第4話 うちの子たち(前編)
その日、リオは一限が始まる前に学園にいた。
自主的な早起きではない。
昨日の放課後、図書館で白紙先生から「明日の補講、朝から来てください」と釘を刺されたのだ。静かな声だったが、逆らえる種類の声ではなかった。
もっと寝ていたかった。
だが、あの司書に逆らって良いことがあった記憶もない。
補講用の小教室には、リオの他に三人の生徒がいた。全員、互いに目を合わせないよう俯いている。補講とは、だいたいそういう場所だ。
教壇の契約術教師は、出席簿ではなく分厚い記録簿を開いていた。
「アルクス」
「はい」
「君、相変わらず魔物を連れていないな」
「はい」
「テイム術の推薦生だろう。それでいいのか」
「よくはないと思います」
「他人事のように言うな」
教師は記録簿を閉じ、深く息を吐いた。
「座学の成績は悪くない。眠っている割にな。だが、実技で見せるものがないと、学期末の評価でこちらが説明に困る。考査までに、一度くらい契約する姿を見せなさい」
「善処します」
「その返事で善処された記憶がない」
補講そのものは、座学の復習で終わった。
リオは最後まで起きていた。
半分くらいは。
◇
昼の食堂で、カイルが机に身を乗り出してきた。
「で、いつ行くんだ? セナの家」
「今週末でどうかしら。父さんは仕事だけど、母さんはいるし」
「よし週末な。手土産は干し果物の砂糖漬けだったよな」
「逆よ。砂糖漬けは駄目だって言ったの」
「あれ、そうだっけ」
「香りの強いものも駄目。小さい子は鼻がいいから」
「つまり、砂糖漬けで匂いの強いやつが一番喜ばれるってことか」
「全部逆! どうしてそうなるの」
「悪い。途中から昼飯のことを考えてた」
セナは頭を抱えた。
リオは、その隙に静かに席を立とうとした。
「リオ」
肩を掴まれた。振り向くと、セナがじっとこちらを見ている。
「どこへ行くの」
「昼寝の下見に」
「週末、空けておいてね。あなたが来ないと意味がないんだから」
「なんで俺が基準なんだ」
「うちの子たちを見てほしいって言ったの、忘れたの?」
「覚えてる。覚えてるが、週末は寝る予定が」
「そう。じゃあ仕方ないわね。今度の契約術の課題、一人で頑張って」
「…………何時に行けばいい」
「話が早くて助かるわ」
◇
週末。
ラティス家は、王都の南門を出て半刻ほど歩いた街道沿いにあった。
白い柵に囲まれた敷地は広く、母屋の横には木造の獣舎が二棟並んでいる。庭には丈の低い草が敷かれ、日当たりのいい場所に水場と砂場が作られていた。魔物を飼う家の庭だ。それも、丁寧に飼っている家の。
「でっけえ家だなあ」
カイルが感心した声を上げた。その腕には布袋がひとつ抱えられている。ひとつ、と数えていいのか迷う大きさだった。
「カイル。それ、何」
「干し果物。言われた通り、砂糖漬けじゃないやつな」
「どうして樽みたいな量なの」
「まとめて買うと安かった」
「小型魔物が十匹いたって食べきれないわよ……」
「あ、今、十匹って認めたな」
「…………」
セナは無言で門を開けた。
その瞬間だった。
庭の奥の草むらから、小さな影がひとつ飛び出してきた。細長い体に、先端が白い尾。影は一直線に駆けてきて――セナの前を素通りし、リオの足元でぴたりと止まった。
「おい」
リオが見下ろすと、鼬に似た小さな魔物は前足を揃えて座り、こちらを見上げた。
続いて草むらから、そっくりな二匹目。獣舎の窓枠に丸い鳥が一羽。縁側の下からは、甲羅に苔をのせた亀がのそりと顔を出す。
全部、リオの方へ来る。
「……なんでだ」
「こっちが聞きたいわよ」
セナの声は、半分呆れて、半分尖っていた。
「この子たち、初めての人には近づかないの。カイルなんて、ほら、まだ警戒されてる」
「え、俺?」
カイルが一歩踏み出すと、鼬の魔物がさっとリオの後ろに回った。リオを盾にしている。
「なんで俺が怖くてリオは平気なんだよ。手土産持ってるの俺だぞ」
「知らん」
リオは本当に知らなかった。
何かした覚えはない。初めての場所ではいつも通りにしていただけだ。急に動かない。正面から見続けない。相手の逃げ道に立たない。息を静かにする。
