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第1話 眠らせ屋の補佐

 放課後の鐘が鳴ると、教室の空気が少しだけ緩んだ。

 午前の座学と午後の基礎魔力演習が終わり、生徒たちはそれぞれの予定へ散っていく。寮へ戻る者、訓練場へ向かう者、図書館へ寄る者。まだ課題を終えていない何人かは、机に突っ伏したまま友人へ救いを求めていた。

 リオ・アルクスは、自分の机の上に置いた薄い封筒を見下ろしていた。

 封の隅に、小さく十三の数字が刻まれている。

 昼休みの終わりに、図書館の白紙先生から渡されたものだ。

 開けたくない。

 開けなければならない。

 その二つが机の上でしばらく押し合いをして、結局、リオは小さく息を吐いた。

「……放課後までは学生でいていい、だったな」

 白紙先生はそう言っていた。

 つまり、放課後になった今はもう違うということだ。

 リオが封に指をかけたところで、横から声がした。

「リオ、帰る前に少しいい?」

 セナ・ラティスだった。

 栗色の髪をきちんと結び、腕には耳の長い小型魔物を抱えている。制服の腰には、餌入れや手入れ用の小さな刷毛が下がっていた。彼女はリオと同じ契約術系の推薦生だ。

 ただし、授業態度はほとんど正反対だった。

「内容による」

 リオは封筒に指をかけたまま答える。

 セナはその封筒に一瞬だけ視線を落としたが、すぐに見なかったことにした。

「契約術の実技の話。今日の演習で、先生が言っていた認証段階のところ」

「今じゃないと駄目か?」

「本当は昼休みに聞きたかったの。でもあなた、図書館で寝てたでしょう」

「寝てない。目を閉じていただけだ」

「本を枕にして?」

「本の高さを確かめてた」

「寝るために?」

「用途は人それぞれだ」

 セナは軽くため息をついた。

 怒っているわけではない。慣れている顔だった。

「五分でいいわ」

「三分なら」

「減らさないで。あなた、いつもそうやって話を終わらせようとするでしょう」

「気のせいだ」

「それもいつも言う」

 セナは腕の中の耳長魔物を撫でながら、机の横に立った。

 耳長魔物はリオを見上げている。興味がある。少しだけ近づきたい。でも飼い主の腕の中から出るほどではない。

 リオは一瞬だけ視線を合わせ、すぐに外した。

 契約していない魔物と不用意に目を合わせ続けるのはよくない。相手によっては、それだけで挑発になる。

 セナがそれを見逃すはずもなかった。

「今の。やっぱり何か見てるわよね」

「何も」

「何も見てない人は、そんなふうに目を逸らさないわ」

「目が疲れてるんだ」

「それは本当でしょうけど」

 セナは困ったように笑った。

「先生は、テイムには段階があるって言っていたでしょう。警戒、興味、許容、受容、契約。普通は最短でも数時間。相性が良くても半日。気性が荒い魔物なら一日以上」

「そうだな」

「その説明の時、あなた、ずっと変な顔してた」

「顔?」

「“そんなにかかるか?”って顔」

 リオは返事に詰まった。

 確かに、少しだけ思った。

 だが、それをそのまま言うと面倒になる。

 リオも学園生活で少しは学んでいる。正直に言えば楽になる場面と、正直に言うほど話が長くなる場面がある。

「……魔物による」

「それはそうだけど」

「状況にもよる」

「それもそうだけど」

「じゃあ、そういうことだ」

「答えになってないわよ」

 セナは呆れた声を出したが、すぐに真面目な顔へ戻った。

「別に責めたいわけじゃないの。ただ……なんて言えばいいのかしら」

 セナは言葉を探すように、耳長魔物の背を撫でた。

「あなた、普段はやる気なさそうなのに、魔物の反応を見る時だけ妙に細かいのよ。私が半日かけて気づくことを、なんでもない顔で見てるっていうか」

「買いかぶりだ」

「買いかぶりなら、もっと堂々と否定すると思う」

「……セナって、たまに面倒くさいな」

「たまにじゃないわ。私はいつも真面目なの」

