第3話 大きい魔物と小さいテイマー
リオが学園に着いたのは、昼休みが半分ほど過ぎた頃だった。
朝は、鐘の音を聞いた記憶がない。
眠り鹿の宿の二階で目を覚ました時、窓の外はもう明るく、机の上にはマルタが置いていったらしい紙切れがあった。
『朝食は鍋の横。昼まで寝たら諦めなさい』
諦めるしかなかった。
昨夜の仕事は終わった。
ユアン・クレメルは眠れた。呪具は回収した。襲撃者も捕まえた。報告書は、半分だけ書いた。残り半分はネムが「あとで見てあげる」と言って持っていった。
その「あげる」が、リオには少し怖い。
ネムは優しい。
優しいが、逃がしてくれる人ではない。
そんなことを考えながら食堂へ入ると、すぐにカイルに見つかった。
「お前、今来たのか?」
カイルは食堂の長椅子に座り、大きなパンを片手に振り返った。昼食の皿には肉の煮込みが山のように盛られている。剣術科の生徒は、よく食べる。
向かいにはセナが座っていた。
彼女は小さめの皿を前に、腕の中の耳長魔物へ野菜の切れ端を見せている。耳長魔物は野菜を嗅いでから、いらない、とでも言うように顔を背けた。
「今来た」
リオは隣の席に腰を下ろした。
「午前中は?」
「夢の中で受けた」
「欠席ね」
セナが即座に言った。
責めるというより、もう確認だった。
「体は学園に向かう気があった」
「気持ちだけで出席になるなら、世の中の半分くらいの生徒が皆勤よ」
「それはいい制度だな」
「よくないわよ」
セナはそう言いながら、リオの顔を見た。
視線が目元に止まる。
それから、少しだけ声を落とした。
「昨日、また遅かったの?」
「少し」
リオは水差しから杯に水を注ぐ。
嘘ではない。
少し遅かった。
ただ、その少しが夜明け前だっただけだ。
カイルはパンをかじりながら、リオの鞄を見た。
「お前、昼飯は?」
「まだ」
「買ってこいよ。午後、実地演習だぞ」
「実地演習?」
リオは動きを止めた。
セナが目を細める。
「やっぱり聞いてないのね。昨日、先生が言ってたでしょう。今日は午後から魔物遭遇時対応演習。全員参加」
「……全員?」
「全員」
「契約術系だけじゃなくて?」
「剣術科も魔法科も錬金も、まとめて。魔物に遭遇した時、どう判断するかを見る授業だから」
リオは少しだけ顔をしかめた。
魔物遭遇時対応演習。
響きが良くない。
たいてい、そういう授業は騒がしい。教師が張り切る。生徒がざわつく。魔物が迷惑そうにする。
そして、なぜか契約術系の生徒が前に出される。
「リオ」
セナが先に釘を刺した。
「逃げないでよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が逃げてる」
「顔に出るのはよくないな」
「あなたの場合、顔以外にも出るわ。鞄を持ち直したもの」
リオは鞄から手を離した。
カイルが笑う。
「諦めろ。午後は面白そうだぞ。大型魔物を連れてくるって話だし」
「大型?」
「アーマーバイソンだってよ。鎧角牛とも呼ぶやつ。でかい牛みたいな魔物」
カイルは楽しそうだった。
剣術科の生徒にとって、大型魔物は分かりやすい脅威であり、分かりやすい憧れでもある。討伐、護衛、戦場。大きくて強いものは、それだけで話題になる。
セナは少しだけ口を結んだ。
その手元で、耳長魔物が彼女の袖を軽く引いた。
リオはその様子を見て、少しだけ考える。
「セナは大型、苦手なのか?」
「苦手というほどじゃないわ。ただ……」
セナは言い淀んだ。
代わりにカイルが、特に悪気もなく言う。
「テイマーって、大きい魔物を連れてる方がすごいんだろ? 契約数が多いとか、戦闘向きとか。前に誰かが言ってたぞ」
「間違いではないわ」
セナは小さく息を吐いた。
「契約数が多いのは、もちろん評価される。複数の魔物と長く契約を維持するのは、それだけで難しいもの。餌も、相性も、魔力の負担も、全部管理しなきゃいけないから」
「じゃあ、セナはすごいんじゃないのか?」
カイルが何気なく言う。
セナは一瞬、言葉に詰まった。
「……数だけなら、少なくはないわ」
「少なくはない?」
リオが聞くと、セナは視線を逸らした。
「家に、少し」
「少し?」
「小さい子たちが、少し」
腕の中の耳長魔物が、なぜか得意げに鼻を鳴らした。
