第2話 庭の住人
棘尾蜥蜴は、すぐには出てこなかった。
庭の石垣の下、植え込みの奥。低く鳴らした木笛の音に、棘の並んだ尾が一度だけ揺れる。だが、それだけだ。
灰耳鼠とは違う。
臆病さより、怒りの方が強い。
縄張りに知らない人間が入ってきたことを、もう分かっている。けれど、飛び出すかどうかを迷っている。相手の数、足音、匂い。どちらが危険で、どちらへ噛みつけばいいかを測っている。
リオは窓枠に片足をかけたまま、息を殺した。
庭の植え込みの影には二人。
黒い外套。短剣。靴底に布を巻いている。足音を消すためだろうが、灰耳鼠の耳には十分だった。
その二人はまだ動かない。
屋根から入った仲間と、屋敷内の協力者が子供部屋を乱すのを待っていたのだろう。中が混乱したところで庭側から入る。あるいは、子供を外へ運び出す役だったか。
どちらにせよ、もう予定は崩れている。
リオは木笛をもう一度、低く鳴らした。
今度は音を伸ばさない。
短く、地面に落とすように。
石垣の下で、棘尾蜥蜴の喉が小さく鳴った。
怒っている。
だが、こちらへではない。
リオはそこに細い契約の糸を伸ばした。
押さえつけるのではなく、方向だけを示す。
お前の庭を荒らしているのは、あそこだ。
お前の巣の近くで息を潜めているのは、あいつらだ。
敵は俺じゃない。
棘尾蜥蜴の感覚が、一瞬だけリオの中に流れ込む。
湿った土の匂い。
夜露で濡れた草。
石垣の冷たさ。
そして、植え込みの向こうにいる人間の汗と革の匂い。
リオの指先に、わずかに力が入った。
「契約成立」
声には出さず、胸の中でつぶやく。
次の瞬間、棘尾蜥蜴が植え込みの下を走った。
速い。
地面を這うような低さで、石畳と草の境目を抜ける。棘のついた尾が、低木の枝を揺らした。
庭に潜んでいた一人が、わずかに反応する。
遅い。
「ぐっ……!」
くぐもった声がした。
棘尾蜥蜴が男の足首へ噛みついたのだ。
大きな傷ではない。だが、棘尾蜥蜴の顎はしつこい。噛んだまま尾を振り、相手の足運びを崩す。
もう一人が慌てて振り返る。
その一瞬で、二人の位置が完全に見えた。
リオは窓枠から庭へ飛び降りた。
着地の衝撃が膝に来る。
寝不足の体には少し重い。
だが、今は文句を言っている場合ではない。
植え込みの影から、二人目の男が短剣を抜いた。こちらへ向けるのではなく、棘尾蜥蜴へ向けている。
リオの目が細くなった。
「そっちじゃない」
低く言い、地面に落ちていた小石を蹴った。
小石は男の手首に当たり、短剣の向きがわずかに逸れる。そこへリオが踏み込んだ。
近すぎる距離。
相手は刃を振ろうとしたが、遅い。
リオは相手の肘の内側を押さえ、体を半歩ずらす。腕をひねるのではなく、相手が自分で崩れる場所へ誘導する。何百回とガルドに投げられて覚えた体捌きだ。
男の膝が芝生についた。
続けて、首筋へ手刀を入れる。
声を上げる間もなく、一人目が倒れた。
棘尾蜥蜴に噛まれていた男が、ようやく足を振り払った。
だが、棘尾蜥蜴はすでに離れている。尾を立て、低い姿勢で相手を威嚇していた。
「この……!」
男が腰の短剣に手を伸ばす。
リオは少しだけ息を吐いた。
「それ、やめた方がいい」
男は聞かなかった。
短剣を抜く。
同時に、棘尾蜥蜴が尾を打った。
石畳を叩く、乾いた音。
男の足元で、砂と小石が跳ねる。視界が一瞬だけ下へ落ちた。
その隙に、リオは距離を詰める。
相手の手首を取る。
捻る。
短剣が落ちる。
そのまま、肩から芝生へ倒した。
息が詰まる音。
リオは男の背に膝を置き、ベルトから拘束紐を抜いた。十三番窓口の支給品ではなく、リッツに昔渡された細い紐だ。軽いが、結び方さえ間違えなければそう簡単には解けない。
男の両手を縛り終えたところで、屋敷の護衛がようやく駆けつけてきた。
息を切らしている。目は丸い。
「今の、何が……」