 そう言ってから、セナは自分で少し笑った。

 耳長魔物が腕の中で身じろぎする。

 その耳の動きに、リオはまた目をやった。さっきより少し緊張している。セナの声の変化に反応したのだろう。

「その子、緊張してる」

「え?」

「今のは俺じゃなくて、セナに反応した。真面目な話をする時、少し声が硬くなるから」

 言ってから、リオはしまったと思った。

 セナは目を丸くした。

 それから、抱いていた魔物の耳元へそっと指を添える。

「……本当だ。耳の根元、少し強張ってる」

「気のせいかもしれない」

「今さら遅いわよ」

 セナの声は少しだけ明るくなった。

 リオは封筒を鞄へしまい、立ち上がる。

「悪い。今日は本当に行く」

「その封筒?」

「まあ」

「バイト?」

「そんなところ」

 セナは何か聞きたそうにした。

 けれど、聞かなかった。

 心配はする。けれど、無理に踏み込むことはしない。

 リオはその距離感に甘えている自覚があった。

「無理はしないでよ」

「してない」

「あなたの“してない”は信用できないのよね」

「信用は大事だぞ」

「あなたが言わないで」

 セナはそう言って、少しだけ笑った。

「明日はちゃんと来なさいよ。契約術の補講、先生があなたの名前を出してたから」

「補講?」

「寝てたから聞いてないのね」

「……明日は体調が悪くなるかもしれない」

「今から?」

「予兆がある」

「嘘が雑」

 リオは返事をせず、軽く手を上げて教室を出た。

 廊下へ出ると、放課後のざわめきが少し遠く感じた。

 何でもない会話をして、くだらない言い訳をして、少し心配されて、それを適当にごまかす。

 そういう時間は、嫌いではない。

 だからこそ、封筒を開けるのは気が重かった。

 学生でいる時間が、そこで終わってしまうからだ。

     ◇

 眠り鹿の宿に戻ると、マルタは厨房で大鍋をかき回していた。

 夕方の食堂には、煮込み料理の匂いが満ちている。壁際の席では旅商人らしい男が地図を広げ、奥の席では常連の老夫婦が静かに酒を飲んでいた。

 リオが扉を開けると、マルタは鍋から顔を上げる。

「あら、おかえり。今日は早いじゃない」

「まだ夕方です」

「リオちゃん基準だと早いのよ。昨日なんて、帰ってきたのほとんど朝だったでしょう」

「昨日は少し長引いて」

「その“少し”が、だいたい普通の人の一晩分なのよねえ」

 マルタはそれ以上聞かず、皿に煮込みをよそった。

「食べるでしょう?」

「食べます」

「顔に書いてあるもの。お腹空いてる時と、眠い時と、何か隠してる時の顔はだいたい同じだけど」

「それ、見分けられてないんじゃ」

「全部当たってるからいいのよ」

 リオは反論を諦め、カウンター席に座った。

 煮込みを一口食べる。野菜と肉がよく煮込まれていて、少し濃いめの味が疲れた体に染みた。

 腹が落ち着いたところで、リオは鞄から封筒を取り出した。

 マルタは鍋をかき混ぜながら、ちらりとそれを見る。

「今夜?」

「たぶん」

「今読んで“たぶん”なの?」

「読んでから確定します」

「読まないで済むなら、その方がいいんだけどねえ」

「読まないと白紙先生に怒られます」

「あの人、静かに怒るから怖いものね」

 普通の宿屋の女将が、学園の臨時司書の怒り方を知っているはずがない。

 けれど、リオはそこを突っ込まなかった。

 この宿がただの宿でないことくらい、最初から知っている。

 リオは封を切り、依頼書に目を落とした。

 声には出さない。食堂には、まだ旅商人も老夫婦もいる。

 クレメル子爵家の三男、ユアン。六歳。ここ五日ほど、夜になると眠れない。医者と神官は診察済みで、身体に異常はなし。ただし、寝入りばなに強い恐怖反応。原因は不明。

 リオは読み進めながら、眉を寄せた。

 十三番窓口の調査では、屋敷内に外部から持ち込まれた微弱な魔力残滓。精神干渉系の呪具、または薬物の可能性。そして今夜、対象の身柄を狙った襲撃の可能性が高い、とある。

