第29話 祭りの夜に(中編)
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祭りの夜、動きます。
異変に最初に気づいたのは、人間ではなかった。
夜の獣舎の柵の上で、ノルが立ち上がったのである。
月色の目がまっすぐに一点を見ている。祭りの光の外れ――協賛倉庫の方角だった。全身の毛が、夜の色のまま静かに逆立っていく。
「ノル?」
セナが気づくより早く、リオは膝をつき、細い触れ糸をそっと当てていた。
――どうした。
――音。あの建物。
夜目の獣の感覚が、糸越しに流れ込んでくる。
――箱の中で、何かが、数を数えてる。
数を数えている。
かち、かち、と規則正しく刻まれる小さな小さな術式の駆動音。人間の耳には決して届かない起動の秒読みの音を、夜の耳は拾っていた。
耳のいい子の言うことを、よく聞いてあげてください。
夕方の司書の言葉が、背中を撫でた。
「セナ。ちょっと、見回りに行ってくる。ノルが気にしてる方向だけ、確かめたい」
「え、ええ。……気をつけて」
リオは獣舎を出ると、まず手近な屋根の鳩に糸を触れさせた。
――窓口の大きい人へ。協賛倉庫、箱が起きた。急ぎ。
鳩が夜空へ消えるのを見届けて、リオは走りながらもう一本糸を飛ばした。
屋根の上の猫に言伝を一つ。
――図書館の、白い手袋の先生へ。倉庫で、まずいものが起きてます。
学園で手に負えないことが起きたら、警備より先に白紙先生を呼べ。それが、グラントから言い渡されている決まりだった。
先生が、窓口の九番であることは聞いている。
ただ、九つ目の番号が、どんな「普通ではないもの」に与えられた番号なのかは――聞いても、はぐらかされて、教えてもらえたことがない。
祭りの光と楽の音が、背中で遠くなっていく。
◇
協賛倉庫の扉は、施錠されたままだった。
錠に異常はない。人の出入りの形跡もない。それなのに、扉の隙間からうっすらと光が漏れていた。
青白い、脈打つような光である。
リオは警備詰所の方角を一度見て――やめた。呼びに走る時間が、あるかどうか分からない。錠は、リッツ仕込みの腕でどうにかなる類のものだった。
夜中に人の倉庫の錠を静かに開ける学生というのも、我ながらどうかと思う。思うが非常時である。今夜だけは師匠に感謝しておく。
開けた倉庫の中、樽と木箱の山の一番奥でそれは光っていた。
雨天用天幕・予備、の木箱。
蓋の隙間から漏れる青白い光が、脈のたびに強くなっていく。数を数える駆動音は、もうリオの耳にも聞こえた。かちかちかちかち、と、間隔を詰めながら。
どうする。
開けるか。触るか。運び出すか。
どれも悪手の匂いがした。テッサなら中身を読めるだろうが、呼びに行く時間が――
「――下がりなさい、リオ君」
声はすぐ後ろからした。
振り返ると、白い手袋の司書がいつの間にかそこに立っていた。息も乱れていない。足音もしなかった。
「せ、先生……いつから」
「ついさっき。良い判断でしたよ、リオ君。……猫の言伝、確かに受け取りました」
白紙先生。
学園の臨時司書にして、その実は十三番窓口の九番――ナンバーズの一人である。
表の顔は、本の場所を何でも知っている少し変わった便利な司書。裏の顔をリオはまだほとんど知らない。九つ目の番号が何に対して与えられたのかを、リオは今夜初めて見ることになる。
白紙先生は静かに木箱の前へ進み出ると、手袋を指先から順に外した。
その細い指が宙を撫でると、どこからともなく白い紙が数枚、蝶のように舞って木箱の蓋の釘を音もなく抜き取っていく。
蓋が開いた。
中にあったのは、黒い金属の芯だった。
大人の腕ほどの、捻れた柱のような塊。その表面をびっしりと刻まれた術式が這い回り、青白い光の渦が芯を中心にゆっくりと膨らみ始めている。
空気が軋んだ。
渦の縁に触れた木箱の縁が、音もなく輪郭から順に消えていく。燃えるのでも、溶けるのでもなく、ただ無くなっていく。
「……これは」
「行儀の悪い、本のようなものです」
白紙先生の声は、いつもの図書館の声のままだった。
「大昔の誰かが、消える、ということを研究して、道具の形に書き残した。それを今の誰かが掘り出して、写して、量を増やした。……書かれている内容が、酷い」
渦が、また一回り膨らんだ。
倉庫の壁が軋む。この渦が倉庫を越えて広がれば――祭りの光の中心まで何百歩もない。
