第27話 十一匹目(前編)
お読みいただきありがとうございます。
セナの家、二度目の訪問回です。
その相談は、放課後の教室で、妙な前置きから始まった。
「へ、変な意味じゃないのよ」
「……まだ何も言ってないけど」
「先に言っておいただけ」
セナは腕の中のフワを撫でつけながら、少しだけ早口で続けた。
「うちに、新しい子が来たの。ひと月前に。……それでその、あなたに、見てほしくて」
「新しい子」
「ノルっていうの。夜目の利く、黒い子。夜の見張りをお願いしたくて迎えたの。……この子と契約できたら、十一匹目になるわ。でも、まだ契約していない。輪に馴染んでからって決めてるから。それが、ひと月、ずっとこのままなの」
いつもの、十匹の話をする時の顔ではなかった。
「頭では、分かってるのよ。新入りの馴染みにひと月なんて、まだ普通の範囲。焦る方がおかしいって。……でもね。今までの十匹は、家の縁とか、成り行きで来た子たちなの。ノルは、私が初めて、自分の目で選んで、自分から迎えに行った子で」
セナは、フワの綿羽に少しだけ指を沈めた。
「毎晩、みんなのご飯が終わった後に、一匹だけで食べてるのを見てると……理屈が、あんまり効かなくなってきて」
セナは、一度言葉を切って、それから、観念したように言った。
「……別の目が、欲しいのよ。私、ひと月ずっと近くで見すぎて、たぶんもう、見え方が固まってるの。あなた、うちの子たちに好かれてるし。この前の、兄さんの熊の時みたいに、私に見えてないものが見えるかもしれないし」
それから、小さな声で、付け足した。
「……本当は、自分ひとりで、どうにかしたかったんだけど。ひと月かけて、駄目だった。うちの子のことで意地を張って、あの子の一か月を無駄にする方が、テイマーとして駄目でしょう」
意地より、獣。
言うのは簡単で、やるのは難しい順番を、この人はちゃんと守るのだった。
「……俺は、人の契約に何か言えるような立場じゃないけど。見るだけなら」
「それでいいの。見て、思ったことを言ってくれるだけで」
満足はしないが、断れる空気でもなかった。
それに――あのセナが、自分の群れのことで人に頭を下げている。それがどのくらい珍しいことかは、付き合いの長さだけ、よく分かった。
「……今週末なら」
「話が早くて助かるわ」
ちなみにカイルは、剣術科の合同稽古で終日拘束らしい。「兄さんの荷の積み方講座、次こそ受けるって伝えて!」という伝言だけが、先に届いていた。
◇
週末、南門を出て街道を半刻。
白い柵と獣舎二棟のラティス家は、二度目でも変わらず、丁寧に獣を飼う家の顔をしていた。
変わったのは、出迎えの規模である。
門を開けた瞬間、庭の奥から小さな影が三つ、四つ、五つ――鈴尾鼬たちが先陣を切り、苔背亀までが縁側の下から最高速度(当社比)で這い出してくる。セナの腕のフワまでが、我先にと飛び降りて出迎えの列に加わった。あなたは客側でしょう、という話である。
そして全員、セナの前を素通りして、リオの足元に集合した。
「……ねえ。前より、ひどくなってない?」
「気のせいだと思う」
「気のせいで亀が走る?」
前にも、どこかで同じ問答をした気がする。
足元では、鈴尾鼬の一匹が、リオのズボンの裾を軽く引いていた。あの日、熊の耳騒ぎの真下で固まっていた、あの子である。あれ以来、この家の獣たちの中でのリオの扱いは「怖いことを終わらせてくれる人」で固定されてしまったらしい。
「あらあら、まあまあ」
母屋の戸口から、聞き覚えのある柔らかい声がした。
セナの母は、エプロンで手を拭きながら、目を細めた。
「いらっしゃい、リオくん。この前の焼き菓子のお味はどうだった?」
「おいしかったです。宿の女将さんが、作り方を知りたがってました」
「あらまあ。じゃあ帰りに書いて持たせるわね」
手土産の杏の干し果物(砂糖なし・匂いの薄いもの)を渡すと、母は袋の口を覗いて、ふふ、と笑った。
「ちゃんと分かってる子ね」
「娘さんの、指導の賜物です」
「あら」
セナが横で、少しだけ胸を張った。
「兄さんは、今日もいないの?」
「北の街道よ。荷が二日も押してるんですって。……その代わりね」
母は、母屋の奥へ声を投げた。
「あなたー。セナのお友達が来たわよー」
どすん、と床の鳴る音がした。
戸口の光を、大きな影が塞いだ。
熊のような大男だった。セナと同じ栗色の髪を短く刈り、革の前掛けをして、肩には飼い葉の束を担いだままである。