 そこまで読んで、担当者名を見る。

 ネム・アルレット。

 リオは無言で依頼書を閉じた。

 マルタが鍋をかき混ぜながら、こちらを見た。

「子守り?」

「表向きは。実際は、原因究明と護衛と、たぶん襲撃者の捕獲です」

「ずいぶん物騒な子守りねえ」

「十三番窓口の子守りは、だいたい物騒です」

「担当は?」

「ネムさんです」

「あら」

 マルタは少し嬉しそうな顔をした。

 リオは嫌そうな顔をした。

「行きたくなくなってきました」

「ネムさん、リオちゃんのこと可愛がってくれるじゃない」

「それが問題なんです」

「昔はあんなに懐いていたのにねえ」

 リオは匙を止めた。

「……その話、誰から聞きました?」

「誰だったかしら」

「ネムさんですね」

「さあねえ」

 マルタは楽しそうに笑う。

 リオは深く息を吐き、残りの煮込みを食べた。

 美味い。美味いが、気分は少し重い。

 ネム・アルレット。

 十三番窓口のナンバーズの一人。表では貴族や王族に礼法や作法を教える家庭教師として知られている。裏では“眠らせ屋”の二つ名を持つ。

 声、呼吸、視線、指先の動き。

 あらゆるものを使って、人を落ち着かせ、眠らせ、時には戦闘不能にする。

 そしてリオにとっては、もう少し厄介な相手だった。

 幼い頃、眠れなかったリオを何度も寝かしつけた人。

 ありがたい記憶ではある。

 あるのだが。

 今のリオにとっては、扱いづらいことこの上ない。

 ネムは今でも、リオを小さな子供のように扱う。悪気がないぶん、逃げ場がない。

「ネムさんに会ったら、ちゃんと挨拶しなさいね」

「しますよ。子供じゃないんですから」

「その“子供じゃない”って言うところが、子供っぽいのよ」

「……ごちそうさまでした」

「あら、逃げた」

 リオは席を立った。

 マルタは空になった皿を受け取りながら、少しだけ声を柔らかくした。

「今夜も怪我しないようにね」

「子守りですから」

「子守りの依頼で怪我して帰ってきても、私は驚かないわよ」

「信用がない」

「実績がある」

 言い返せなかった。

     ◇

 指定された集合場所は、王都南区にある小さな礼拝堂の裏手だった。

 日が沈み、空が藍色に変わり始めている。表通りにはまだ人通りがあったが、一本裏へ入ると街灯の間隔が広がり、足音が石壁に反響した。

 礼拝堂の裏には、一台の黒い馬車が止まっている。

 馬車のそばに、ひとりの女性が立っていた。

 柔らかい薄紫の髪をゆるくまとめ、落ち着いた色の外套を羽織っている。顔立ちは穏やかで、声をかけられる前から相手の緊張をほどいてしまうような雰囲気があった。

 表で会えば、誰もが優しい家庭教師か乳母だと思うだろう。

 実際、それは間違いではない。

 ただ、それだけではないというだけだ。

「リオちゃん」

 その呼び方を聞いた瞬間、リオは足を止めた。

「外ではやめてください」

「誰もいないわ」

「御者がいます」

「御者さんは十三番窓口の人だから平気よ」

「平気じゃないです。そういう問題じゃないので」

 御者台に座っていた男が、聞こえないふりをして空を見上げた。

 ネムはくすりと笑い、リオの前まで歩いてくる。

「久しぶりね。ちゃんと眠れてる?」

「眠れてます」

「目の下が少し黒いわ」

「学園の課題です」

「リオちゃん、昔から嘘をつく時、少しだけ右を見るのよ」

「人の癖を覚えすぎです」

「覚えているんじゃなくて、見れば分かるの。あなた、分かりやすいもの」

 ネムはそう言って、リオの乱れた前髪に手を伸ばした。

 リオは半歩下がる。

「自分で直せます」

「そう。昔は髪を梳かすと、すぐ眠そうにしていたのに」

「その話はもういいです」

「膝の上で寝ていた時の話も?」

「もっといいです」

 ネムはほんの少し残念そうな顔をした。

 それが本当に残念そうなので、リオは余計に困る。

 だが、次の瞬間にはネムの雰囲気が変わった。

 声の温度が、わずかに下がる。

「依頼内容は読んだ?」

「読みました。表向きはネムさんの礼法指導で、俺は補佐。実際は原因究明と護衛。……それと、たぶん今夜来ます」

「あら、どうして?」

「魔力残滓の報告が新しすぎる。仕込んだ側は、そう長く待つ気がないはずです」

 ネムは少しだけ目を細め、それから満足そうに頷いた。

「はい、よくできました」

「その褒め方はやめてください」

「読まないと怒る人たちに育てられたんでしょう?」

「……過剰教育です」

 ネムは微笑んだ。

「今回は、あなたに周辺警戒をお願いしたいの。私はユアン君のそばにいる。あなたは屋敷の中と庭を見る」

「魔物は用意されていますか?」

「屋敷の中に灰耳鼠が住みついているそうよ。人に害はないけれど、床下や壁裏に住んでいて、足音や金属音に敏感。使用人には嫌われているけれど、今回は役に立つかもしれないわね」

