第30話 灰の魔女の香(後編)
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第30話の後編です。灰の魔女、登場します。
その店は、王都の裏通りのいっとう奥まった場所にあった。
表通りの華やかな香水店とは、まるで違う。看板もなく、ただ古い木の扉の上に、灰色の香炉の意匠が一つ彫られているだけ。扉の隙間から、甘いような苦いような複雑な煙が細く漏れ出している。
「……ここ、ですの?」
エリアナが少し不安そうに扉を見上げた。華やかな店を想像していたのだろう。
「腕は、確かです。……ただ、俺は、中の煙が苦手で」
リオは扉の脇に立った。
「入り口で、待ってます。何かあったら、呼んでください」
「あら。殿方の意見を、聞きたかったのに」
「窓越しに、聞こえるようにしてもらいます。……あの煙に巻かれるのが、どうも駄目で」
匂いそのものは、平気なのだ。むしろ、香りの善し悪しは分かる方だと思う。
ただ、煙が立ちのぼって、視界がゆらいで、白く囲まれていく――あの感じがどうしても駄目だった。囲まれていると、決まってあまり思い出したくない何かの輪郭を思い出しかける。理由は自分でもよく分からない。
クラリスが扉を押すと、軒の鈴がちりんと鳴った。
◇
店の中は薄暗かった。
棚という棚に色とりどりの小瓶が並び、天井からは乾いた花や草が逆さに吊るされている。中央の卓で、香炉から一筋細い煙が立ちのぼっていた。
その煙の向こうに人影があった。
灰色の長衣を纏った、女だった。深く被ったフードの奥で、煙越しにも分かるほど白い肌と切れ長の目が、静かにこちらを見ている。声は低く、落ち着いていて――そして、想像よりずっと若かった。年の頃は二十代の半ばだろうか。灰の魔女、という物々しい二つ名から思い浮かべる姿とは、だいぶ違う。
「……珍しい客だ」
声は、令嬢二人ではなく、開いた扉の外――そこに立つリオをまっすぐに見ていた。
「煙が苦手な坊やが、客を連れてくるとは」
「紹介です。香りを、選びたいそうで」
「ふん」
灰色の人影――オルフェは、それ以上リオには構わず令嬢二人へゆっくりと視線を移した。
「……嬢ちゃんたち。用件は」
「あ……はい。夜会用の、香りを、探していて」
エリアナが令嬢の顔を取り戻して一歩前へ出た。
「今の王都で流行りの、ええと、『月の雫』という香水を基本に、それを少し――」
「やめときな」
オルフェは令嬢の言葉を半分で切り捨てた。
「『月の雫』。白粉に、安い蜜蝋と、香りを長持ちさせる薬をたっぷり。三時間で頭が痛くなる、見栄えだけの香りだ。……今の王都の令嬢が、揃って同じ匂いなのは、揃って同じ、その手の香りをつけてるからさ」
ばっさりだった。
エリアナが目を丸くする。それから――くすり、と笑った。
「……素敵。こんなにはっきり仰る方、初めて」
「褒めても、まけないよ」
オルフェは卓を立ち、棚から小瓶をいくつか選び始めた。
「香りってのはね、嬢ちゃん。着るものじゃない。にじむものだ。その人の地の匂いに、ほんの少し足して、その人を、その人以上に見せる。……流行りを塗りたくるのは、香りじゃない。仮面だ」
仮面、という言葉に、扉の外のリオが少しだけ反応した。
◇
――その頃。
店から少し離れた路地の陰に、地味な外套の二人組が張り付いていた。
「……なあセナ。あれ、リオ、店に入ってなくね?」
「入り口で、突っ立ってるわね」
カイルが目を細める。
「なんで入らねえんだ? せっかく令嬢と来たのに」
「さあ。……でも」
セナは、外套のフードの下からじっとリオの背中を見ていた。
令嬢二人は店の中。リオは一人、扉の外。
その距離が、なんだかリオらしいと思った。この前の茶会も、たぶんそうだった。すごく近くにいるようで、いつも半歩、外にいる。
「……セナ?」
「なんでもない」
セナは外套の前を少しだけ握った。
「気になるのは……あの人が、どういう知り合いなのか、よ。リオが『腕のいい調香師』なんて知り合い、いつの間に作ったのかしら」
「言われてみりゃそうだな。あいつ、交友関係が謎だよな」
「そうよ。謎なのよ」
謎の多さは、この一年でうっすら気づいていることだった。
ただ、セナはそれを追及しないと決めている。
いつか、リオが自分から話す日まで。それまでは――半歩外にいる背中を、こうして時々見ているだけでいい。
「……で、なんで俺たちは尾行してるんだっけ」
「あなたが干し肉につられたからでしょう」
「お前が誘ったんだろ!?」
◇
店の中では香り選びが佳境に入っていた。
オルフェが調合した数種を令嬢たちが手首に試し、そのたびに窓の外のリオへ意見を求める。
「アルクスさん。これは、どう?」
クラリスが窓辺で手首をかざす。窓越しに、ふわりと香りが届いた。
リオは少し考えて正直に言った。