リオはその反応を見て、だいたい察した。
少し、ではない。
カイルも同じことを思ったらしく、口元をにやつかせる。
「それ、絶対少しじゃないやつだろ」
「小型魔物は場所を取らないの。だから数え方が少し違うのよ」
「数え方が違うって何だよ」
「気持ちの問題よ」
「出た。リオみたいな言い訳」
「一緒にしないで」
セナは少しむきになったあと、抱いていた耳長魔物の背を撫でた。
「でも、学園で評価されやすいのは大型なの。護衛、討伐、輸送、戦場。そういう仕事だと、大きくて強い魔物を連れている方が分かりやすいから」
「小さいのが多いだけじゃ駄目なのか?」
「駄目じゃないわ。索敵に伝令、罠の感知。病人の見守りだって、小さい子にしかできない。……ただ、地味なのよ。どうしても」
セナは少しだけ苦笑した。
「家でも言われるの。契約数を維持できるなら、次は大型を目指せって。小さい子ばかり増やしてどうするんだって」
リオは、セナの腕の中の耳長魔物を見た。
小さな魔物は、彼女の袖を前足で握っている。
信頼している。
少なくとも、数合わせで契約されている魔物の顔ではなかった。
「小さい魔物は、生きるのが上手いからな」
リオが言うと、セナがこちらを見る。
「大きい魔物は強い。でも、小さい魔物は見つからない、隠れる、逃げる、気づく。そういうのが上手い。役に立つ場面は多い」
言ってから、リオは少しだけ後悔した。
寝不足のせいで、今日は余計なことを言いすぎている。
セナはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……そういうところは、ちゃんと分かってるのね」
「そういうところ、とは」
「普段は何も分かってなさそうなのに」
「失礼だな」
「半分くらい褒めてるわ」
「もう半分は?」
「日頃の行い」
カイルが楽しそうに笑い、リオの前に自分の皿からパンを一つ置いた。
「食っとけ。午後、倒れられるとこっちが困る」
「いいのか?」
「そのかわり、午後の演習でなんかあったら説明しろよ。テイマーが何見てるのか、俺には全然分からん」
「俺に聞くより、セナに聞いた方がいい」
「セナは真面目すぎて長い」
「カイル」
セナが低い声を出した。
カイルはパンを持ったまま、視線を逸らす。
「いや、分かりやすいんだけどな。分かりやすいんだけど、たまに授業みたいになる」
「授業中に聞きなさいよ」
「授業中は眠い」
「あなたたち、そこだけ似てるわね」
リオはパンを口に入れた。
少し硬い。
でも、腹には入る。
午後の授業を避ける言い訳を考えながら食べ始めたが、セナの目がこちらを見ているので、結局諦めることにした。
◇
午後の演習場は、いつもより生徒が多かった。
剣術科、魔法科、錬金・魔導具科、神聖・医療科、契約術系。学年の複数クラスが集められ、広い屋外訓練場の端に並ばされている。
中心に立っているのは、実地対応基礎を担当するマリウス教官だった。
短く刈った黒髪に、古傷の残る顎。元冒険者だと聞いたことがある。声は大きいが、無駄に怒鳴る人ではない。
彼の隣には、巨大な魔物がいた。
アーマーバイソン。
鎧角牛の名でも知られる大型魔物だ。
体高は大人の男を優に超え、黒褐色の体毛の上に、鎧のように硬い外皮が浮き出ている。前方へ湾曲した二本の角は、鈍い金属光を帯びていた。鼻息が一つ漏れるだけで、近くの砂がわずかに揺れる。
生徒たちの間に、どよめきが広がった。
カイルも目を輝かせている。
「でっか……。あれ、突っ込まれたら壁ごと持っていかれるだろ」
「持っていかれるわね」
セナが答えた。
腕の中の耳長魔物は、すでに鞄の中へ半分隠れている。大型魔物が怖いのだろう。
リオは訓練場の端に立ち、アーマーバイソンを見た。
大きい。
だが、落ち着いている。
少なくとも今は。
「今日の演習は、魔物遭遇時対応だ」
マリウス教官の声が訓練場に響いた。
「勘違いするな。魔物と出会った時、真っ先に必要なのは剣を抜くことでも、魔法を撃つことでもない。相手を見ることだ。怒っているのか、怯えているのか、縄張りを守っているのか、腹を空かせているのか。それを見誤れば、不要な戦闘になる」
教官はアーマーバイソンの首元へ手を置いた。
巨大な魔物は動かない。