「現地調達ですか」

「あなた向きでしょう?」

「向いてますけど、子爵家の床下にいる鼠と契約する家庭教師補佐って、表向きに説明しづらくないですか」

「説明しなければいいのよ」

「ナンバーズはだいたいそれを言う」

「便利でしょう?」

「便利な言葉が多すぎるんですよ、この組織」

 リオがため息をつくと、ネムは馬車の扉を開けた。

「行きましょう。子供は待たせない方がいいわ」

「眠れない子供ですか」

「ええ。眠りたいのに眠れない子供よ」

 ネムは静かに言った。

 その声に、リオは一瞬だけ返す言葉を失った。

 眠れない夜。

 その意味を、リオは知っている。

 ネムもそれを知っている。

 だから、からかわない時のネムの言葉は、少し重い。

 リオは馬車に乗り込んだ。

「……分かりました。補佐します」

「ええ。頼りにしているわ」

「子供扱いしないなら」

「努力するわね」

「それ、する気ないやつの返事です」

「よく分かったわね」

 馬車が静かに動き出した。

     ◇

 クレメル子爵邸に着いたのは、夕暮れの鐘が鳴る少し前だった。

 屋敷は王都南区の外れにある、落ち着いた造りの建物だった。派手な装飾は少ないが、手入れの行き届いた庭と白い石壁から、古く堅実な家柄であることが分かる。

 門の両脇には家紋入りの灯りがあり、使用人たちの動きも静かで無駄がない。

 ただ、屋敷全体に少しだけ緊張があった。

 門番の肩に力が入っている。窓の内側で使用人が何度も外を見ている。庭の植え込みの陰には、普段なら置かないはずの護衛が立っている。

 ネムは表向きの礼法教師として奥方に迎えられ、リオはその補佐として少し遅れて屋敷に入った。

 それから一刻半。

 屋敷の中は、見た目だけなら落ち着きを取り戻していた。

 ネムは二階の子供部屋で、ユアンの呼吸を整え続けている。最初は毛布を握りしめて泣いていた少年も、今は寝台に横になり、時折まぶたを震わせる程度になっていた。

 無理に眠らせるだけなら、ネムはとっくにできたはずだ。

 それでも彼女はそうしなかった。

 ユアンに必要なのは、気絶するような眠りではない。

 目を閉じても大丈夫だった、という記憶だった。

 その間、リオは屋敷の中を歩いていた。

 使用人の動線。護衛の配置。窓の鍵。庭の灯り。床下を走る灰耳鼠の通り道。

 眠そうな補佐として廊下の端に立ちながら、リオは屋敷の音を少しずつ頭の中に並べていった。

 灰耳鼠と契約したのは、到着してすぐだった。

 庭の端、石畳の脇に積もった落ち葉の下。そこにあった小さな穴へ、リオは木笛の細い音を落とした。

 人間にはほとんど聞こえない、高く短い音。

 しばらくして現れた灰耳鼠は、手のひらに乗るほど小さく、耳だけが妙に大きかった。

 警戒。

 興味。

 まだ許容には遠い。

 リオはパンの欠片を落ち葉の前に置き、灰耳鼠の呼吸に合わせるように笛を鳴らした。

 逃げるなら逃げればいい。

 無理に捕まえるつもりはない。

「怖いものは、俺が先に見る。お前は、音だけ拾ってくれ」

 灰耳鼠がパンの欠片をくわえた瞬間、リオは細く息を吐いた。

 契約の糸を伸ばす。

 押しつけない。

 縛らない。

 ただ、向こうが触れてもいいと思った分だけ、こちらを開く。

 灰耳鼠の小さな耳が震えた。

 次の瞬間、リオの中に屋敷の音が流れ込んできた。

 床下を走る細い足音。

 壁の中の空洞。

 遠くで揺れる金属。

 使用人の靴音。

 護衛の鎧の擦れる音。

「契約成立」

 リオは小さくつぶやいた。

「ここから先は、俺の責任だ」

 そして今、その耳が新しい音を拾っていた。

 屋根の上に、一人。

 庭の外壁を越えたところに、二人。

 屋敷の中に、妙に静かな足音が一人。

 夕方にはなかった音だ。

 夜が深まるにつれて、敵の配置が少しずつ近づいていた。

     ◇

 二階の子供部屋では、ユアン・クレメルが寝台の上で毛布を握りしめていた。

 金色の柔らかい髪に、泣き腫らした目。年は六歳と聞いていたが、今はもっと幼く見える。

 部屋の中には母親と二人の侍女がいた。

 一人は寝台の近くで水差し持っている。もう一人は壁際に控え、顔を伏せていた。まだ若い侍女だった。指先が小さく震えている。

 ネムは部屋に入ってすぐ、足を止めた。

 ユアンを見るより先に、部屋全体をゆっくりと見渡す。窓辺の花瓶。壁に掛けらた小さな聖画。枕元の香炉。子供用の木馬。どれも、貴族家の子供部屋にあって不自然なものではない。