それだけのことなのだが、口で説明するとだいたい面倒なことになるので、黙っておいた。
「あらあら、まあまあ」
母屋の戸口から、柔らかい声がした。
セナの母だった。娘と同じ栗色の髪をゆったりとまとめ、エプロンで手を拭きながら目を細めている。
「いらっしゃい、セナのお友達ね。あらまあ、この子たちがもう懐いて……珍しいこと」
「母さん、珍しいどころじゃないのよ、これ」
「いいじゃないの。さ、お入りなさいな。お茶を淹れるわ」
◇
庭で手土産の袋を下ろしていると、門の方から足音がした。
背の高い男が入ってくる。年は二十を少し過ぎたくらいだろうか。日に焼けた顔に、セナと同じ栗色の髪。革の上下は旅装に近く、肩口と前腕には古い引っかき傷の跡がいくつも残っていた。魔物相手の仕事をしている人間の体だ。
「兄さん。今日、現場じゃなかったの」
「書類の日だ。ギルドに顔だけ出してきた」
男はそう答えながら、客の二人を見た。
ロディス・ラティス。セナの兄で、ギルド所属の職業テイマーだと、道すがら聞いていた。
ロディスの視線が、まずカイルに向く。上から下まで、値踏みするように一往復した。
「剣術科か。いい肩してるな」
「っす!」
カイルの返事はやたら良い。
視線がリオへ移った。同じように一往復して、少しだけ止まる。
「お前も剣か?」
「いえ、テイマーです」
「ん?」
ロディスの目が、無意識にリオの足元と肩を探した。従魔の姿を探す目だ。テイマー同士なら、名乗りより先にやる。
「契約量は? なんで連れてないんだ」
「一体しか契約できない体質なので。それも、ずっと繋ぎっぱなしだと疲れるんです。……お互いに」
「……一体?」
ロディスは何か言いかけて、やめた。代わりにセナを見る。
「学園ってのは、そういうのも推薦で入れるのか」
「兄さん」
「事実確認だ」
「確認の仕方に問題があるの」
セナが低い声を出したが、リオは特に気にしていなかった。慣れている。学園でも、似たような目は何度も向けられた。
それより、横でカイルが首をかしげている方が気になった。
「なあ、さっきから出てる契約量って何だ? 匹数と違うのか」
「換算値よ」
セナが答えた。
「小型が一、中型が三、大型が十。テイマーの腕を測る時は、匹数じゃなくて契約量で数えるの。大型一体は小型十匹分。大型一は小型十、って言い方をするわ」
「じゃあセナは?」
「小型十匹だから、十」
「セナの兄さんは?」
カイルの遠慮のなさに、ロディスは気を悪くするでもなく答えた。
「大型一と中型一で、十三だ」
言いながら、ロディスは指を三本立てた。
「ギルドで食っていくなら、まず三。十を超えれば一流の入り口だな。学園が推薦状を書くのも、だいたいそのあたりからだ」
「え、じゃあセナって超すげえじゃん」
「数字だけならな」
ロディスの言い方に、セナの眉がぴくりと動いた。
カイルは気づかず、指を折って数えている。
「で、リオは一体だから……一?」
「今はゼロです。契約してないので」
「ゼロかあ」
カイルは特に悪気なく笑った。
「お前、ほんとに何しに学園来てるんだろうな」
「俺もたまに分からなくなる」
「そこは否定しろよ」
ロディスだけが、笑わなかった。
一体、と小さく繰り返して、リオをもう一度見る。もう値踏みの目ではなかった。強いて言えば、治らない古傷の話を聞いた時の顔だった。
「……そりゃ、きついな」
「慣れてます」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
ロディスは「獣舎を開けてくる」と言い残し、先に歩いていった。
その背中が十分に離れてから、セナが口を開いた。彼女は、まったく別のところに引っかかっていたらしい。
「ねえ。一体しか契約できないって、私、初めて聞いたんだけど」
「言ってなかったか」
「聞いてないわよ。同じ契約術系なのに」
「聞かれなかったからな」
「今、聞いてるの」
セナはリオの正面に回り込んだ。逃がさない位置だった。
「……その、生まれつき?」
「昔、いろいろあってからだ。それ以来、何をやっても二本目の糸が伸びない」
「いろいろ、って」
「いろいろは、いろいろだ」