「二人です。縛ってください。あと、蜥蜴に近づかないで」
「蜥蜴?」
「怒ってます」
護衛が足元を見る。
棘尾蜥蜴が、まだ尾を立てていた。
護衛は一歩下がる。
「分かった。近づかない」
素直で助かる。
リオは棘尾蜥蜴の前にしゃがんだ。
まだ警戒している。
敵は倒れた。
だが、人間はまだ多い。
護衛も、使用人も、灯りを持って集まってくる者もいる。棘尾蜥蜴にとっては、どれも落ち着かない。
「助かった。帰っていい」
リオは契約をほどいた。
棘尾蜥蜴はすぐには動かなかった。
黄色い目でリオを見ている。
契約の余韻が残っている。怒りと警戒の奥に、わずかな理解があった。
リオは手を出さない。
触れば噛まれるかもしれない。
感謝される筋合いでもない。
「お前の巣には近づかせない。だから、今は帰れ」
棘尾蜥蜴は尾を一度だけ振り、植え込みの奥へ消えた。
護衛がそれを見送ったあと、ぽつりと言った。
「……あんた、本当に礼法教師の補佐なのか?」
リオは立ち上がり、服についた土を払った。
「今日は、そういうことになってます」
「今日は?」
「詳しく聞くと、たぶん後悔します」
護衛は口を開きかけて、閉じた。
「分かった。聞かない」
「それがいいです」
リオは倒れた二人を護衛に任せ、屋敷を見上げた。
二階の子供部屋には、まだ灯りがついている。
けれど、窓の向こうは静かだった。
◇
子供部屋へ戻ると、ユアンは眠っていた。
泣き疲れて落ちた眠りではない。
呼吸が深く、肩の力も抜けている。まだ時折、眉がわずかに動くが、そのたびにネムが小さく歌の余韻を足している。
ユアンの母親は寝台のそばに座り、両手で口元を押さえていた。
泣きそうな顔だった。
いや、もう泣いていた。
ただ、声を出して泣くと息子を起こしてしまうから、必死に堪えているのだろう。
ネムはユアンの手をそっと布団の中へ戻し、静かに立ち上がった。
「大丈夫。今夜は眠れます」
「本当に……本当にありがとうございます」
母親は頭を下げようとした。
ネムはそれを手で制した。
「まだ終わっていません。呪具を外しただけです。数日は夜に不安が戻るかもしれませんから、寝る前の香は使わないでください。部屋に入れる使用人も、こちらで確認した者だけに」
「はい。あの、侍女は……」
「事情は聞きます。今は、奥様はユアン君のそばに」
ネムの声は優しい。
けれど、拒ませない。
リオは部屋の隅に置かれた香炉を見た。
青磁の小さな器。
一見すれば高価な品だ。表面には蔦の模様が彫られ、眠り草の乾いた香が中に残っている。
リオには、ただの香炉に見える。
だが、ネムの手が近づくと、器の縁に細い黒い線が浮かんだ。
文字ではない。
模様でもない。
眠りに落ちる瞬間、心を引っかくための細工だ。
「これ、いつから?」
リオが小さく聞くと、ネムは香炉を布で包みながら答えた。
「おそらく五日前。ユアン君が眠れなくなった時期と一致するわ。最初は弱く、少しずつ強くしたのでしょうね」
「衰弱させるためですか」
「ええ。眠れない子供は、判断できない。怖がっている子供は、差し出された手を選べない。優しい声で“助けてあげる”と言われれば、それが敵の手でも掴んでしまう」
リオは黙った。
胸の奥が、少しだけ冷える。
ユアンは六歳だ。
その年の子供に、眠れない夜を何日も与えて、弱らせて、連れ去ろうとした。
仕事でなければ、もっと腹が立っていたかもしれない。
いや。
仕事だからこそ、腹を立てる余裕を後回しにできているだけだ。
「内部に協力者がいたとなると、クレメル家の問題だけでは済まないですね」
「そうね」
ネムは眠った侍女の方を見た。
壁際で倒れた侍女は、今は廊下の奥で拘束されている。リオが止めたもう一人も、庭の二人も、すでに護衛が別室へ運んだ。
「今夜、私たちが来ることを知って、焦ったのでしょう。呪具を見つけられる前に、ユアン君を連れ出すつもりだった」