「このアーマーバイソンは、すでに私と契約済みであり、学園で訓練も受けている。今日ここで新たにテイムさせるわけではない。テイムは本来、数時間から一日、場合によってはそれ以上かかるものだからな」
その説明に、何人かの生徒がうなずく。
リオは少しだけ眠そうに目を細めた。
わざわざそこを説明するあたり、教官は分かっている。
大型魔物を見せると、張り切った契約術系の生徒が「自分も契約できる」と思いがちなのだろう。
「契約術系の生徒は前へ。テイマーが何を見るのか、他の者にも分かるように説明してもらう」
その言葉で、数人の生徒が前へ出た。
セナも少し緊張した顔で進む。
リオは一歩下がった。
「リオ・アルクス」
教官の声が飛ぶ。
「君もだ」
「俺もですか」
「テイム術推薦生だろう」
「今日は体調が」
「昨日も悪かったと聞いている」
「今日は昨日より少し」
「前へ」
逃げ道はなかった。
カイルが後ろで笑いをこらえている。
リオは諦めて、契約術系の列の端に立った。
前に出た生徒の一人、ダリオ・ハーゼンがリオをちらりと見た。
貴族家の出身で、契約術系の中でも成績が良い生徒だ。腰には小型の牙狼を連れている。小型といっても、セナの耳長魔物よりはずっと大きい。戦闘向きの魔物を複数契約していることで知られていた。
「アルクスも出るのか」
「呼ばれたからな」
「魔物を連れていないテイマー推薦生が、大型魔物をどう見るのか興味はあるな」
嫌味というほどではない。
だが、含みはあった。
セナが少し眉を寄せる。
リオは肩をすくめた。
「俺も興味あります」
「自分に?」
「今日、どこまで起きていられるかに」
ダリオは返答に困った顔をした。
セナが小さくため息をつく。
「そういうところよ」
「何が」
「あなたが妙に扱いづらいところ」
マリウス教官は、生徒たちの会話を遮るように手を打った。
「まず距離だ。大型魔物に近づく時、正面から一直線に近づくな。目線、肩の向き、手の位置。相手は全て見ている。契約済みの魔物であっても、不意に恐怖を覚えれば反射的に動く」
教官はアーマーバイソンの横に立ち、実際に距離を示していく。
生徒たちは真剣に見ていた。
特に剣術科や魔法科の生徒たちは、大型魔物の動きそのものに興味があるようだった。カイルも、腕を組んでうなずいている。
リオはアーマーバイソンの耳を見ていた。
右耳が、時々わずかに後ろへ逃げる。
鼻先も少し動いている。
まだ問題はない。
だが、落ち着いているというより、我慢している。
訓練場の端で、錬金・魔導具科の生徒たちが測定板を準備していた。魔物の魔力反応を記録するための道具だ。磨かれた金属板が、午後の陽を受けてきらりと光った。
その光が、アーマーバイソンの右目に入る。
耳が跳ねた。
リオは目を細める。
まだ誰も気づいていない。
「次に、契約術系の生徒に見てもらう」
教官が言った。
「ダリオ。君からだ。この個体の状態をどう見る?」
ダリオは一歩前へ出た。
動きは悪くない。距離も取っている。声も落ち着いている。
「契約済みで、教官の指示に従っています。鼻息はやや強いですが、攻撃的ではありません。大型魔物としては安定しているかと」
「悪くない」
教官はうなずいた。
「セナ」
「はい」
セナは前に出た。
腕の中の耳長魔物は、もう鞄に入れている。代わりに、彼女は少し緊張した表情でアーマーバイソンを見た。
「攻撃的ではないと思います。ただ……少し、落ち着かないように見えます」
「理由は?」
「耳の動きです。音を気にしているのかと思いましたが、たぶん音だけではなくて……」
そこでセナは言葉を止めた。
分からない、というより、確信が持てない顔だ。
教官は責めなかった。
「よく見ている。では、アルクス」
来た。
リオは前へ出たくなかった。
だが、周囲の視線が集まっている。
仕方なく半歩前に出る。
「眠そうな顔で見るな」
教官が言う。
「起きてます」
「なら答えろ。この個体は何を気にしている?」
「光です」
リオが答えると、周囲が少しざわついた。
教官の眉が動く。
「光?」
「右目に反射光が入ってます。あそこの測定板です」
リオは訓練場の端を指した。
魔導具科の生徒が、慌てて測定板を見る。
ちょうど金属面が陽を拾い、アーマーバイソンの右側へ光を返していた。