 だが、ネムの目が香炉で止まった。

「……リオちゃん」

「はい」

「この部屋、眠れないように作られているわ」

 ユアンの母親が、青ざめた顔で息を呑んだ。

「そんな……」

 リオは香炉を見る。

 見た目は通だ。薄い青磁の器に、眠り草を乾燥させた香が入っている。むしろ眠りを助けるためのものに見える。

「香炉ですか?」

「ええ。眠り草に、ほんの少しだけ逆向きの呪いが混ぜてある。眠り落ちる瞬間だけ、不安と恐怖を引っかけるの。医者や神官が見ても、ただの寝不足に見えたでしょうね」

 ネムは静かな声で言った。

 責める響きはない。

 しかし、部屋の空気は冷えた。

 ユアンの母親は震える手で口元を押さえる。

「それは……昨日、侍女が新しいものに替えたばかりで……。眠り草の香が切れたからと……」

 リオの視線が、壁際の侍女へ向いた。

 侍女は顔を伏せたまま、動かない。

 だが、灰耳鼠の耳が拾っていた。

 心音が速い。

 呼吸が浅い。

 怯えている。

 戦おうとしている音ではない。

 逃げたいのに、逃げられない者の音だ。

 ネムはユアンの寝台のそばに立ったまま、壁際の侍女へ目を向けた。

「あなたが替えたのね」

 侍女の肩が、びくりと跳ねた。

「わ、わたしは……その、言われただけで……」

「誰に?」

 ネムの声は柔らかかった。

 侍女は答えようとして、唇を震わせた。だが、言葉は出てこない。喉を押さえ、苦しそうに息を吸う。

 リオは目を細めた。

 呪いだ。

 口止めの類。

「ネムさん」

「ええ」

 ネムは侍女へ一歩近づいた。

 侍女は後ずさろうとしたが、足がもつれた。そのまま床に座り込み、涙をこぼす。

「ごめんさい……弟が、借金で……あの人たちが、香炉を替えるだけでいいって……ユアン様には害はないって……」

 ユアンの母親が息を呑む。

 侍女は何度も首を振った。

「知らなかったんです。本当に、眠れなくなるなんて、知らなくて……」

 ネムは膝を折り、侍女と目線を合わせた。

「今は喋らなくていいわ。喋ろうとすると、喉に仕込まれた呪いが動く」

「の、呪い……?」

「大丈夫。眠っている間に外してあげる」

 ネムが短く歌った。

 それは先ほどまでの子守歌とは違う、さらに短い一節だった。

 侍女の目から力が抜ける。

 泣き顔のまま、ふっと呼吸が落ち着いた。

 次の瞬間、侍女は糸がほどけるように、その場で眠りに落ちた。

 倒れる前に、リオが肩を支える。

 ユアンの母親は言葉を失っていた。

 ネムは眠った侍女を見下ろし、静かに言った。

「この子は襲撃者ではありません。利用された側です。ですが、あとで話は聞く必要があります」

 その時だった。

 廊下の奥で、小さな物音がした。

 灰耳鼠の耳が、その足音を拾う。

 軽い。

 だが、軽すぎる。

 使用人の歩き方ではない。

 リオは眠った侍女をそっと床に横たえ、扉へ視線を向けた。

 扉が小さく叩かれる。

「奥様。お茶をお持ちしました」