「ネムさんが来なければ?」
「あと二、三日。眠れないままなら、ユアン君は自分で部屋を出ようとしたかもしれないわ。怖い夢から逃げるために」
ネムは声を落とした。
「そこで“助けに来た人”が現れれば、子供はついていく」
リオは窓の外を見た。
庭の灯りの下で、護衛たちが慌ただしく動いている。遅いとは思わない。普通なら、あれで十分に訓練されているのだろう。
ただ、相手が悪かった。
そして今夜は、十三番窓口の人間が先に入っていた。
「襲撃者の持ち物、確認します」
「お願い。私はユアン君の眠りを安定させるわ。今、起こすのは良くない」
「分かりました」
リオは部屋を出ようとして、足を止めた。
ネムがこちらを見ている。
「何ですか」
「無理はしていない?」
「してません」
「今の返事、少し早いわ」
「急いでるので」
「あとで診せなさい」
「怪我してません」
「庭に飛び降りたでしょう」
「見てたんですか」
「音で分かるわ」
「ネムさん、たまに怖いです」
「たまに?」
「……いつも少し」
ネムは楽しそうに笑った。
「終わったら、ちゃんと戻ってきなさい。昔みたいに寝かしつけてあげる」
「戻らない理由ができました」
「逃げても無駄よ」
「任務より怖いんですけど」
そう言い残して、リオは廊下へ出た。
◇
襲撃者たちの所持品は、どれもよく整理されていた。
短剣。
鉤縄。
眠気を飛ばす刺激薬。
小型の拘束具。
子供用の外套。
そして、小さな白い紙包み。
リオは紙包みを開け、指先で中身をつまんだ。
乾燥した花弁のように見える。
白い。
薄い。
匂いはほとんどない。
けれど、灰耳鼠と契約していた時に嗅いだ刺激薬の甘さと、どこか似ていた。
「これは?」
護衛の一人が尋ねる。
リオは紙包みを閉じた。
「触らない方がいいです」
「毒か?」
「たぶん。少なくとも、子供に近づけるものじゃない」
その時、廊下の奥からネムが来た。
足音はほとんどしない。眠っている子供を起こさない歩き方だ。
「見せて」
リオは紙包みを渡した。
ネムは中を見て、表情を少しだけ変えた。
「白眠花の加工片ね」
「眠り草とは違うんですか」
「逆よ」
ネムは花弁を灯りにかざした。薄い縁が、光を透かしてわずかに青く見える。
「本来は深い眠りに落とすためのもの。でも、薄く削って刺激薬と混ぜると、眠りに落ちる直前の意識だけが引き延ばされるの」
「……悪夢を、長引かせる?」
「それだけなら、まだましだったのだけれど」
「この状態の子供は、恐怖と一緒に聞いた声を覚え込むの。洗脳の下地よ。質は悪いけれど、有効だわ」
ネムの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって冷たく聞こえた。
リオは紙包みを見る。
「子供相手に使うものじゃないですね」
「誰に使っても褒められたものではないわ」
ネムは紙包みを布に包み直した。
「ただ、この加工は王都のものではないと思う」
「分かるんですか」
「香りの残し方が違うわ。王都の職人なら、もっと余計な匂いを消す。これは、効果を優先しすぎている」
「雑?」
「雑というより、急いでいる。あるいは、もともと人に使うために作ったものではない」
リオは一瞬だけ、ネムの顔を見た。
それ以上は言わない。
今ここで判断する材料は少なすぎる。
けれど、十三番窓口に戻れば白紙先生が調べるだろう。ミラやオルフェも確認するかもしれない。リオの仕事は、まず現場を閉じることだ。
「侍女は?」
「眠らせたまま、少しだけ話を聞いたわ」
「……起こさずに聞けるんですか」
「行儀の悪い技だから、あまり言いふらさないでね」
ネムは何でもないことのように続けた。
「一人は本物。香炉を替えた子ね。借金を肩代わりすると言われて協力したらしいわ。もう一人は偽物。今夜、交代の隙に紛れ込んだのでしょう」