「耳は逃げる方向を探してます。鼻先は前に向いてますけど、重心は後ろです。突っ込みたいんじゃなくて、逃げ道がないと思ってるんじゃないですか」
リオは言いながら、訓練場の生徒たちを見た。
見学の生徒たちは、半円状に広がっている。
ちょうど、アーマーバイソンの退路を塞ぐ形で。
「囲みすぎです。あれ、逃げ場がない」
教官の表情が変わった。
その瞬間、アーマーバイソンが低く唸った。
鼻息が荒くなる。
地面を前足で掻く。
生徒たちの列が揺れた。
「下がれ!」
教官が声を張る。
だが、突然のことに、何人かの生徒が動けない。魔導具科の生徒が測定板を持ったまま固まり、その板がまた光を返した。
アーマーバイソンの角がわずかに下がる。
突進の予備動作。
カイルが前へ出ようとした。
「動くな」
リオが言った。
声は大きくない。
だが、カイルは止まった。
「走ると追う。右側の生徒、歩いて下がれ。測定板、伏せて。布か何かかけてください」
言いながら、リオは自分の上着を脱いだ。
正面からは近づかない。
視線を合わせすぎない。
肩を少し斜めにして、逃げ道を塞がないように歩く。
アーマーバイソンの右耳がこちらへ向く。
怖がっている。
怒っているのではない。
怖がって、逃げたいのに、逃げる場所がない。
リオは測定板の前へ上着を放った。
正確には、投げつけたのではない。地面を滑らせるようにして、反射している金属面の前へ落とした。
砂を巻き込みながら広がった上着が、ちょうど鏡のようになっていた測定板の下半分を覆う。
光が消えた。
アーマーバイソンの右耳が、ぴくりと動く。
同時に、セナが気づいて声を上げた。
「左を空けて! そこ、退避場所になる!」
見学していた生徒たちが遅れて動く。
訓練場の左側には、もともと大型魔物を落ち着かせるための広い空き地があった。砂が厚く敷かれ、周囲に生徒が立たないよう杭と縄で区切られている。
だが、生徒たちが半円状に広がったせいで、アーマーバイソンからはその逃げ道が見えなくなっていた。
人が退く。
斜め左に、広い砂地が現れる。
リオはアーマーバイソンを正面から見なかった。目を合わせすぎず、肩を斜めにしたまま、低い声で言う。
「大丈夫。そっちは壁じゃない。左に抜けろ」
命令ではない。
契約でもない。
ただ、魔物が取りたい道を、言葉にしただけだ。
アーマーバイソンの前足が止まった。
鼻息が一つ、深く落ちる。
それから巨体がゆっくり左へ向き、厚く砂の敷かれた退避場所へ歩いていった。
教官がすぐに首元へ手を置き、契約の制御を強める。
アーマーバイソンは砂地の中央まで進み、そこでようやく足を止めた。先ほどまで硬く上がっていた尾が下がり、荒かった鼻息も少しずつ落ち着いていく。
訓練場に沈黙が落ちた。
リオは地面に落ちた上着を拾い上げる。
砂と泥がたっぷりついていた。測定板の前に滑らせた時、湿った地面を巻き込んだらしい。
「……汚れたな」
最初に出た感想は、それだった。
セナがこちらを見ている。
カイルもだ。
ダリオも、教官も。
リオは少しだけ嫌な予感がした。
「今のは」
教官が口を開く。
「契約ではないな」
「してません。先生の契約獣に割り込めませんし」
「割り込めないことを知っているなら、十分だ」
教官はリオをじっと見た。
「何をした?」
「怖いものをどかしただけです」
「それだけで大型魔物が止まると思っているのか」
「止まる時もあります」
「止まらない時は?」
「逃げます」
教官は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ笑った。
「正しい」
周囲の緊張が、そこでようやくほどけた。
カイルが大きく息を吐く。
「テイマーって、あんなでかいのも声で止めるのか……」
「違うわ」
セナが言った。
声が少し低い。
「今のは、テイムじゃない」
「でも、あいつリオの言うこと聞いたぞ」
「聞いたんじゃないと思う。リオが、あの子の行きたい方を先に読んだだけ」
カイルは首をかしげた。
「それ、もっとすごくないか?」
「だから変なのよ」
セナはリオを見た。
リオは視線を逸らした。
「変ではない」
「変よ」
「普通だ」
「普通の人は、大型魔物の重心を見て“逃げたいだけ”なんて言わないわ」
「言った方がいい」
「そういう話じゃないの」
