第24話 令嬢は沈黙を破る(前編)
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新しいお話です。
その日の窓口の依頼は、久しぶりに平和なものだった。
さる商家の屋根裏に「夜ごと小さな足音を立てる妖精」が住み着いたので正体を確かめてほしい、という相談である。正体は、ヤモリの大家族だった。梁の隙間に親子九匹。屋根裏は冬も暖かく、虫はよく獲れ、一家は今晩も健やかである。触れ糸で聞いた限り、家賃代わりに羽虫を狩っている自負すらあるらしい。「妖精のままにしておきますか」と聞くと、商家の奥方は少し考えて「妖精のままで」と答えた。良い依頼主である。
帳簿の品目欄には『屋根裏の小さな隣人の身元確認 一件』と載るだろう。
仕事を終え、覆面を外して鞄に仕舞い、リオは夕暮れの王都を歩いていた。ここから先は、ただの学生の帰り道である。
近道に選んだのは、貴族屋敷の塀が続く、静かな通りだった。
茶会帰りらしい上等な馬車が、時折り行き交う。石畳は綺麗に掃かれ、街灯には早くも火が入り始めている。
その通りの先に、見覚えのある亜麻色の髪があった。
クラリスだ。
クラリス・ルーメル。同じクラスの、二つ隣の席の令嬢である。授業中に船を漕ぐリオを、小声で注意してくれる係でもある。今日は制服ではなく、淡い色のドレスを着ていた。茶会の帰りなのだろう。
そして、その連れを見て、リオは少しだけ意外に思った。
柔らかな金の髪。糸で吊ったような姿勢。――エリアナ・ローウェン。
魔法科の一年にして、学年を越えて名前の通る、あの侯爵家の令嬢である。学園ではいつも取り巻きを三人連れている人が、今日は二人きりで、街灯の下、別れの挨拶を交わしていた。
クラリスと、ローウェン家の令嬢。あの二人が個人的に親しいというのは、初耳だった。
声をかける間柄でもない。リオはそのまま通り過ぎようとして――
足を、止めた。
通りの反対側から、黒塗りの馬車が一台、妙な速さで近づいてきたのである。
家紋を布で覆った馬車だった。貴族の通りで、家紋を隠す馬車。それだけで、十分にきな臭い。
馬車は金の髪の令嬢の真横で急停止し、扉が開き、屈強な男が三人、降りた。
「――エリアナ様、ですな。主がお待ちです。ご同乗を」
「……存じ上げませんわ。どなたのお使いか知りませんが、お断りします」
「そうおっしゃらず」
男たちの手が、令嬢の腕に伸びる。悲鳴は、上がらなかった。令嬢が上げる前に、大きな手が口元を覆ったからである。
白昼堂々、とは言わない。夕暮れの、人気の絶えた一瞬を選んだ、手慣れた連れ去りだった。
令嬢の体が、馬車に押し込まれる。
クラリスが駆け寄り、男の一人に払いのけられて、石畳に膝をついた。
「エリアナ様……! 誰か……!」
通りに、人はいない。衛兵の詰所は、大通りの向こうだ。
クラリスは弾かれたように顔を上げ、通りを見回し――
リオを、見つけた。
一瞬だった。
「――アルクスさん!!」
亜麻色の髪の令嬢は、ドレスの裾を掴んで、転がるように駆け寄ってきた。
あの依頼の日から、教室の外でその名を呼んだことなど、一度もなかった人である。
「エリアナ様が……お友達が、馬車に……! お願いします、力を貸してください……! あなたにしか、頼めないんです!」
息は乱れ、声は震え、いつも定規のように背筋の伸びた令嬢が、縋るように頭を下げていた。
礼儀の人が、礼儀を全部道端に落として、走ってきたのだ。それだけで、事の切迫は十分に伝わった。
あの日から今日まで、この人は誓いの通り、何も聞かず、誰にも言わずにいてくれた。その人の、初めての頼みである。
なら、答えは決まっている。
馬車の車輪が、石畳を鳴らして走り出す。
リオは、鞄を背負い直した。覆面を出す数秒すら、今は惜しい。それに、あの手際は貴族の私兵だ。裏の稼業に顔が回る類の相手ではない。
「……馬車の行き先の当たりは、つきますか」
「おそらく、ダンヴィル男爵家の別邸。エリアナ様に、しつこく縁談を迫っていた家の、跡取りです。今日の茶会にも、招かれてもいないのに顔を出して」
「分かりました」
リオは、走り出した。
「衛兵への報せと、ローウェン家への使いをお願いします。……あの馬車は、別邸には着かせません」
「……っ、はい!」
