プロローグ ぎりぎり登校
お読みいただきありがとうございます。
リオの学園生活と、十三番窓口の裏仕事を楽しんでいただければ幸いです。
「リオ……起きなさい」
優しい声が聞こえた。
とても近くて、ひどく懐かしい声だった。
リオは目を閉じたまま、その声に身を預けた。額に触れる手が温かい。ずれた毛布を肩まで掛け直す指先が、ゆっくりと髪を撫でていく。
顔は、もう少し曖昧になっている。
それなのに、手の温度だけは覚えていた。
「……母さん」
声にした瞬間、温もりが赤い光に変わった。
燃えていた。
家が。畑が。井戸のそばの古い木が。朝になると母と歩いた小道が。
夜空の下で、村が燃えていた。
怒号が飛ぶ。馬が暴れる。どこかで木材が崩れ、火の粉が風に巻かれて舞い上がる。吸い込んだ空気が喉を焼いて、リオは咳き込みながら前へ出ようとした。
でも、小さな足は動かなかった。
炎の向こうで母が振り返る。
「リオ! 来ちゃだめ!」
母の声は、さっきまでの優しい声とは違っていた。
その隣で、父が何かを押しとどめるように立っていた。顔はよく見えない。ただ、こちらに向かって叫ぶ声だけが、今でも耳に残っている。
「お前だけでも逃げろ!」
リオは手を伸ばした。
届くはずがないと、どこかで分かっていた。
それでも伸ばした。
赤い光が視界を埋める。
熱い。
熱い。
熱い。
リオは跳ね起きた。
薄暗い天井が見えた。
焼け落ちる梁ではない。少し歪んだ木の天井だ。古いランプがぶら下がり、窓の隙間から差し込む朝の光が床板に細い線を作っている。
王都三番街、眠り鹿の宿。
その二階にある、リオの部屋だった。
リオはしばらく息を整えてから、額に手を当てた。前髪が汗で張りついている。指先でそれを払うと、まだ胸の奥に残っていた熱が、少しだけ遠のいた。
「……久しぶりだな」
昔は何度も見た夢だ。
今はもう、毎晩ではない。
忘れたわけではない。乗り越えた、というほど立派でもない。ただ、思い出さないまま朝を迎えるのが、少しずつ上手くなっただけだった。
ぼんやりと窓の外を見る。
その時、街の鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
リオは固まった。
「……三の鐘?」
数秒遅れて、意味が頭に届く。
次の瞬間、寝台から転がり落ちるように飛び起きた。
「遅刻だ!」
夢の余韻は、一瞬で吹き飛んだ。
上着を引っつかみ、袖に腕を通しながら鞄を肩に掛ける。制服の襟は曲がっていたが、鏡を見る時間はない。片方の靴紐だけ結び、もう片方は足で踏みつけながら部屋を飛び出した。
階段を駆け下りると、一階の食堂では女将のマルタがカウンターを拭いていた。
丸い頬に、いつも通りのんびりした笑みを浮かべている。リオがどれだけ慌てていても、この人だけは朝の速さが変わらない。
「あら、リオちゃん。今日は元気ねえ」
「元気じゃないです。遅刻です」
「でしょうね。三の鐘、鳴ったもの」
「知ってたなら起こしてくださいよ」
「二の鐘で一度起こしたわよ。『あと百数える』って言って、また寝たじゃない」
言われて、リオはほんの少しだけ記憶を探った。
たしかに、何か返事をした気がする。
百を数えた覚えはない。
「……それは寝言です」
「便利な寝言ねえ」
マルタは笑いながら、布に包んだ小さなパンを投げてよこした。リオは反射的に受け取る。
「朝ごはん。走りながらでも食べなさい」
「ありがとうございます!」
「それから靴紐」
リオは右足を見た。
ほどけた靴紐が床を引きずっている。
「途中で結びます!」
「それ、転ぶ子の台詞よ」
「転ぶほど子供じゃないです!」