セナは口を開きかけて、閉じた。
いつもの言い訳と、少しだけ声が違うことに気づいたのだろう。
「……ごめんなさい。聞きすぎたわ」
「別にいい。ただ、学園では言いふらすな。説明が面倒だから」
「言わないわ。――カイルも」
「え、俺も内緒にされる側? もう聞いちゃったけど」
「あなたも黙ってなさい、の意味よ!」
「ああ、そっちか。おう、任せろ」
◇
獣舎の中は、外から見るより明るかった。
高い位置に窓が並び、風の通り道が作ってある。仕切りごとに寝床の素材が違い、水場の高さも一匹ずつ変えてあった。手間のかかった獣舎だ。それも、正しい手間の。
「じゃあ、紹介するわね」
セナの声が一段弾んだ。
「鈴尾鼬のリンとスズ。伝令と警報の担当よ。道順を覚えたら、王都の端まで往復できるの。それから苔背亀のゴウ。地面の振動で人の出入りを覚えてくれる、留守番の要。綿羽鳥のフワは体温が高いから、具合の悪い子の添い寝が上手で……」
紹介は続いた。
一匹ごとに名前と役目、ついでに好物と寝相の癖まで付いてくる。
カイルは途中から、指を折るのを諦めていた。
「……なあ。十匹って言ってたよな。今ので十二匹目じゃね?」
「リンとスズを、あなたが二回ずつ数えたのよ」
「見分けつかねえよ」
「尾の鈴模様が違うでしょう」
「分かるか!」
リオは仕切りの中を、順に眺めていた。
どの魔物も毛艶がいい。目に濁りがない。人が通っても、寝床の奥へ逃げ込まない。数を揃えるだけの飼い方では、こうはならない。
「大したもんだ」
ロディスが言った。本心らしい声だった。
「世話の質だけなら、ギルドの厩舎より上かもな」
「でしょう」
「で、次は中型だな」
空気が、一段冷えた。
「……また、その話」
「またも何も、前から言ってるだろ。管理の腕はもう十分だ。なら次は質を上げろ。護衛依頼で客が最初に見るのは頭数じゃない、でかさだ。中型が一体いるだけで、受けられる仕事の幅が変わる。小型を十匹並べても、看板にはならん」
「小型にしかできない仕事だってあるわ」
「あるさ。で、その仕事の依頼料はいくらだ」
ロディスの言い方は、意地悪ではなかった。
それが余計にまずかった。ただの事実として言われた正論は、ただの事実として腹が立つ。
セナが、息を吸った。
まずい、とリオは思った。
この吸い方は知っている。授業モードだ。
「索敵。伝令。罠の感知。毒の検知。病人の見守り。行方不明者の追跡。崩れた坑道の探索。全部、小型にしかできない仕事よ。先月ギルドが受けた坑道の生き埋め、最初に生存者を見つけたのは誰かの大型だった? 違うでしょう、鼻の利く小型よ。伝令だってそう。一番撃ち落とされにくいのは小さくて速い子。それに、そもそも大型一体の維持費で小型が何匹養えると思って――」
止まらない。
内容は正しい。たぶん、全部正しい。
だが、セナの母がお茶の盆を持ったまま戸口で固まり、カイルは瞬きを繰り返し、当のロディスは腕を組んで「終わるのを待つ」姿勢に入っていた。
正しさが、誰にも届いていなかった。
「……よく分かんねえけどさ」
盆が下ろされるより先に、カイルが口を開いた。
「セナの十匹、俺には兄さんの大型一体より面白そうに見えるけどな。だってさっきから聞いてると、全員ちゃんと仕事してんだろ? 団体戦じゃん。かっけえよ」
「面白さで飯は食えん」
「飯かあ。……なあ、そろそろお茶って言ってなかったか?」
「あなた、どうして今その話ができるの!?」
「腹が減ったから」
セナは怒ればいいのか笑えばいいのか分からない顔になり、結局、深いため息と一緒に肩を落とした。
「……お茶にしましょう。母さん、ごめんなさい。お盆、ありがとう」
「ふふ。賑やかでいいわねえ」
◇
縁側での茶は、静かにはならなかった。
樽級の干し果物は小分けにされ、小型たちへ一粒ずつ配られた。配る係は、なぜかリオだった。魔物たちがリオの周りから動かないので、そうするしかなかったのだ。
セナとロディスは、まだ小声で言い合っている。中型がどうの、看板がどうの。母親が時々「はいはい」と口を挟み、そのたびに二人は数秒だけ黙り、また始める。
