第22話 水映しの夜 〜千年の祭具と、湖の主〜(後編)
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干ばつのお話、決着です。
祭殿の前は戦場になっていた。
月明かりの下、大剣と大ツルハシが噛み合い、火花が石畳に散る。
打ち合っているのはガルドと、岩のような大男――夜会の晩の発掘屋、バロウである。
その後ろでは、押し入ろうとした手下たちが三人、淡く光る糸の網に絡め取られて石畳の上で芋虫のようになっていた。網の糸にはよく見れば細かい文様が編み込まれ、微かに歌うような余韻を放っている。
リッツの結界札だ。歌入りの網は、暴れるほど締まるらしい。
「よお、随分待たせたなあ、大剣の!」
バロウはツルハシを打ち込みながら、豪快に笑っていた。
「夜会の約束、果たしに来てやったぜ!」
「勝手に果たすな、こっちは仕事中だっつってんだろうが!」
ガルドは大剣で受け、流し打ち返す。冗談のような会話と裏腹に、打ち合いは一切の冗談抜きだった。大男の膂力と発掘屋の足場読みは本物で、ガルドの拍外しがまともに入らない。互いに浅い傷だけを刻み合いながら、二つの得物が月光の下で唸り続ける。
「……っと、そういや俺ぁ、今夜は喧嘩しに来たんじゃねえんだ」
不意に、バロウが打ち合いから跳び退いた。
そして身を翻すと――祭殿の大扉へ、大ツルハシを振りかぶった。
「よせ!」
叫んだのはリッツだった。
「その扉は結界と錠が連動してる! 力ずくで割れば、中の仕掛けごと死ぬぞ!」
「知ってるよぉ!」
バロウは笑った。
「開かねえ宝箱はな、箱ごと運ぶか、箱ごと壊して中身を拾うのが、発掘屋の流儀――」
ツルハシの先が、扉に触れた。
その、瞬間だった。
地の底で、何かが軋んだ。
石畳が震え、泥の平原のあちこちで亀裂から水が糸のように噴き上がる。祭殿の中から、低い低い唸りが響いた。物の音ではない。水脈そのものが、軋む音だった。
リオの背筋を、冷たいものが走った。
主の警告が耳の奥で蘇る。あの夜、村を呑んだ水は、あの祠の中の物が呼んだ水だ――
祭具が扉越しに反応している。
押し入ろうとする者の、欲の心に。
「……おい、こりゃあ」
バロウの顔から、笑いが消えた。
発掘屋は、誰よりも早く気づく生き物である。開けていい封印と、開けてはいけない封印の、匂いの違いに。
ツルハシが扉から離れた。
「――こいつは、駄目だ。持ち出していい類のもんじゃねえ」
そして追い打ちのように。
湖が立ち上がった。
残った水を割って、山が動いたのである。千年の甲羅が月光を弾き、砦のような巨体が四つの脚で夜の中にそびえ立った。地響きが平原を渡り、財団増援の角笛が遠くで鳴り、絡め取られた手下たちが悲鳴を上げた。
大甲様の、全身だった。
「……はっ。役者が違わあ」
バロウはツルハシを担ぎ、心底愉快そうに、それでいて一切迷わずに撤退の口笛を吹いた。網の外に残っていた手下たちが、蜘蛛の子のように散る。
「大剣の! 続きはまた今度だ! 次はゆっくりやろうや!」
「おう!」
ガルドは大剣を担ぎ直し、逃げる背中へ叫び返した。
「おう、また今度な!」
答えは夜の向こうの笑い声だけだった。
網の中の三人だけが、戦果として残った。
◇
翌晩――月が、満ちた。
祭殿の大扉の前に、一同が集まった。
リオ、テッサ、リッツ、ガルド。そして石畳の道の向こう、村の入口には、慎重に慎重に石畳を避けて歩いてきた千年の巨体が身を低くして待っている。
「読み上げてくれ、嬢ちゃん」
「うん。……一層目、右回りに三点。触れる順は、上、下、真ん中」
テッサが結界の編み目を読み、リッツの指がその通りに扉を撫でていく。
鍵穴のない扉の、手順の鍵。千年前の職人が結界に書き残した説明書を、千年後の目と指が一行ずつ解いていく。
最後の一点に、リッツの指が触れた。
ご、と石の奥で音がして――千年閉ざされていた扉が、静かに開いた。
祭殿の中は広い石の間だった。
中央の台座の上に、それはあった。
