばれる者たちの、狩りだった。水場が、いつの間にか干上がっていたこと。棲家に、知らない匂いの人間たちが大きな機械を運び込んできたこと。追われて、追われて山を越えて――知らない土地で、また囲まれたこと。
最後の記憶が、一番鮮明だった。
水場が干上がっていた。
リオの背筋を、冷たいものが伝った。
水を抜かれた山。
どこかで、聞いた話だった。
◇
「――もう、大丈夫です」
リオが振り返ると、人垣が息を呑んだ。
あれだけ暴れていた大型の獣が、覆面の少年のすぐ隣で大人しく伏せていたからである。
「こいつは、人を襲う気はありません。ただ、逃げてきただけです。山の向こうで棲家を追われて、傷を負って、逃げ場を探してました」
「……そいつを、どうするんだ」
年嵩の猟師が、聞いた。
「送っていきます。レニオの北の、魔物の領域まで。あそこなら、この子の仲間もいるし、人も入らない。……この国で、新しい棲家を見つけられるように」
「わざわざ、そこまでするのか」
「はい」
リオは迷わなかった。
「こいつは、話が通じました。害もない。ただ、帰る場所をなくしただけです。……なら、帰る場所まで、送るのが筋だと思います」
こいつは、聞けた。
なら、あとは簡単な話だった。
◇
北へ向かう道すがら、灰色の獣はリオの隣を静かに歩いた。
傷ついた前足をかばいながら、それでももう怯えてはいなかった。
時々、糸越しに短い感覚が流れてくる。
――ここは、水がある。
――ここの土は、いい匂いがする。
この国の山を、値踏みしているらしい。棲むに値するかどうか、確かめているのだ。
リオは少しだけ笑った。
魔物の領域の入り口まで来て、リオは片膝をついた。
「ここから先は、お前の世界だ。……人は、入らない」
糸を、そっと緩める。
契約を解く。
その場で結んで、その場で返す。それがリオのやり方だった。
灰色の獣は解かれた糸の名残を惜しむように、一度だけリオの手に鼻を寄せた。
それから、山の奥へ駆けていった。
途中で一度だけ振り返り、遠く短く吠えた。
礼、だったのかもしれない。
あるいは、ただの別れの挨拶だったのかもしれない。
リオには分からなかった。
繋いでいる間は、誰よりも深く分かる。けれど、返した後はもう分からない。
それで、いいのだと思う。
あの獣には、これからこの国で見つける新しい仲間がいる。返さなくていい相手が、きっと見つかる。
――いつか、返さなくていい子が、見つかるといいわね。
誰かの言葉が、ふと耳の奥で鳴った。
リオは山の稜線をしばらく見ていた。
◇
その夜、窓口への報告で、リオは一つだけ気になったことを付け加えた。
「あの獣の、山の記憶に……水場が、干上がってる光景がありました。棲家を追われた理由の一つが、それみたいで」
グラントの、帳面をめくる手が止まった。
「……水場が、干上がってた、だと」
「はい。ルヴィナ側の、山の水場です」
しばらく、沈黙があった。
財団が掴んでいた水抜きの装置は、いずれもレニオ国内のものだった。北の湖、西の大河南の井戸。国の中ばかりを調べていた。
だが、山の向こうは。
国境を越えた先のルヴィナの水場は――誰も調べていない。
「……足元ばかり、見てたな」
グラントは低い声で言った。
「連中の本店は、そもそも山の向こうだ。あっちで同じことをやってねえと考える方が、おかしい。……水を抜かれてんのは、レニオの湖だけじゃ、なかったのかもしれねえ」
水を抜く。
その言葉が指す名前を、二人とももう知っていた。
山の向こうの国が、魔物のいない安全な街を目指して何をしているのか。
その答えの尻尾が、傷ついた獣の記憶の中に確かに残っていた。
「……当分は、増えるかもしれん。山を越えてくる客人が」
グラントは帳面に何かを書き付けながら、呟いた。
「その時ゃ、また、送ってやれ。……お前の仕事だ」
「はい」
窓の外で、西の山脈が夜の色に沈んでいた。
その向こうの国では今夜も、誰かが安全な街の夢を見て、誰かが棲家を追われている。
どちらが正しいのかを、リオはまだうまく言えなかった。
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