「昨日も階段でつまずいたでしょう」
「あれは段差が悪いです!」
言い返しながら扉を開けると、マルタの声が背中に届いた。
「行ってらっしゃい。帰ってきたらスープ、温めてあげるから」
リオは振り返らずに片手を上げた。
「帰れたらお願いします!」
「帰ってきなさいな」
その声は、いつも通り軽い。
けれど、最後の一言だけは少しだけ強かった。
リオは答えず、王都の朝へ飛び出した。
通りはもう動き始めていた。焼きたてのパンの匂い、石畳を叩く荷馬車の車輪、露店の客引き、神殿へ向かう人々の足音。寝不足の頭には少しうるさい。
それでも、通りの先に見えてきた白い尖塔だけは、胸を軽くした。
アルフェン高等技能院。
剣術、魔法、錬金術、神聖術、魔導具工学、召喚術、契約術、そして特殊技能。
身分ではなく才能を拾う、世界最高峰の学園。
もちろん、貴族の子弟は多い。だが平民でも、何か一つ抜けたものがあれば門を叩ける。リオもその一人だった。
テイム術の一芸推薦。
ただし、学園に入ってからというもの、その肩書きにふさわしい生活をしているかは怪しかった。
遅刻が多い。欠席もある。授業中はよく寝る。
そのうえ、テイマー推薦生なのに、普段は魔物を一体も連れていない。
学園でのリオは、だいたいそんな評価だった。
大通りへ出たところで、背後から声が飛ぶ。
「リオー! また遅刻かよ!」
振り向くと、カイル・レオンハートが鞄を片手に走ってきていた。短く刈った明るい茶髪が朝日に跳ね、制服の上着はもう半分開いている。剣術科らしい広い肩のせいか、同じ鞄でもリオのものより軽そうに見えた。
リオは息を切らしながら前を向き直る。
「違う。これは……ぎりぎり登校だ」
「遅刻って言うんだよ、それ!」
「お前もだろ!」
「俺は余裕だったんだよ。お前を見つけたから、わざわざ声かけてやっただけで」
「じゃあなんでそんなに息切れてるんだ」
「坂が悪い!」
「俺の靴紐と同じ言い訳するな」
「お前、靴紐ほどけてんじゃねえか!」
カイルの指摘で、リオは走りながら右足を見た。
たしかに、まだほどけている。
「気づいてた」
「気づいてるなら結べよ!」
「止まったら遅刻する」
「転んだらもっと遅れるだろ!」
「その時は先に行け」
「置いていったら、お前あとで絶対『薄情者』って言うだろ!」
言いながら、カイルはリオの横に並んだ。
そのまま二人で坂を駆け上がる。白い正門はもう見えている。門番役の教師が、懐中時計を片手に立っていた。
リオは小さく息を呑む。
「あの顔はまずい」
「お前も分かるか」
「分かる。怒ってる時の顔だ」
「いや、あれは怒る前だ。怒ってる時は眉がもう少し下がる」
「なんで詳しいんだ」
「昨日も見た」
「お前も大概だな」
最後の鐘が鳴り終わる寸前、二人は正門へ滑り込んだ。
教師がゆっくりと顔を上げる。
「リオ・アルクス。カイル・レオンハート」
「はい」
「はい!」
カイルだけ返事がやけに良い。
教師は二人を見比べ、まずリオの足元に目を落とした。
「靴紐」
「今から結びます」
「門の外で結んでいたら、遅刻だったな」
「つまり間に合いました」
「そういうところだぞ、君は」
教師は深いため息をついた。
怒鳴られなかっただけ、まだ運がいい。
「教室まで走れ。次の鐘が鳴ったら、今度こそ遅刻扱いにする」
「はい!」
カイルが返事をして走り出す。リオも慌てて続いた。
校舎へ向かう石畳の道には、すでに多くの生徒が歩いていた。分厚い魔導書を抱えた魔法科の生徒。腰に訓練用の剣を下げた武技科の生徒。肩に小さな鳥型魔物を止まらせた契約術系の生徒。
その横を、リオは魔物を連れずに駆け抜ける。