 侍女の声だった。

 けれど、部屋にいる侍女たちの声ではない。

 ネムはユアンの手を握ったまま、静かに答えた。

「入って」

 扉が開く。

 盆を持った侍女姿の女が、部屋へ入ってきた。足音は軽い。視線も伏せている。見た目だけなら、よく訓練された使用人そのものだった。

 だが、リオは廊下側で足を止めた。

 違う。

 あの足音は、盆の重さを計算していない。

 ネムも気づいていた。

「そのお茶、少し熱すぎるわね」

 女の指がわずかに止まる。

 次の瞬間、盆の裏から細い刃が滑り出した。

 リオが動くより早く、ネムが歌った。

 それは子守歌の続きだった。

 短い一節。

 ユアンを起こさないほど小さく、母親を怯えさせないほど穏やかで、けれど侵入者の呼吸だけを正確になぞる声。

 侍女姿の襲撃者は、一歩踏み込んだ姿勢のまま、目を見開いた。

 刃が床に落ちる。

 続いて、体から力が抜けた。

 糸を切られた人形のように崩れるのではなく、眠る場所を見つけた子供のように、静かに膝を折る。

 ネムはユアンの手を握ったまま、襲撃者を一瞥しただけだった。

「リオちゃん」

「はい」

「二人とも廊下へ。ここで寝られると邪魔だから」

「……了解です」

 リオは眠った二人を見下ろした。

 一人は利用された侍女。

 もう一人は、外から入り込んだ襲撃者。

 同じように眠っていても、事情はまるで違う。

 リオは小さく息を吐いた。

「相変わらず、無茶苦茶だな」

「聞こえているわよ」

「聞こえるように言いました」

 ネムは少しだけ笑い、ユアンへ視線を戻した。

「奥様。この香炉は私が預かります。ユアン君には害が残らないようにしますから、今は少しだけ離れていてください」

「でも、あの子は……」

「大丈夫です。眠るのは怖いことではないと、今夜、思い出してもらいます」

 ユアンの母親は、泣きそうな顔でうなずいた。

 リオは眠った侍女を廊下へ運び、待機していた護衛に引き渡した。

「眠っているだけです。縛って、奥へ。目を覚ましても近づかないでください」

「わ、分かった」

 護衛はまだ何か聞きたそうだったが、リオの顔を見て口を閉じた。

 リオは廊下の音へ意識を戻す。

 屋根の足音が近づいている。

 庭の二人は、外壁を越えたまま動いていない。植え込みの影で、合図を待っている。

 屋敷の中にいた妙に静かな足音は、もう階段の下まで来ている。

 内部の協力者が倒れたことには、まだ気づいていない。

 だが時間の問題だ。

 部屋の中では、ネムがユアンと同じ目線まで身を屈めていた。

「ユアン君」

 ネムの声は柔らかい。

「眠るのが怖いのね」

 ユアンは毛布を握ったまま、小さくうなずいた。

「目を閉じると、誰かが来る気がする……。怖い夢を見る。寝ちゃだめだって、頭の中で声がする」

「そう」

 ネムは否定しなかった。

 怖くない、とは言わなかった。

 ただ、そっと手を差し出す。

「その声は、あなたの声じゃないわ。もう私が見つけたから大丈夫」

