幕間 獣の来る家
お読みいただきありがとうございます。
少しだけ、昔の話を。
その夜、リオは珍しい夢を見た。
炎の夢では、なかった。
炎の、ずっと手前。まだ何も焦げていない頃の、あの村の夢だった。
◇
朝、戸を開けると、庭に鳥が降りている。
一羽ではない。屋根の縁に三羽、薪の山に二羽、井戸の縁に大きいのが一羽。全部、リオが戸を開けるのを待っていたように、いっせいにこちらを向く。
「おはよ」
小さなリオが言うと、鳥たちは満足したように、それぞれの朝に戻っていく。
塀の向こうからは、鹿が首を伸ばしていた。裏の林の鹿だ。母さんの育てている豆の葉を狙っているのだが、リオと目が合うと、少しだけ気まずそうに首を引っ込める。
「だめだよ。豆は、母さんの」
鹿は、分かった、というように耳を振って、林へ帰っていった。
「あらあら」
洗い物を抱えた母さんが、戸口で笑っている。
あたたかい色の髪を、ゆるくまとめた人だった。顔の輪郭は、夢の中でも、もう少しぼやけている。それでも、笑っている時の空気の色だけは、はっきりと覚えている。
「今日も、お友達が増えてるのねえ」
「ふえてない。おなじこ」
「あら、そう? 母さんには、毎日増えてるように見えるけど」
昼には、村の犬たちが門の前に並んだ。散歩のついでに寄っていくのである。夕方には、猫が窓辺で待っていた。定位置らしい。名前は、猫が嫌がるので付けていない。
リオが歩けば、獣が寄ってくる。
リオが座れば、膝に何かが乗ってくる。
それが当たり前の家だったので、リオはずっと、どこの家もそうなのだと思っていた。
「――ははっ。見ろよ、また増えてる」
夕暮れに帰ってきた父さんは、庭の鳥の数を数えて、大きな声で笑った。
背の高い人だった。日に焼けた首と、大きな手と、笑うと目じりに寄る皺。抱き上げられると、世界が急に高くなった。
「さすがは、うちの子だ」
父さんは、リオを肩に乗せて、そう言った。
何度も言うので、リオはそのたびに聞いた。
「なんで、さすがなの」
「うちの家系はな、代々、獣に好かれるんだ。じいさんも、そのまたじいさんも。……ただなあ、リオ。お前のは、その中でも飛び抜けてる。父さんが、ちっと妬けるくらいにな」
「やける?」
「羨ましい、って意味だ」
父さんは笑って、それから、少しだけ声を落とした。内緒話の声である。
「いいか、リオ。獣とやっていくのに、一番大事なことを教えてやる」
「うん」
「目を、合わせすぎるな」
肩の上で、リオは首をかしげた。
「なかよしなのに?」
「仲良しでもだ。目ん玉ってのはな、獣にとっちゃ強い光なんだ。じっと見るのは、強い言葉で怒鳴るのと同じ。……見るなら、そっと見ろ。それだけで、向こうの気が楽になる」
そっと見る。
小さなリオは、庭の鳥を、そっと見た。鳥は羽づくろいをやめなかった。
「……ほんとだ」
「だろう」
父さんの、得意げな声がした。
その手が、リオの頭をひとつ、大きく撫でた。
◇
父さんと母さんは、時々、二人して家を空けた。
仕事、なのだそうだ。何の仕事かは、聞いても「友達が、困っててな。その手伝いだ」としか教えてくれなかった。
留守の間、リオは隣の家に預けられた。寂しくは、あまりなかった。庭には鳥が来たし、窓辺には猫がいたし、それに――両親の帰りは、いつも賑やかだったからだ。
帰りの荷馬車の音より先に、村中の犬が吠える。歓迎の声である。
そして、たまに。
本当にたまに、両親と一緒に、大きな体の客人が来た。
戸口を潜るのに頭を屈める、山みたいな人だった。顔は、夢の中では影になっていて、見えない。ただ、その人が上着を脱いで椅子に座ると、家の椅子が急に小さく見えたことと、母さんがその人の湯呑みだけ一回り大きいのを出したことは、覚えている。
客人は無口で、リオが膝によじ登っても、何も言わなかった。
何も言わずに、大きな手のひらで、頭をひとつ、撫でた。
父さんとは、夜遅くまで、低い声で何かを話していた。話の中身は、子供の耳には届かない。ただ、時々、帳面をめくるような紙の音がした。
◇
夕食の湯気。
豆のスープと、固いパンと、母さんが果物を切る音。
「リオ、ほら、こぼさないの」
差し出された手が、口の端を拭ってくれる。
その手の、温度。
あたたかいような、少しひんやりしているような、あの、手の温度――
夢は、そこで終わった。
炎は、来なかった。
来る手前で、ふつりと途切れて、リオは眠り鹿の宿の天井を見ていた。
……もう少し、見ていたかった。
目が覚めて、最初に思ったのは、それだった。炎の夢なら、覚めてくれてありがたい。でも、こんな夢なら――あの湯気と、手の温度の続きなら、もう少しだけ。
珍しいことを考えている自分に気づいて、リオは小さく息を吐いた。
窓の外は、もう明るい。
頬に手をやる。濡れては、いなかった。
ただ、口の端に、拭われたばかりのような感触が、まだ少しだけ残っている気がした。
「……目を、合わせすぎるな、か」
天井に向かって、小さく呟く。
いつからやっているのか、思い出せなかった作法の、一番最初の声を、久しぶりに聞いた朝だった。
階下から、朝食の匂いが上がってくる。
リオは寝台を降り、顔を洗いに降りていった。
「あら、おはよう。……いい顔ね。いい夢でも見た?」
鍋をかき回しながら、マルタが目を細める。
リオは少しだけ考えて、答えた。
「……たぶん」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