セナは呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうだった。
アーマーバイソンが落ち着いたことで、授業はそのまま続行された。
マリウス教官は生徒たちを集め直し、今回の出来事を教材に変えた。
「今のように、魔物の行動を“攻撃”と決めつけるな。突進の前動作に見えても、逃走の前動作であることがある。特に大型魔物は、逃げるだけで周囲を巻き込む。剣士も魔法使いも、まず退路を塞いでいないかを見ろ」
教官の説明は実戦的だった。
生徒たちも真剣に聞いている。
リオは列の端で、できるだけ目立たないように立っていた。
もう遅い気もする。
だが、これ以上目立たなければいい。
そう思ったところで、教官がこちらを見た。
「アルクス。あとで少し話がある」
リオは目を閉じた。
寝たふりではない。
現実から少しだけ離れただけだ。
◇
演習が終わると、カイルはしばらくアーマーバイソンの話をしていた。
「いや、でかかったな。あの角、盾で受けたら腕ごと持っていかれるだろ。っていうか、リオよく前に出たな。眠そうだったのに」
「眠そうなのは関係ない」
「あるだろ。俺なら寝不足であんなのの前に出たくないぞ」
「俺も出たくなかった」
「じゃあなんで出たんだよ」
リオは答えに困った。
反射光で怖がっていた。
退路が塞がっていた。
セナが近くにいた。
カイルも動きかけた。
いろいろ理由はある。
だが、それを全部説明するのは面倒だった。
「上着が汚れる前に止めたかった」
「結果、汚れてたけどな」
「判断が遅かった」
「そこなのかよ」
カイルは笑いながら、訓練場を出ていく生徒たちへ視線を向けた。
「でもさ、ああいうの見ると、テイマーもすげえなって思うわ。魔法とか剣とは全然違うんだな」
「テイマー全員がああいうわけじゃない」
セナが言った。
彼女はまだ少し考え込んでいる顔だった。腕の中には、いつの間にか耳長魔物が戻っている。大型魔物が去って、ようやく安心したらしい。
「でも、リオがやったことは、テイマーなら一番大事なことだと思う」
「褒めてる?」
リオが聞くと、セナは少しだけ目を逸らした。
「……褒めてる。褒めてるけど」
セナはリオに向き直った。
「どうして普段それを隠してるのか、聞きたい」
「隠してない」
「隠してる人は、だいたいそう言うわ」
「リオ、隠し事多そうだしな」
カイルが何気なく言った。
リオは二人を見る。
セナはじっとこちらを見ている。
カイルは笑っているが、完全に冗談というわけでもなさそうだった。
リオは上着を肩にかけ直した。
「人には色々ある」
「便利ね、それ」
セナが言う。
「あなたの周りには、大人の事情と、人には色々ある、が多すぎるわ」
「学生生活には必要だ」
「普通の学生生活にはいらないのよ」
セナはため息をついた。
だが、その表情は先ほどより柔らかい。
「ねえ、リオ」
「何だ?」
「小さい魔物が役に立つ場面が多いって、昼に言ったでしょう」
「言ったかもしれない」
「言ったわ」
セナは抱いている耳長魔物の背を撫でた。
「今度、うちの子たちを見てほしい」
リオは一瞬、反応が遅れた。
「うちの子たち?」
セナは固まった。
カイルがゆっくりと笑顔になる。
「たち?」
「……今のは」
「数えてないくらいいるんだっけ」
「カイル、忘れなさい」
「無理だな。そういう面白い話は忘れられない」
「面白くないわよ」
「いや、かなり面白い」
セナは赤くなった顔を隠すように、耳長魔物を少し持ち上げた。
耳長魔物は迷惑そうに目を細める。
リオはその様子を見て、少しだけ笑った。
「別にいいんじゃないか。小さい魔物が多いのは」
セナがこちらを見る。
「本当にそう思う?」
「思う。大きいのは目立つし、餌も場所も取るし、機嫌を損ねると周りが大変だ」
「……実感がある言い方ね」
「ない」
「今の速さは嘘ね」
セナはまだ疑っていたが、少しだけ嬉しそうだった。
カイルが肩を回しながら言う。
「じゃあ今度、セナの家の魔物見に行こうぜ。リオも行くだろ?」
「勝手に決めないで」
「いや、俺は見たい。小さい魔物がたくさんいる家って、ちょっと楽しそうじゃん」
「見世物じゃないわよ」
「分かってるって。ちゃんと手土産持ってくから」
