第4話 うちの子たち(後編)
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第4話の後編です。
裏手の獣舎は、近づくとさらに大きかった。
壁は他の二棟の倍は厚く、戸には閂が二本かかっている。ロディスは閂を外しながら、順を追って話した。
「食いが落ちたのが、十日くらい前だ。気が立ち始めたのが五日前。夕方が一番ひどい」
「病気の心当たりは」
「胃腸だと思った。餌を残すし、腹の音も変だったからな。薬草湯を餌に混ぜてる。ちなみにもう一体の中型は、ギルドの厩舎に預けっぱなしだ。こいつと一緒にはしておけん」
ロディスはそこで言葉を切り、少しだけ声を落とした。
「……正直に言うとな。薬をやり始めてから、余計にひどくなってる気がする」
戸が開いた。
中は広い土間で、奥の半分が太い木柵で囲われている。柵の中に、岩があった。
いや、岩に見えた。
薄暗がりの中でそれが身じろぎすると、背中と肩を覆う甲殻が鈍く光った。体高はリオの倍近い。鎧殻熊。名はゼグというらしい。
「でっけえ……」
カイルの声が、珍しく小さかった。セナも無言で半歩下がる。
リオは、柵から距離を取ったまま観察した。
毛艶は悪くない。痩せてもいない。ただ、目が血走っていて、落ち着きなく頭を振る。数拍おきに、右の後ろ足が右耳の付け根を掻いた。
「……ロディスさん。あいつ、頭をよく振りますか」
「ああ、振る。ここ数日は特にな」
「右耳を掻くのは」
「…………そういえば、右ばかりだな」
ロディスの眉が寄った。
「言われるまで、数に入れてなかった。癇癪の一部だと思ってた」
「たぶん、逆です。癇癪の方が一部です」
「……どういう意味だ」
「もう一つだけ。ここ半月くらいで、遠出の仕事は」
「あったが……二十日前に、沼地の隊商護衛を三日ほど。それがどうした」
「いえ。だいたい分かりました」
「おい、何がだ」
リオが答えるより先に、ロディスは餌桶を持ち上げていた。川魚と芋。その上に、薬草湯が回しかけてある。ツンとした匂いが、離れていても分かった。
「まず食わせる。話はそれからだ」
ロディスが給餌口へ歩き出す。
その瞬間だった。
ゼグが、爆ぜた。
◇
地響きと一緒に、木柵が軋んだ。
巨体が柵に肩からぶつかり、太い横木がミシリと嫌な音を立てる。二度、三度。土間の砂埃が舞い、吊り灯りが揺れた。
「ゼグ!」
ロディスの声が飛ぶ。届いていない。
そして、リオは見つけてしまった。
柵のすぐ外、横木の陰。白い尾の先が、震えている。
「スズ!?」
セナの悲鳴が裏返った。
鈴尾鼬が一匹、いつの間にか付いてきて、入り込んでいたのだ。巨体が暴れるたびに木片が飛ぶ、その真下で、小さな体が恐怖に固まっている。
「ゼグ! 伏せろ! ――駄目だ、通らねえ……!」
ロディスは柵の前で歯を食いしばっていた。片手が胸の前で握られている。声と、それから契約の糸。両方で呼んで、両方とも弾かれている。
「くそ、俺が中に入って引きつける! 剣、剣は――」
「カイルは駄目!」
腰の得物に手をやったカイルの襟首を、セナが掴んだ。
「剣でどうするのよ、あの甲殻に刃が立つわけないでしょう!」
「じゃあスズはどうすんだよ!」
恐怖は、契約を上回る。
それは知っていた。この前の鎧角牛と、同じだ。
だが――違う。
リオは、暴れる巨体の動きを目で追った。
突進の線が、人に向いていない。全部、壁だ。柵に当たっているのは、壁へ行こうとして曲がりきれていないだけ。あれは攻撃ではない。逃げようとしている。外へ、ではない。
自分の頭の中から、だ。
リオは、歩き出していた。
「リオ!?」
セナの声を背中で聞く。
走らない。走れば、動くものになる。今のゼグにとって、速く動くものは全部、頭の中の音の仲間だ。
物陰から物陰へ、風下へ。巨体の視界の縁を、ただの景色のように移動する。息を落とす。靴音を殺す。三歩進んで、止まる。巨体が柵に当たり、木片が頬の横を掠めて飛んだ。リオは目だけでそれを見送り、また三歩進んだ。
スズの震えている横木の陰に、リオの影が落ちた。
それだけで十分だった。小さな体が弾かれたように跳ね、リオの襟の中に飛び込んでくる。安全な物陰。彼らにとって、リオはずっとそれだった。
リオは後ろへ下がり、襟ごとスズをセナへ渡した。