背中で、令嬢の返事が聞こえた。
◇
馬車は速い。人の足では、追いつけない。
だから、追いかけない。
リオは走りながら、通りの角の犬に、触れ糸を飛ばした。
――黒い馬車。どっちへ。
――あっち。橋のほう。
次の辻では、屋根の上の鳩に。
――右へ曲がった。急いでる。
その次は、塀の上の猫に。
――嫌な匂いの馬車ね。西の橋の道よ。
川沿いに出ると、水面の鴨の一家までが、首を揃えて西を示してくれた。
王都の獣たちは、今日も律儀だった。往来では他人のふりをしてほしい、と頼んだ矢先に、こちらから頼みごとをして回る羽目になったのは、我ながら勝手だと思う。この借りは、いずれパン耳か何かで、まとめて返す必要がある。
そして、獣の網が示す経路は、一つの答えに絞られていく。
家紋を隠した馬車は、検問のある大通りを避ける。南に抜けるなら、裏道は西の古橋しかない。あの橋は道幅が狭く、馬車は速度を落とす。
――先回りできる。
リオは路地を三本抜け、物干し台を一つ跨ぎ、古橋のたもとに、馬車より先に着いた。
息を整える。夕闇の橋に、蹄の音が近づいてくる。
リオは、橋の真ん中に立った。
そして、迫ってくる二頭の馬に向かって、糸を細く、二度に分けて、順に触れさせた。
――止まってください。
――あなたたちの主のためにも、なります。
馬というのは、賢い生き物である。自分の引いている荷が、今夜どういう類の荷なのか、薄々分かっていたらしい。
二頭は、ぴたりと、止まった。
急停止に、馬車が大きく揺れる。
「お、おい! どうした!」
御者が鞭を入れる。馬は、動かない。石像のように、微動だにしない。
「な、なんだこいつら! 急に――お前、どけ! 小僧、轢かれてえのか!」
「その馬は、もう動きません」
リオは、橋の上から静かに言った。
「馬車の中の人を、返してもらえませんか」
馬車の扉が開き、私兵が三人、降りてきた。夕暮れの連れ去りを担った、あの三人である。
「……ガキが。誰に頼まれた」
「通りすがりです」
「そうかい。なら、痛い目を見るのも通りすがりの運ってことだ」
先頭の男が、無造作に距離を詰めてきた。
素人の子供を排除する時の、油断しきった間合いだった。
リオは、その油断に感謝しながら、半歩だけ踏み込んだ。
相手の重心が乗り切る半拍前。ガルド仕込みの拍の外し方で膝裏を払い、泳いだ体の首筋に、当て身を一つ。
一人目が、石畳に沈んだ。
「……は?」
二人目が目を見開いた時には、リオは橋の欄干を蹴っていた。夕闇と橋の影を背にする位置。逃げ回る獣を追い込む仕事で骨身に染みた、相手の目に一番映りにくい角度である。
影から出た掌が、二人目の顎を跳ね上げた。
三人目は、仲間が二人沈んだ時点で、腰の剣に手をかけたまま、動けなくなっていた。
「……な、なんだ、お前」
「ただの、学生です」
最近、この台詞を言う機会が多い。
「そこから先は、悪いことは言いません。やめませんか」
リオは、剣の柄にかかったままの手を、目で示した。
「あなたがそれを抜いたら、こっちも本気で止めないといけなくなる。……雇われ仕事で抜く剣としては、割に合わないと思います」
男は柄と、沈んだ仲間二人と、微動だにしない馬とを順に見比べ――手を、離した。
賢明な判断だった。
その時、馬車の中から、苛立った若い声が飛んだ。
「何をしている! さっさとそのガキを――」
声を無視して、リオは馬車の扉に手をかけた。
開ける。
薄暗い車内には、若い貴族の男が一人、腰を浮かせて喚きかけた姿勢のまま固まっていた。仕立ての良い上着に、油で撫でつけた髪。頬に、真新しい引っかき傷が三本走っている。
そして奥の壁際に、金の髪の令嬢がいた。
結い上げた髪は半ば崩れ、袖には争った跡。それでも令嬢は壁に身を寄せ、髪から抜いた細いかんざしを、短剣のように構えていた。震えてはいたが、目は死んでいなかった。最後まで抗う目だった。頬の傷三本の出どころは、聞くまでもない。
その目が、扉を開けた相手を見て、大きく見開かれる。
屈強な追手でも、衛兵でもない。
そこに立っていたのは、自分と同じ年頃の、眠そうな目の少年だったからである。
「――お怪我は、ないですか」
「……あなた、は」
夕闇の古橋の上で、侯爵家の令嬢と眠そうな学生は、こうして出会ったのである。