視線を感じないわけではない。
テイマー推薦生なのに魔物を連れていないのは、やはり少し目立つ。
それでも、リオは足を止めなかった。目立ちたくないからこそ、今は走るしかない。
「なあ」
カイルが横から声をかけてきた。息は切れているが、まだ話す余裕はあるらしい。
「お前、昨日もバイトだったのか? そんなに宿代きついのか?」
「まあな。宿代と飯代と教材費。あと制服の修繕費が結構かかる」
「制服そんな壊すことある?」
「……たまに階段で転んだり」
「嘘が下手か」
カイルは笑ってから、少しだけ声を落とした。
「……お前、たまに怪我してる日あるだろ。そのバイト、そんなに危ないのか?」
「危なくはない」
「怪我して帰ってきてるやつの言葉じゃねえんだよ、それ」
「大丈夫だって。ちゃんと給料は出てる」
「金の話じゃねえよ」
カイルはじろりとリオを見る。
リオは少し考えた。
昨夜のことを、そのまま話すわけにはいかない。王都北区の屋敷で起きた魔導獣の鎮静。地下の水路を走った小型魔物の追跡。夜明け前に宿へ戻り、マルタに無言でスープを出されたこと。
どれも、学園の友人に説明するには向いていなかった。
「……大人の事情だ」
「十五歳が言う台詞じゃねえだろ」
「俺もそう思う」
「じゃあ言うなよ」
カイルは呆れたように笑ったが、それ以上は聞いてこなかった。
リオはその距離感がありがたかった。
カイルも、他の友人たちも、リオの“アルバイト”について詳しく知らない。夜に出かける。朝帰りする。授業中に寝る。たまに怪我をしている。
知っているのは、その程度だ。
それでいい。
ここは仕事場ではない。
リオにとって学園は、あの夜からずっと欲しかった普通の日常だった。
「とりあえず、今日は寝るなよ」
カイルが言った。
「努力はする」
「その返事、もう寝る気じゃねえか」
「寝る気はない」
「眠る気は?」
「少しある」
「正直すぎるだろ」
教室棟に入ると、廊下には朝のざわめきが満ちていた。
誰かが宿題を写している。誰かが実技の組み合わせで揉めている。小型魔物が廊下を走り、飼い主の女子生徒が慌てて追いかけている。
教室に入ると、前方の席にいたセナ・ラティスが振り向いた。
栗色の髪をきちんと結び、膝の上には耳の長い小型魔物を乗せている。セナはリオと同じ契約術系の推薦生だが、授業態度はほとんど正反対だった。
「またぎりぎり?」
「間に合った」
「席に着くまでが登校よ」
「先生と同じことを言うな」
「先生に言われる前に言ってあげてるの」
セナはそう言ってから、リオの襟元を見た。
「襟、曲がってる」
「知ってる」
「知っててそのままなの?」
「直す時間がなかった」
「今あるでしょ」
セナはため息をつき、リオの襟を軽く直した。
膝の上の耳長魔物が、リオをじっと見上げる。丸い目に、敵意はない。ただ興味があるだけだ。耳の角度からして、飼い主の膝から降りるほどではない。
リオはほんの少しだけ視線を合わせ、それからすぐに外した。
契約していない魔物に、必要以上に目を合わせ続けるのは良くない。魔物によっては、それだけで挑発になる。
セナが首をかしげた。
「……今、何かした?」
「何も。可愛いから見てただけだ」
「この子、リオを見るといつも変な反応するのよね」
「嫌われてるんじゃないか」
「嫌いな相手を見る目じゃないわ。むしろ、寄って行きたそうな顔してる」
「じゃあ、来てくれればいいのに」
「ほかの人が相手だと、もっと警戒するのよ。リオとは長い付き合いだからかしら」
カイルが横から笑った。
「まあ、リオだしな」
「説明になってないわよ」