「――で、ロディスさん」
「……っ、なんだ!」
「今も契約で呼んでますよね」
「当たり前だ!」
「やめてください」
ロディスが、一瞬だけこちらを見た。
「契約の声は、頭の中で鳴るんですよね。あいつが今一番参ってるのが、その、頭の中の音なんです」
「――なに?」
「呼ぶほど暴れます。声も張らないでください。それと、柵の右側から皆離れてください。空けるんです」
「おい、待て。空けたらあいつ、右の壁に――」
「行かせるんです」
ロディスは、二秒迷った。
柵がまた軋んだ。横木が一本、半ばまで裂けた。
「……分かった! 全員、右から離れろ!」
人が退く。灯りが遠のく。呼ぶ声が、止む。
ゼグの突進が、一度、空を切った。
誰もいない右側の空間。冷えた石壁と、水桶。巨体はそこへ倒れ込むように頭を突っ込み――右耳を、石壁の角にぐりぐりと押し付け始めた。
昼間、壁越しに聞いたのと同じ音だった。
荒い呼吸が、少しずつ、少しずつ、間遠になっていく。
土間が、静かになっていった。
柵の軋みが止み、砂埃が下り、吊り灯りの揺れが収まる。誰も、何も言わなかった。カイルは剣の柄に手を掛けたまま固まり、セナは襟元のスズを両手で包んだまま、さっきまで暴れていた巨体と、その手前に立つ級友の背中とを、何度も見比べていた。
リオは柵の外から、その巨体をただ眺めていた。何も命じない。何も遮らない。頭を擦りたいだけ擦らせる。
やがてゼグは擦るのをやめ、壁際にどさりと座り込んで、動かなくなった。
疲れ果てた、大きな置物みたいに。
◇
「……何が、起きてる」
ロディスの声は、掠れていた。
「右耳の奥に、虫がいます。たぶん耳潜りです」
「耳潜り……聞いたことはある。だが、あれは沼地の――」
言いかけて、ロディスは止まった。
「…………二十日前」
「たぶん、それです。護衛の間に潜られて、育つのに十日。食いが落ちた時期と合います」
「だから遠出のことを聞いたのか」
「はい。潜られると、耳の奥で夜通し動くんです。痛くはない。ただ、音が、ずっと止まらない」
リオは、さっきまでゼグが頭を擦り付けていた壁を指した。
「頭を擦るのも、餌を食わないのも、それです。噛む音が頭に響くから、食べたくない。それから――薬草湯。体が温まると、虫は動きが速くなります」
「……薬をやるたびに、ひどくなったわけだ」
ロディスは、額に手を当てた。
「夕方に荒れるのは」
「日が落ちると動く虫なので。給餌の時間と、たまたま重なってただけです」
「腹の音がおかしかったのは!」
「何日もまともに食べてなければ、腹も鳴ります」
「…………」
ロディスは天井を仰ぎ、盛大に息を吐いた。それは、プロが自分の誤診を呑み込む音だった。
「で――どうする。出せるのか、それは」
「人肌の油を数滴、耳に垂らせば出てきます。息ができなくなるので」
「油」
「台所にあるやつでいいです」
「カイル!」
振り向いたロディスに、カイルは既に駆け出していた。
「油だな! 人肌! 任せろ!」
「あの子、こういう時は本当に頼りになるのよね……」
セナが、襟元のスズを抱えたまま呟いた。
油はすぐに届いた。ついでに、騒ぎを聞きつけたセナの母が、布と湯を抱えて付いてきた。あらあらまあまあ、と言いながら、その足取りに動揺はない。魔物を飼う家の母親だった。
「ロディスさんが入ってください。あいつの主なので」
「……今ので、俺の言うことを聞くか?」
「聞きます。もう呼ばないでいてくれた人なので」
ロディスは柵の戸を開け、ゆっくりと中に入った。
ゼグは動かなかった。ただ、疲れ切った目だけがロディスを追う。ロディスは巨体の脇に膝をつき、リオの声に従って、右耳のふちを起こし、温めた油を垂らした。
一滴。二滴。
ゼグの耳が、ぴくりと跳ねた。
三滴目で――耳の奥から、白いものが転がり出た。
指の節ほどの、白い虫。布の上でもぞりと動いたそれを、セナの母が手早く包んで土間の外へ持っていった。
ゼグが、息を吐いた。
体の底が抜けたような、長い長い息だった。甲殻に覆われた巨体から力が抜けて、土間にずるりと沈む。
「……終わり、ですか」
「終わりです。二、三日は寝ると思います。十日ぶりに静かになったので」
と、リオが言い終わらないうちに、ゼグの鼻がひくりと動いた。