「……最初のより、いいと思います。最初のは、なんというか、匂いが、前に出すぎてました。それは、クラリスさんが後ろにいる感じがします」
「後ろに……」
「香りが主張しすぎないというか。……すみません、上手く言えないんですけど」
「いいえ」
オルフェの、低い声が店の奥から飛んだ。
「坊や。お前さん、香りは分からんが、人はよく見てるな。……今のは、正しい」
珍しく、褒めているようだった。
エリアナがそれを聞いて悪戯っぽく笑った。
「ねえ、アルクスさん。では、わたくしのは? 正直に、どうぞ」
窓辺で侯爵家の令嬢が、手首をかざす。
届いた香りに、リオは少し迷って――言った。
「……エリアナ様のは、強い香りだと、喧嘩する気がします。あなた自身が、もう、けっこう主張のある人なので。……もっと、静かな方が、引き立つと思います」
沈黙があった。
しまった、失礼だったか、とリオが思ったその時。
「――ぷっ」
エリアナが令嬢にあるまじき音で、噴き出した。
「主張のある人、ですって。ふふ、ふふふ。……ええ、ええ、その通りですわ。誰も、面と向かって言いませんけれど」
「……すみません」
「いいえ。最高の褒め言葉です」
オルフェがその様子を見て、口の端をほんの少しだけ上げた。切れ長の目が、面白がるように細くなる。
「……坊やの言う通りだ。嬢ちゃんには、これだ」
差し出されたのは、澄んだ静かな香りの一瓶だった。主張しない。けれど、そばにいると忘れられない。
エリアナはそれを手首に纏い、目を閉じて――
「……決めましたわ。これに」
満足そうに微笑んだ。
◇
支払いを済ませ、令嬢二人はほくほくと店を出た。
その別れ際、オルフェが扉の外のリオをもう一度だけ呼び止めた。
「坊や」
「はい」
「近ごろ、妙な香りが、王都に増えてる」
声は、令嬢たちには聞こえない程度に低かった。
「眠りを誘うやつ、正気を鈍らせるやつ。……素人が扱っちゃいけない類の花が、あちこちで焚かれてる。お前さんの親父さんにも、言っといてくれ。――香りで人を眠らせる技には、必ず、それを研究した誰かがいる、とね」
「……その言い方、親父みたいで、嫌なんですけど」
「あら。あたしが姉さんの方がよかったかい」
軽口の下で、その一言の重さは令嬢たちの香りの相談とはまるで別の次元にあった。
「……伝えておきます」
「ああ。……それと、坊や」
オルフェは扉を閉める間際に付け足した。
「たまには、煙にも、慣れな。……お前さんが煙を嫌うのは、鼻のせいじゃないだろう」
扉が閉まった。
リオはその言葉の意味を少し考えて――やめておいた。
考えると、白く囲まれるあの感じを思い出しそうな気がしたからだ。
◇
「楽しかったですわ!」と上機嫌のエリアナと、ほっとした顔のクラリスを送り、リオは一人、裏通りを歩いて帰った。
角を曲がったところで。
物陰から、聞き覚えのある声がこそこそと聞こえてきた。
「だから、こっちだって! 見つかるだろ!」
「しっ。静かにしなさい、カイル。……あ」
目が合った。
地味な外套を着た栗色の髪の少女と、干し肉をくわえた大男が、路地の陰で見事に固まっていた。
「…………」
「…………」
リオはしばらく二人を眺めて、それから静かに言った。
「……セナ。カイル。何してるんだ、そんなところで」
「さ、散歩よ!」
「奇遇だな!」
息の合った二人だった。
バレバレの尾行を、責める気にもならない。むしろ、丸一日令嬢二人の香り選びで気を張った後では、この見慣れた二人の顔に少しだけほっとした。
「……疲れた顔してるわね」
セナが、外套のフードを下ろしながら言った。じっと、こちらの顔を見る。
「令嬢さんの相手、大変だったんでしょう。……ほら」
彼女は通りかかった屋台の焼き菓子を三つ買って、その一つをひょいとリオに押し付けた。
「え」
「いいから。あなた、どうせお金、あんまり持ってないんだから。……たまには、奢られなさい」
苦学生の懐事情まで、この人には見透かされている。
受け取った焼き菓子は、まだほんのり温かかった。
「……いただきます」
「うん」
セナは隣で自分の分を齧りながら、時々探るようにこちらを見て――何も聞かなかった。
カイルは自分の一つを一口で食べ終えて、「もう一個ないのか」とセナに睨まれていた。
リオも、何も言わなかった。
その沈黙は、むしろ心地のいいものだった。
温かい焼き菓子と、見慣れた二人の顔。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
【登場人物メモ】
オルフェ・アシュレイ……十三番窓口の調香師。「灰の魔女」の二つ名を持つ。香りで人を惑わす技の玄人。
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