「魔物に変なもの食べさせないでよ」
「何持ってけばいいんだ?」
セナは少し考えた。
「干し果物は好きな子が多いわ。でも砂糖漬けはだめ。あと、香りの強いものもだめ。小さい子は鼻がいいから」
「ほら、もう行く流れになってる」
リオが言うと、セナははっとした顔になった。
「違うわ。今のは一般論よ」
「一般論にしては具体的だったな」
カイルが笑う。
セナは二人をにらんだが、あまり怖くはなかった。
◇
その日の夕方、リオは図書館へ向かった。
本当は宿へ帰って寝たかった。
だが、演習後にマリウス教官から「今日の所見を簡単にまとめて提出しろ」と言われた。さらに、白紙先生からも呼び出しがあった。
逃げ道がない。
図書館の奥、窓際の席に、白い手袋をした臨時司書が立っていた。
学園では白紙先生と呼ばれている人だ。
生徒からは、本の場所を何でも知っている便利な司書だと思われている。
リオにとっては、もう少し厄介な相手だった。
「お疲れのようですね」
「見て分かりますか」
「はい」
「なら、今日は帰してくれると助かるんですけど」
「それとこれとは別です」
白紙先生は静かに一冊の本を机に置いた。
眠くなる厚さだった。
「昨夜の件です。白眠花の加工片ですが、王都周辺のものではなさそうです」
「そうですか」
「興味が薄いですね」
「眠気が濃いんです」
リオは椅子に座り、机に肘をついた。
白紙先生は気にせず続ける。
「おそらく、ルヴィナ王国方面の加工です」
「ルヴィナ」
名前だけは知っている。
王都から見れば遠い国だ。香料や薬草の流通で知られている。学園の授業でも、何度か名前は出ていた。
ただ、リオの日常にはあまり関係がない。
「遠いですね」
「ええ。遠いです」
「じゃあ、今回の件と関係あるんですか」
「現時点では、分かりません」
「分からないことを言うために呼んだんですか」
「分からない、と分かったことを伝えるためです」
「司書っぽい言い方ですね」
「司書ですから」
白紙先生は微笑んだ。
リオは眠そうに本の表紙を見る。
「それ、読まないと駄目ですか」
「できれば」
「できれば、なら読まなくても」
「マリウス教官への所見も、こちらで預かることになっています」
「……それ、関係あります?」
「あります。提出物を持ってこない生徒は、図書館に来る理由が減りますから」
「減っていいんですけど」
「こちらは困ります」
困っていなさそうな顔で言われた。
リオは諦めた。
今日の演習の所見。
アーマーバイソンの状態。
反射光。
退路。
大型魔物への接近時の注意。
書くことはある。
あるが、手が動くかどうかは別だ。
「リオ君」
「はい」
「寝るなら、書いてからにしてください」
「まだ寝てません」
「目が半分ほど閉じています」
「考えてるんです」
「では、考えた結果を紙に」
リオは小さく息を吐き、羽ペンを取った。
窓の外では、夕陽が学園の白い塔を赤く染めている。
今日はもう、十三番窓口の依頼はない。
たぶん。
そう思いたい。
リオは紙の一行目に、ゆっくりと文字を書き始めた。
『大型魔物は、大きいから危険なのではない。怖がった時に、周囲がその大きさを受け止められないから危険である』
そこまで書いて、リオは止まった。
少し真面目に書きすぎた気がする。
横から白紙先生が覗き込む。
「良い書き出しですね」
「消していいですか」
「だめです」
「寝言ということで」
「起きて書いていました」
リオは諦めて、続きを書いた。
眠い。
腹も減った。
明日の補講はできれば休みたい。
それでも、学園の夕方は静かだった。
昨夜の子供部屋の緊張も、庭の暗がりも、今は遠い。
この時間を守るためなら、少しくらい面倒な所見を書くのも仕方がない。
リオはそう自分に言い聞かせながら、羽ペンを動かした。
数行進んだところで、白紙先生が静かに言った。
「ちなみに、明日の一限は補講です」
リオの手が止まる。
「……誰の?」
「あなたの」
「体調が悪くなる予定があります」
「では、治る予定も入れておきます」
「……そんな予定、入れられるんですか」
「入りました。今」
リオは机に突っ伏した。
白紙先生は本を開き、何事もなかったようにページをめくる。
図書館の静けさの中で、リオの小さなため息だけが落ちた。