「本当?」

「ええ。だから今夜は、眠ってもいいの」

 ユアンはまだ不安そうだった。

 ネムは続ける。

「魔法で眠らせてあげることもできるわ。でもね、それだと明日の夜、また怖いままなの」

 ユアンの目が揺れた。

「じゃあ、どうするの……?」

「眠っても大丈夫だった、って覚えるのよ。今夜、ここで」

 ネムはユアンの手を取った。

「だから、子守歌で眠りましょう。あなたが自分で目を閉じて、自分で眠れるように」

 リオはその言葉を、扉のそばで聞いていた。

 胸の奥が、少しだけ静かになる。

 昔、自分も同じような声を聞いたことがある。

 眠れなかった夜。火の夢を見たくなくて、寝台の上で膝を抱えていた夜。

 その声を聞くと、眠るのが少しだけ怖くなくなった。

 だからリオは、ネムを苦手だと思いながらも、嫌いにはなれない。

 ユアンは震える息を吐いた。

 ネムが子守歌を歌い始める。

 静かな歌だった。

 部屋の外にいるリオにも聞こえるか聞こえないか、その程度の声量。けれど、灰耳鼠の耳を通して聞くと、歌は驚くほど細かく揺れていた。

 ユアンの呼吸に合わせている。

 心拍に合わせている。

 怖がるたびに少しだけ音を下げ、安心した瞬間に次の節へ進む。

 ただ眠くなる歌ではない。

 眠るための道を、ひとつずつ敷いていく歌だった。

 その時、廊下の奥で小さな物音がした。

 リオは一歩前へ出て、袖の中の灰耳鼠に意識を送る。

 壁裏へ。

 灰耳鼠が袖から飛び出し、壁の小さな隙間へ滑り込んだ。

 廊下の角から、別の侍女が現れた。

 いや、侍女の服を着た何者かだ。

 足音が違う。衣擦れの音もおかしい。歩幅が広すぎる。

 リオは短く息を吐いた。

 できれば声を出させたくない。

 侍女姿の女が顔を上げた。

 目が合う。

 次の瞬間、袖口から刃が滑り出した。さっきの侍女と、同じ仕込みだ。

 リオは近くの燭台を蹴った。倒れた燭台が床を転がり、侍女の足元に当たる。

 ほんのわずかに体勢が崩れた。

 それだけで十分だった。

 リオは懐に入る。

 ガルドに何度も叩き込まれた、相手の力が乗る前に崩す動き。

 刃を持つ腕を外へ流し、肘を押さえ、肩を壁に打ちつける。

 侍女姿の襲撃者が短く息を詰まらせた。

 近くにいた護衛が慌てて駆け寄り、押さえ込む。

 リオは床に落ちた細い刃を拾い、匂いを確かめた。

 甘い。

 眠り薬ではない。

 むしろ、眠気を飛ばすための刺激薬だ。

 眠らせないために使うもの。

 ユアンの不眠と同じ匂いがする。

「ネムさん」

 リオは子供部屋の中へ声をかけた。

 扉の向こうで、ネムの歌が止まらないまま、ほんの少しだけ調子を変えた。

 声は歌の合間に滑り込むように届く。

「状況は?」

「屋敷の中の一人は押さえました。屋根に一人。庭に二人。庭の二人はもう外壁を越えています。ただ、まだ動いてない。植え込みの奥で合図待ちです」

 ネムの声がわずかに低くなる。

「屋根の一人が近いわね」