人の背丈ほどの、石の環である。環の内側には、水が――支えもなく宙に浮いた水の輪が、ゆっくりと回り続けていた。千年、誰にも注がれず、涸れもせずに。
「……水鎮めの祭具」
テッサが囁いた。ゴーグルの下の目が、環の中の流れを追っている。
「すごい……水脈と、直接繋がってる。この土地の水の全部と。だから涸れないんだ。これが、アーティファクト……」
そして儀式が始まった。
主が祭殿の前に進み出る。
千年ぶりに間近で見る祠を前に、山のような巨体が微かに震えていた。
恐れているのだ。あの夜村を呑んだ水を呼んだものに、これから自分の心で触れることを。
リオは主の傍らに立ち、糸を差し出した。
――一人で触れなくて、いいです。
――俺が、繋いでいます。あなたが千年やってきたみたいに、隣で、見ています。
糸の向こうで、山脈が長く息を吐いた。
――……小さいくせに、言うわ。
主の額がゆっくりと下りて、石の環に触れた。
祭具が鳴った。
鐘のような、水音のような澄んだ一声だった。
欲に軋んだ昨夜の唸りとは、まるで違う。祭具は触れた心を映す道具なのだ。恐れには恐れを欲には欲を。そして――千年、水と共にあった静けさには、千年ぶんの、静けさを。
石の環の中の水が輝きを増し、回り、回り、回り――
地の底で、水脈が開いた。
最初に気づいたのは、ザンだった。岩山の方で、太鼓のような胸の音が鳴る。次いで、泥の平原の亀裂という亀裂から水が噴き上がった。奪われた水が、地の底の道を逆に辿って帰ってきたのである。
水は路となり、流れとなり、月光を映して平原を走り、干からびた湖底を満たし始めた。
岸で見守っていた学者たちが、帽子を取って声もなく立ち尽くしていた。
千年前の村が、水鏡の下にゆっくりと還っていく。
今度は呑まれるのではない。眠りに還るのだ。
◇
祭具は、祭殿ごと主に託された。
水は既に平原を満たし始めている。だが、村と祭殿の周りだけはまだ乾いたままだった。
主が水を留めているのである。満ちてくる湖の水を見えない手で押し留めておくくらい、水鎮めの祭具と心を繋いだ千年の主には造作もないことらしい。人間たちの封印仕事が終わるまでと。
仕事が終われば主は自ら水を招き入れ、沈んだ祭殿の前に身を横たえ、番人として祠を抱いて眠るという。千年の主より確かな錠前は、この世のどこにもない。
それでも、と。
扉には、人間の側の錠も掛け直されることになった。
「千年前の手順錠は、組み直して使う。いい仕掛けは、時代を跨いでも、いい仕掛けだ」
リッツは扉の前で腕まくりをした。
「そこに、結界と錠の連動を編み込む。ギデオン式だ。力ずくで結界を割れば、錠が死んで、二度と開かなくなる」
「で、仕上げだ」
リッツは腰の袋から、手のひらほどの硝子と黒鉄の匣を取り出した。蓋を開けると、中の心地よい薄闇から薄絹を透かしたような小さな影がするりと滑り出た。
リッツの相棒、リラである。闇に棲み、声だけが実体の歌うシャドウシンガー。灯りの匣ごと、工房から連れてきていたらしい。
「歌入りの結界を編む。リラ、頼めるか」
小さな影がふるりと揺れて――歌が、始まった。
言葉のない細く澄んだ歌が、リッツの編む結界の糸に一節ずつ織り込まれていく。
テッサは目を丸くし、それから工具を握りしめたまま悶えた。
「何それ何それ!? 歌が、術式に編み込まれてる!? どういう機構!? ねえ、あとで絶対説明して!!」
二人と一体の作業は、夜通し続いた。
千年前の手順。百年前の連動。そして今の歌。三つの時代の技が、一枚の扉の上で編み上がっていく。
夜明け前、完成した扉の前でガルドがしみじみと言った。
「……なあ。百年後にはよ、あの扉、『リッツの掛けた開かずの扉』とか呼ばれてんだろうなあ」
「で、百年後の若い職人が、畏れ多くて開けたくねえ、とか言うんですかね」
「言う言う。ギデオンの錠の扱い、今そうだもんよ」
当のリッツは道具を仕舞いながら、鼻で笑った。
「当たり前だろう。俺たちは先人の肩の上で仕事してんだ。千年前より、百年前より、今の俺の方が上でなきゃ、先人に申し訳が立たねえ。……で、百年後の奴らは、俺の肩の上を行きゃあいい」