「父さん。この前話した、学園の友達。リオよ」
父さん、と呼ばれた大男は、飼い葉を降ろし、リオの前に立った。
上から下まで、一往復。兄と同じ、値踏みの目である。この家の男たちは、挨拶より先にこれをやるらしい。
ただ、父の視線は、リオの顔でも肩でもなく――足元に集合したままの獣たちの上で、止まった。
「…………」
「あ、あの、父さん?」
「――お前が、耳潜りの、か」
低い声だった。
「ロディスから聞いてる。あいつの相棒の、でかい鎧殻熊がいるだろう。あの耳から、悪い虫を出してくれたそうだな。……世話になった」
大男は、それだけ言って、頭を下げた。
飼い葉の匂いのする、大きな礼だった。
「い、いえ。たまたま、気づいただけなので」
「たまたまで済む腕なら、うちの獣どもがこうはならん」
父――ロドガー・ラティスは、足元の集合を顎で示し、それから、初めて少しだけ笑った。
「昼を食っていけ。話は、それからだ」
その時、獣舎の方から、太い鼻息の音がした。
柵越しに、荷獣が二頭、顔を出している。角の丸い、牛に似た中型魔物である。客の匂いを嗅ぎつけて、様子を見に来たらしい。
ロドガーは振り向きもせず、片手を軽く上げた。
それだけで、二頭は満足したように鼻を鳴らし、獣舎へ引っ込んだ。
声も、糸の気配もない。長い年月だけが作る、手の合図一つの信頼だった。
この家は、父も、兄も、娘も、全員が本物なのである。
◇
昼食は、賑やかだった。
母のよそう量は今日も慈悲がなく、リオの皿には肉が三切れ多かった。ロドガーは黙々と食べながら、時折、短い質問だけをよこした。学園の飯はどうだ。宿はどこだ。眠り鹿か、あすこの女将は元気か。……王都の宿の女将にまで顔が利くらしい。運送屋の網は広い。
セナは家では、皿の並べ方から獣たちの餌の時間まで、全部を仕切っていた。学園の彼女より、少しだけ声が通る。この家の獣まわりは、実質、この末娘が回しているのだと、食卓の風景だけでよく分かった。
昼食の後、庭で、ノルに会った。
板塀の際に積まれた空き箱。その隙間の暗がりに、月色の目が二つ、光っている。
黒い、猫に似た小さな獣だった。耳が大きく、毛は夜の色で、箱の陰から半身だけ出して、じっと庭を見ている。
「ノル。……ほら、お客様よ」
セナが屈んで呼ぶと、ノルは箱の陰から出てきた。
出ては、くるのだ。呼べば来るし、逃げもしない。セナの手から餌も食べる。賢い目で、行儀もいい。
ただ――距離が、ぴたりと一定だった。
セナから二歩。十匹の輪から、五歩。それより内側に、決して入らない。測ったような距離を保ったまま、月色の目は、セナではなく、セナと十匹の間のあたりを、じっと見ていた。
「……ね。こんな感じなの」
セナの声が、小さくなった。
「嫌われては、いないと思う。でも、入ってこない。ひと月ずっと、この距離。……契約は、心が繋がってからって決めてるの。だから、まだ糸も出してない。でも、このままだったら」
リオは、答えず、まず見た。
昼下がりの庭。水場で苔背亀のゴウが甲羅を干し、鈴尾鼬たちが追いかけっこをして、フワが日向の特等席で丸くなっている。十匹の間には、目に見えない道が何本も走っていて、誰がどこを通り、誰にどこを譲るか、長い時間をかけて編まれた決まりが、綺麗に回っている。
そして、その決まりの網の一番外で、月色の目が、じっと、順番を数えている。
水場が空く順番。日向の席次。フワの前を横切っていいのは誰と誰か。餌の皿に近づく列の、暗黙の並び。
ノルが見ているのは、セナではない。十匹でもない。その間に張り巡らされた、決まりの網の方だった。
――ああ。
リオは、なんとなく、分かった気がした。
分かった気がしたが、口には出さなかった。確かめる前に言うのは、読みではなく当てずっぽうである。
「……セナ。夕方の訓練、いつも通りにやってみてくれないか。俺は、そこの縁側で見てるから」
「え、ええ。いいけど……何か、見えたの?」
「まだ。……夕方に、たぶん」
板塀の際で、月色の目が、ぱちり、と一度だけ瞬いた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
【登場人物メモ】
ロディス・ラティス……セナの兄。ギルド所属の職業テイマー(第4話)。今日は配達で不在。
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