一夜で消えた森の話が、頭をよぎった。
「先生、逃げ――」
「リオ君」
司書は振り返らなかった。
「本の話を、一つだけ。……書かれたものは、どれほど酷い内容でも、白紙には戻せます。インクが乾いていようと、写しが何枚あろうと。……戻し方を知ってさえ、いれば」
素手の指先が、膨らむ渦へすっと差し入れられた。
「――白紙に、戻しましょう」
瞬間。
世界から、音が消えた。
光の渦が、外側から内側へ頁をめくるように畳まれていく。渦も、光も、軋む空気も、術式の駆動音も、順番に静かに、無くなっていく。爆発が起きたのではない。爆発という出来事そのものが、そこから消えていった。
最後に、芯の表面を這っていた術式の刻印が一行ずつ、書かれた順を遡るように薄れて、すうと消えて――
後には何の変哲もない灰色の金属の棒が一本、木箱の中に転がっているだけだった。
リオの胸の奥が、すうすうした。
恐ろしいものを見た時の寒気とは、少し違う。そこにあったはずのものが無くなった場所に立った時の、あの空白の感触だった。
祭りの楽の音が、遠くからまた聞こえ始める。
音はずっと鳴っていたのだろう。消えていたのは、ここの音だけだったのだ。
「…………」
リオは声が出なかった。
なかったことにしたのである。あれだけの魔力の渦を丸ごと。
「……誤解のないように言っておきますが」
白紙先生は、手袋を嵌め直しながら言った。
「私が戻せるのは、書かれたものだけです。術式のように、紙に書かれた出来事。人の体や、もう壊れてしまったものは、戻せません。それに、消した分だけ、私の頁も減ります。……今夜の分は、小さな頁で済みそうですが」
白紙先生は灰色の棒を見下ろして――ふ、と小さく呟いた。
「……ああ。また、少し消えましたね」
「え?」
「いえ。なんでも、ありません」
司書はいつもの調子で首を傾げた。
「ところで、リオ君。……私は今日、何か、食べましたか」
「……カイルの屋台の、串焼きを。夕方、俺が差し入れました」
「そうですか。串焼き」
白紙先生は少しだけ遠い目をした。
「……おいしかったですか、それは」
あなたが食べたんです、とは言えなかった。
頁が減る、というのがそういうことなのだとしたら――この人は今までいったい、どれだけのものを。
番号持ちというものが何なのか、リオは初めて背中で理解した気がした。腕でも技でもなく、何か一つ、普通ではないもの。その、値段のことだ。
それ以上聞いてはいけない気がして、リオは黙って頷いた。
「おいしかったです」
「それは、よかった」
司書は満足そうに微笑んで、白い紙で灰色の棒を包み始めた。慣れた、丁寧な手つきだった。
「これは窓口の預かり品にします。倉庫の件は、ランタンの油がこぼれかけた、ということで処理しておきましょう。……あなたは、獣舎へお戻りなさい。祭りは、まだ途中ですよ」
その時だった。
夜空にぱんと大輪の花が開いた。
閉幕の花火である。歓声が祭りの中心から上がる。
そして、花火の音に紛れて――一羽の鳩が倉庫の窓枠に舞い降りた。
リオは嫌な予感とともに、糸を触れさせた。
――窓口の大きい人から。
鳩の運んできた言伝は、短かった。
――保管庫が、襲われてる。覆面を持って、来い。
「……先生」
「ええ」
白紙先生は包み終えた棒を抱えて静かに頷いた。
「こちらは、私が。学園は、今夜はもう、静かです。……行ってらっしゃい、リオ君」
リオは獣舎へ走った。
裏手に隠した鞄を掴み上げたところで、柵の向こうからセナの声がした。
「リオ? 倉庫の方、どうだった――」
「なんでもなかった。ランタンの油がこぼれかけてただけ。……ごめん、それと」
リオは鞄を背負い直した。
「ちょっと、呼ばれた。行かないと」
セナは、鞄とリオの顔を順に見た。
こんな時間に誰にどこへ。聞かれて当然の場面だった。
けれど、セナは何も聞かなかった。
「……朝までには、戻る?」
「戻る」
「そう。……行ってらっしゃい。気をつけて」
フワが柵の上から、ぴょこと一度だけ跳ねた。
聞かないでいてくれることの重さを、背中に一つ増やしてリオは走り出した。
覆面を掴み出す。
頭上では二発目の花火が開き、祭りは最後の頂点で輝いていた。
その光に背を向けてリオは夜へ走った。
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