「本物の侍女は、どこまで知ってたんですか」
「ユアン君が眠れなくなるとは知らなかったと言っている。香炉を替えるだけだと」
「信じます?」
「信じるかどうかは、私の仕事ではないわ」
ネムは布包みを袖の中へしまった。
「でも、少なくとも、あの子がユアン君を傷つけようとしたわけではなさそう。だからといって、許される話でもないけれど」
リオはうなずいた。
人には事情がある。
借金。家族。脅迫。弱み。
それでも、子供の部屋に呪具を置いた事実は消えない。
そこを混同しないのが、十三番窓口の仕事だ。
「ユアンは?」
「眠っているわ。久しぶりに、ちゃんと」
ネムの声が少しだけ柔らかくなった。
「朝までは起こさない方がいい」
「よかったですね」
「ええ」
ネムはリオを見た。
「あなたも、今日は早く寝なさい」
「帰ったら寝ます」
「本当に?」
「たぶん」
「その“たぶん”を聞くたびに、私は膝を貸すべきか悩むのだけれど」
「悩まないでください。絶対にいらないです」
「昔はいるって言ったのに」
「昔の話です」
「昔は“ママ”って」
「その話をここで出したら、屋敷を出ます」
ネムは微笑んだ。
「出ても馬車は同じよ」
「最悪だ」
リオは小さくため息をついた。
任務はほぼ終わった。
ユアンは眠った。
呪具は回収した。
襲撃者も捕らえた。
あとは報告書を書き、証拠を十三番窓口に渡すだけだ。
報告書。
その言葉を思い出した瞬間、リオは顔をしかめた。
「ネムさん」
「なあに?」
「報告書、共同でいいですか」
「リオちゃんが下書きして、私が確認する形なら」
「それ、共同じゃないです」
「勉強になるわ」
「学校の課題もあるんですけど」
「大丈夫。あなたは書き始めれば早いもの」
「書き始めるまでが長いんです」
「知っているわ」
ネムは楽しそうに言った。
リオは諦めて、窓の外を見た。
夜はまだ深い。
だが、子供部屋の中には、ようやく静かな寝息が戻っていた。
それだけで、今夜ここへ来た意味はあった。
◇
眠り鹿の宿へ戻ったのは、夜明け前だった。
空はまだ暗いが、東の端だけが少し白んでいる。
リオが裏口から入ると、厨房には小さな灯りがついていた。マルタが椅子に座って、うとうとしている。
扉の音で目を開けた彼女は、リオを見るなり小さく息を吐いた。
「おかえり」
「ただいまです」
「怪我は?」
「ほとんど」
「ほとんど、は怪我してる人の言い方よ」
「庭に飛び降りた時に、ちょっと膝が」
「ちょっと、も怪しいわね」
マルタは立ち上がり、鍋の蓋を開けた。
中にはスープが残っている。
リオは椅子に座り、鞄を足元に置いた。体が重い。眠気も限界に近い。
「子供は眠れた?」
マルタが聞いた。
リオは少しだけ目を閉じる。
ユアンの寝息を思い出した。
「はい。ちゃんと」
「そう。よかった」
マルタはそれだけ言って、温め直したスープを置いた。
余計なことは聞かない。
それがありがたかった。
リオはスープを一口飲む。
温かい。
体の中に残っていた夜の冷えが、少しだけ溶けていく。
「リオちゃん」
「はい」
「食べたら寝なさい」
「学園が」
「寝なさい」
「……はい」
逆らう気力はなかった。
リオはスープを飲み終え、ふらつきながら二階へ上がった。
部屋に戻り、上着だけ脱いで寝台へ倒れ込む。
靴を脱ぐのを忘れていることに気づいたが、起き上がる気力がなかった。
そのまま目を閉じる。
今夜は、炎の夢を見ない気がした。
理由は分からない。
ただ、どこか遠くで、ネムの子守歌の余韻が残っていた。
そして、ユアンの静かな寝息も。
リオは小さく息を吐く。
「……明日の補講、無理だな」
誰にともなくつぶやいて、そのまま眠りに落ちた。
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