「はい。先にそっちを止めます」

「庭の二人は?」

「動く前に潰します。庭番が嫌ってる棘尾蜥蜴がいます。あれを起こせば、隠れている場所から出せる」

「危なくない?」

「蜥蜴にとっては、侵入者の方が危ないです」

「あなたに聞いたのだけれど」

「……たぶん、大丈夫です」

 ネムは少しだけ黙った。

「たぶん、は後で説教ね」

「了解です」

 優先順位は明確だった。

 ユアンに近い敵から潰す。

 リオは廊下の窓へ向かった。

 外では、屋根の上の足音が止まっている。

 灰耳鼠の耳を通して、金属の擦れる音が聞こえた。

 鉤縄。

 窓から入るつもりか。

 リオは窓枠に手をかけ、鍵を外した。

 閉めていても壊される。

 開けて待つ。

 夜風が流れ込む。

 次の瞬間、黒い影が屋根から飛び込んできた。

 襲撃者は窓の内側で剣を抜こうとした。

 だが、足元に灰耳鼠がいた。

 小さな魔物が鳴く。

 人間にはほとんど聞こえない高い声。

 襲撃者の足が、ほんの一瞬だけ止まった。

 リオはその隙に、窓枠へ置かれていた花瓶を掴む。

 バルカなら怒るだろう。

 花器の扱いが雑だ、と。

 だが今は厨房ではない。

 リオは花瓶を襲撃者の手首に叩きつけた。

 剣が落ちる。

 続けて、膝裏を蹴る。

 襲撃者の体が崩れたところを、護衛が今度こそ押さえ込んだ。

 リオは袖の中に戻ってきた灰耳鼠を、そっと手のひらに乗せた。

 小さな体が震えている。

 怖がっている。

 無理もない。

「助かった。帰れ。今日はもう十分だ」

 リオが窓枠へ降ろすと、灰耳鼠は一度だけこちらを見上げた。

 小さな黒い目には、まだ恐怖が残っている。けれど、それだけではない。ほんの少しだけ、こちらを覚えた目だった。

 リオが指先で背を軽く押すと、灰耳鼠は壁の隙間へ消えていった。

 護衛は何か言いかけたが、リオはもう庭を見ていた。

 庭の二人は、まだ動いていない。

 植え込みの影に潜み、こちらの混乱を待っている。

 リオは懐の木笛を取り出した。

 短く、低い音を鳴らす。

 庭の石垣の下で、棘尾蜥蜴が動いた。

 体長は子犬ほど。暗い緑色の体に、棘の並んだ尾。気性は荒いが、縄張り意識が強い。夜目が利き、足音に敏感で、侵入者を嫌う。

 問題は、人間もわりと嫌うことだ。

 リオは窓枠に片足をかけ、庭の陰に目を向けた。

 襲撃者たちはまだ、自分たちが先に見つかっていることに気づいていない。

 なら、動く前に崩せる。

 リオはもう一度、笛を鳴らした。

 棘尾蜥蜴の尾が、植え込みの奥でゆっくりと持ち上がる。

 背後の部屋では、ユアンがようやく眠りに落ちたらしい。

 ネムの歌が止まる。

 静かな夜が、一瞬だけ戻った。

 その静けさの中で、リオはつぶやく。

「さて」

 眠気の残る目が、ゆっくりと細くなる。

「子供を起こす前に終わらせるか」


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