千年の主が錠の内を守り、三つの時代の技が錠の外を守る。
この扉が次に開く日を、リオは想像できなかった。
◇
数日後、クレールの町で祭りがあった。
水映しの祭り――というのが千年前の村の祭りの名だと知る者は、まだ学者とリオたちくらいである。町には形を変えた「灯り流し」の風習が細々と残っていて、今年は湖への感謝を込めて千年ぶんほど盛大にやることになったのだった。
日暮れの湖に、灯籠が流されていく。
水位の戻り始めた湖面に何百という灯りが映り、風のたびに揺れて星の海のようだった。
リオは、覆面を外した学生の顔で岸の人混みの中にいた。仕事は終わり、調査団は解散し、今日のリオはただの見物客である。
「――あっ! ねえ、そこの君!」
不意に聞き覚えのある声に捕まった。
振り向くと、りんご飴を持ったテッサが立っていた。つなぎではなく、町娘の格好をしている。一瞬、誰か分からなかった。
「君、学園の人だよね!? 廊下でドドがぶつかった! 隣のクラスの、いつも眠そうな!」
「……ああ、うん。その節は」
素顔で会うのは、あの廊下の十秒以来である。心臓に悪い偶然だった。
「奇遇だねえ! あ、そうだ、ねえ、調査団にいた覆面の人、見なかった? 背格好、君と同じくらいの」
「……覆面の人」
「そう! 約束したのに、いつの間にかいなくなってて! 今度、糸をゆっくり見せてもらうのと、あと素顔を見せてもらう約束!」
約束した覚えは、半分しかない。素顔の方は断ったはずである。
「……いや、見てないね」
「えー……。まあいいや、またどこかで会える気がするんだよね、あの人とは。勘だけど」
テッサの勘は、テッサの目と同じくらい性能が良いらしかった。
彼女はりんご飴を齧り、それから灯籠の湖を見てふと真顔になった。
「……綺麗だね。水が戻って、よかった」
「うん」
「あの覆面の人にも、見せたかったな」
見ています、とは言えなかった。
人混みを離れた岸の先で、リオは沖に目をやった。
灯りの届かない暗い水面に、島がひとつ静かに浮かんでいる。
糸を、細く長く撚った。今夜の一本は、挨拶のためのものだ。
――見えますか。灯り。
――……見えている。
千年の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
――あの夜も、こうだった。水の底から見上げる灯りは、空の星より、あたたかい。
――……リオ。世話になった。水は戻る。村は眠る。儂も、眠る。
――また、水を見に来い。
「はい。……おやすみなさい」
糸が静かに離れた。
島の影がゆっくりと沖へ滑り、灯りの映らない深みへ溶けるように消えていった。
次にあの背中が浮かぶ時、この湖はまた鏡のように満ちているのだろう。
◇
王都に戻った夜、事務所でグラントは報告書を最後までめくって、短く言った。
「装置、扉、水。三つとも守り切った。……上出来だ」
それから帳の主は別の帳面を開き、少しだけ苦い顔をした。
「シラード商会の件だがな。あの町じゃもう、恩人扱いだ。厄介なのはな……それが、本物の恩だってことだ。水は本物、塩も本物、頭の下げ方まで本物ときてる。本物の恩ってのは、帳消しにできねえ」
珍しく、歯切れの悪い総括だった。
それから帳の主は、帳面を一つ手元に引き寄せた。
「それとな。逃げた発掘屋の一味、装置の出どころ、例の空注文の筋、商会の動き。――ここから先は、うちの組織の仕事だ。窓口の網で、洗っておく」
「はい」
「お前は明日から、ちゃんと学生をやれ。……試験が近いんだろ」
「……なんで知ってるんですか」
「窓口を舐めるな」
窓口の帳簿の品目欄には、今回もグラントの几帳面な字が並んでいる。
『湖の水(満水) 返却一式』
湖をまるごと一つ返品した帳簿など王都中を探しても、うちにしかないだろう。
就寝中の熊から始まった、品目欄だけで仕事の全部が伝わる「飾りたくなる一枚」が、また増えた。
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