巨体がのそりと首を伸ばす。向かった先は、土間の隅に置きっぱなしだった餌桶――ではなく、その横の、薬草湯のかかっていない川魚の籠だった。
ばくり、と一尾消えた。
ばくり、ばくり。
「……食ってる」
ロディスの声が、変な具合に裏返った。
「おい、食ってるぞ。十日ぶりに、まともに」
「噛む音が、もう響かないので」
「そうか。……そうか」
ロディスは、それきり黙って、自分の獣が魚を平らげるのを見ていた。籠が空になる頃には、その口元が少しだけ緩んでいた。
やがてロディスは柵の外へ出て――足を止めた。
ゼグが、起き上がっていた。
のそり、のそりと柵に近づく。ロディスの前を、通り過ぎる。
そして、柵越しにリオの正面で足を止めると、その大きな頭を低く、低く下げて――喉を、見せた。
沈黙が落ちた。
「……なあ、これ」
カイルが、小声で言った。
「懐いたってこと?」
「…………」
セナは答えなかった。答えられずにいた。
「セナ?」
「……契約獣は」
声が、少し震えていた。
「契約獣は、契約主以外に喉を見せないの。教本の一行目に書いてあるのよ。……絶対に、見せないって」
「……おい、嘘だろ」
ロディスの声は、それだけだった。
リオは、目の前の大きな喉を見上げ、それから柵の隙間から手を入れて、顎の下を一度だけ撫でた。
「どうも」
ゼグの長い舌が、返事のようにリオの頭を舐めた。
寝癖が、増えた。
「ずるいぞ、俺も撫でたい」
「カイルはやめておきなさい。ゼグ、あなたのことはまだ覚えてないから」
「なんでだよ! 油持ってきたの俺だぞ!」
◇
門を出る頃には、日はほとんど落ちていた。
週明けの授業があるからと一緒に王都へ戻るセナと、その母の持たせた包み(干し果物のお返しらしい焼き菓子)と、なぜか門まで付いてきたロディスとで、見送りは賑やかだった。
「おい、リオ」
ロディスが、思い出したように言った。
「お前、どこでテイムを習った?」
「バイト先で……」
「バイトぉ?」
ロディスは二秒ほど黙り、それから、噴き出した。
「あっはっはっは! そうか、バイトか!」
「笑うところですか」
「いや、いい。聞いた俺が馬鹿だった」
ロディスはリオの肩を一度だけ、強く叩いた。
「またこい。菓子くらいは出す」
それから、妹の方へ顔を向けて、ぶっきらぼうに付け足した。
「セナ。耳長のやつ、今夜ゼグの小屋に置いてってくれ。……夜中に何かあったら、分かるようにしたい」
「あら」
セナの口の端が、ゆっくり持ち上がった。
「小型にも、できる仕事があるのねえ?」
「…………今日は言い返さねえよ」
背を向けて歩き出す直前、ロディスが何かを呟いた。
風に紛れるくらいの、小さな声だった。
「――落ちこぼれだと思ったが。……俺も、まだまだだな」
リオの耳は、それを拾ってしまった。
拾ってしまったが、聞こえなかったことにした。説明が面倒だからではなく、なんとなく、そうするのが正しい気がしたからだ。
◇
帰り道、街道の半ばで、リオの鞄が動いた。
「…………おい」
鞄の口から、白い尾の先が覗いていた。
「スズ!? あなた、また!」
セナの絶叫が、夕暮れの街道に響いた。結局、三人でラティス家まで引き返すことになり、門でロディスに「早速また来たな」と笑われ、王都に着く頃には、空はすっかり暗くなっていた。
「お前、ほんとに好かれてんなあ」
別れ際、カイルはまだ笑っていた。
カイルが先に角を曲がり、二人になったところで、セナがぽつりと言った。
「ねえ、リオ」
「なんだ」
「今日も、契約はしなかったのよね」
「してない」
「……そうよね。ずっと見てたもの」
それきり、セナは何も聞かなかった。
ただ、別れ際に「おやすみなさい」と言った声は、いつもより少しだけ、丁寧だった。
眠り鹿の宿に戻ると、マルタが盆を持ったまま、リオの頭を二度見した。
「あんた、その頭どうしたの」
「熊に舐められました」
「はいはい。おかしなこと言ってないで、スープが冷める前にお食べ」
温かいスープを飲みながら、リオは今日一日を、ぼんやりと思い返した。
騒がしい庭。喧嘩する兄妹。はいはい、と笑う母親。柵越しの、大きな喉。
いい家だった。
……羨ましい、と、もう一度だけ思った。
それから、考えるのをやめた。
眠かったからだ。
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