「俺に魔物のことは分かんねえもん。でもテイマーなんだから、懐かれるのは普通だろ」
「……普通はね、契約してない魔物は、そこまで気を許さないものなの」
セナはそこまで言って、なぜか自分で首をかしげた。
カイルは悪びれずに肩をすくめている。
その時、教室の扉が開き、教師が入ってきた。ざわめきが少しずつ収まっていく。
リオは自分の席に座り、鞄を机の横に掛けた。窓の外では、学園の庭に植えられた白花樹が朝風に揺れている。
今日こそは、ちゃんと授業を受ける。
少なくとも、一限の半分くらいは。
そう心に決めたリオのまぶたは、教師が出席簿を開いたあたりで、すでに重くなり始めていた。
「リオ・アルクス」
「……はい」
「声が寝ている」
「起きています」
「目が寝ている」
「目だけです」
教室のあちこちで笑いが漏れる。
教師も怒るというより、半分諦めた顔をしていた。
平和だった。
少なくとも、この瞬間だけは。
昼休みの終わり。
リオは図書館の隅で、開いた本を枕にするかどうか真剣に悩んでいた。内容は初級魔物分類。授業で使うには簡単すぎるが、寝るにはちょうどいい厚さだった。
その時、机の上に別の本が置かれた。
薄い革表紙の本だ。
顔を上げると、白い手袋をした司書が立っていた。
学園では「白紙先生」と呼ばれている臨時司書である。本名を知る生徒はほとんどいない。年齢も、出身も、なぜ臨時なのかもよく分からない。
ただ、本の場所を尋ねれば必ず答えが返ってくるので、生徒たちからは妙に頼られている。
リオにとっては、もう少し厄介な相手だった。
「リオ君。探していた本です」
「俺、本なんて探してませんけど」
「ええ。ですから、こちらで探しておきました」
「……それは探していた本じゃなくて、持ってこられた本です」
「細かい違いですね」
「大事な違いです」
白紙先生は静かに微笑んだ。白い手袋の指先が、薄い革表紙を軽く叩く。
リオは本を見た。
古い魔物分類の入門書。授業で使うには簡単すぎる。昼寝の枕にするには、さっきの本より少し硬そうだ。
「今じゃないと駄目ですか」
「今でなくても構いません。放課後までに読んでいただければ」
「読むことは確定なんですね」
「せっかく探しましたので」
「俺は頼んでません」
「ええ。ですから、こちらで判断しました」
その言い方に、リオは嫌な予感を覚えた。
仕方なく本を開く。
数ページめくったところで、薄い封筒が挟まっていた。
表には差出人も宛名もない。ただ、封の隅に小さく、十三という数字が刻まれている。
リオは封筒を見つめたまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと本を閉じる。
「今日は早く寝る予定だったんですけど」
「良い予定ですね」
「褒めるなら邪魔しないでください」
「私は邪魔をしていません。予定が少し変更されただけです」
「それを邪魔って言うんです」
白紙先生は否定しなかった。
代わりに、少しだけ声を落とす。
「放課後までは学生でいてください」
その一言で、リオは文句を飲み込んだ。
放課後までは。
つまり、その後は違う。
白紙先生は何事もなかったように本を一冊抱え直し、静かに本棚の奥へ戻っていく。足音はほとんどしなかった。
リオは机に突っ伏した。
母の夢。ぎりぎりの登校。一限の居眠り。そして、十三番窓口からの依頼。
どうやら今日も、のんびりした学園生活とはいかないらしい。
「……アルバイト、忙しすぎだろ」
小さくこぼした声は、図書館の静けさに吸い込まれて消えた。
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