膝の上では耳長魔物が丸くなり、足元では苔背亀が、甲羅を撫でろと言わんばかりに寄ってきていた。
リオは湯呑みを持ったまま、その全部をぼんやりと眺めた。
それから、口が勝手に動いた。
「いい家ですね」
「今の見てて言ってる!?」
セナが振り向く。
「兄と喧嘩してるところしか見せてないんだけど」
「うん」
リオは頷いた。
「羨ましい」
天気の話と、同じ声だった。
セナが、言葉を切った。
カイルも、干し果物の袋へ伸ばした手を止めた。
二人とも、リオが宿屋に一人で住んでいることは知っている。夜のアルバイトのことも、朝帰りのことも。そして、リオが家族の話をしたことが一度もないことも。
沈黙が、二拍。
「……なんだ?」
当のリオだけが、湯呑みを持ったまま首をかしげた。
「なんでもないわ」
セナは前へ向き直り、少しだけ声を柔らかくした。
「お茶、おかわりいる?」
「もらう」
「わたくしは、いつでも歓迎よ」
セナの母が、急須を傾けながらのんびりと言った。
「魔物に好かれる子は、良い子ですからねえ」
「母さんの基準、昔からそれよね」
「あら。外れたことがないもの」
◇
日が傾き始めた頃、そろそろ、という話になった。
門まで見送る、とセナが立ち、なぜかロディスもついてきた。
庭を横切る途中、母屋の裏手にもう一棟、獣舎があるのが見えた。他の二棟より壁が厚く、戸は閉まっている。戸口には縄が張られ、立入を禁じる木札が下がっていた。
「大型っすか」
カイルが目を輝かせた。
「見ていいすか」
「駄目だ」
ロディスの返事は早かった。
「うちの鎧殻熊だ。ここ数日、気が立ってる。餌の食いも落ちてるから、近づけるのは俺だけにしてる」
「病気っすか」
「胃腸だろう。薬はやってる。……効いてる感じは、しないがな」
ロディスの声に、わずかな苛立ちが混じった。自分の獣の不調を言い当てられない苛立ちだ。腕のいい飼い手ほど、これは効く。
カイルは残念そうに獣舎を見上げ、セナは「だから今日は裏を案内しなかったのよ」と小声で言った。
リオは、足を止めていた。
厚い壁の向こうから、音がしている。
低い呼吸。時々、床を掻く爪。それから――重いものが木の壁にゆっくりと押し付けられて、擦れる音。
同じ側だ。さっきから、ずっと同じ側。
「……あの」
「ん?」
「あれ、さっきから右の壁に頭、擦りつけてません?」
ロディスの足が、止まった。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
「……中は見えないぞ。何で分かる」
「音です。さっきから、同じ側ばかり擦れてるので」
「音だと? この壁越しにか」
ロディスは獣舎を見て、リオを見て、もう一度獣舎を見た。
それから、低く唸った。
「……なるほどな」
壁の向こうで、また、重いものの擦れる音がした。
「……頭を擦るのは、あいつの癖じゃない。寝る前に床を掘る癖はあるが、壁はやらん」
独り言のような声だった。
それから、ロディスはリオに向き直った。値踏みの目でも、気の毒がる目でもなかった。
「夕方の給餌、見ていくか」
「兄さん!?」
セナの声が裏返った。
「気が立ってるから近づけないって、自分で言ったばかりでしょう」
「柵の外からだ。中には入れん」
「俺は見たいっす!」
「カイルは静かにしてて!」
リオは、傾いた日を見た。
帰って寝たい。それは本音だ。
だが、壁の向こうの音が耳に残っていた。同じ側ばかり擦りつける頭。落ちた食欲。効かない薬。
放っておいて治る音なら、それでいい。
ただ、あれはたぶん、そういう音ではない。
「……見ます」
「あなたが自分から乗るの、珍しいわね」
セナが目を丸くする。
「気になる音を放っておくと、夜、眠れない」
「結局、眠りの話なのね」
そうでもない、とは言わなかった。説明が長くなる。
厚い壁の向こうで、鎧殻熊がまた、右の壁に頭を押し付ける音がした。
痛がっている音では、ない気がする。
どちらかというと――何かを、煩わしがっている音だ。
リオは小さくあくびを噛み殺し、それから、少しだけ目を細めた。
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