第22話 水映しの夜 〜千年の祭具と、湖の主〜(前編)
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干ばつのお話、決着の前編です。
月が満ちるまで、あと三日。
現場の空気は、張り詰めていた。
装置停止の段取りはテッサが組み上げ、祭殿の錠と結界の解析はリッツが最終盤に入り、ガルドは北の丘の偵察の明かりを二晩続けて数えている。
そんな昼、リオは補給の受け取り当番で、クレールの町へ降りることになった。
覆面は、外していく。
テッサをはじめ調査団は全員現場に張り付いており、町で会う心配はない。むしろ町中を覆面で歩く方が、よほど人目を引く。荷受けの帳面上も、今日のリオは「調査団の雑用の学生」である。素顔が、一番の変装だった。
そして、その素顔の昼に、リオは思いがけないものを見た。
町の広場が、賑わっていたのである。
水不足で沈んでいたはずの広場に、荷馬車が何台も停まり、樽が並び、人だかりができていた。荷馬車の幌には、商会の紋章。
――シラード商会。
リオの足が、一瞬だけ止まった。
「はーい、押さないで! 水はたっぷりありますからね! 一家に一樽、遠慮なく!」
商会の人夫たちが、水の樽を次々と降ろしていく。金を取る様子は、ない。無償である。樽の脇では、小麦の袋と塩の箱まで配られていた。
そして、人だかりの真ん中に、その人はいた。
歳のころ二十半ば。旅装でも仕立ての良さの分かる上着に、柔らかな物腰。老婆の桶を自分で運び、子供が落とした杓を礼服の膝をついて拾い、店主たちに深々と頭を下げられている。
エルム・シラード。
仮面の夜会で、名簿とシェラの解説越しに見た顔を、リオは忘れていなかった。悪い噂を誰も一つも知らない、感じのいい若当主。夜会の置き土産の小瓶と、同じ畑の根を持つ男。
向こうは、こちらを知らない。あの夜のリオは、覆面の給仕だった。
知らない、はずだった。
「――ああ、君。調査団の方ですか?」
気づけば、柔らかな声が、こちらに向いていた。
荷受けの帳面を抱えた学生服など、この町では目立つ。エルム・シラードは人だかりを縫って歩み寄り、屈託なく微笑んだ。
「湖の遺跡の。大変なお仕事でしょう。……ああ、申し遅れました。シラード商会のエルムと申します。水の御用の、ただの商人です」
「……リオです。調査団の、雑用です」
声が上ずらなかったのは、我ながら上出来だった。
「雑用が一番偉いんですよ、現場では」
エルムは笑い、樽を一つ、指で示した。
「調査団の分の水も、積ませましょう。泥の上のお仕事は、喉が渇く」
「……いいんですか。その、無償だと聞きましたけど」
「困っている方から、お代は取れません」
当たり前のことのように、彼は言った。
「商人がこういうことを言うと、皆さん裏を勘繰るのですけどね。裏なんて、大したものはないんです。困った時に助けてくれた店を、人は一生覚えている。……それだけの、気の長い商売ですよ」
嘘の徴が、どこにもなかった。
声の温度も、視線も、指の先も。ロベリア・ハスクの時と同じだ。この人たちは、嘘をつかない。
つかないまま、夜会に眠り花の香を焚く。
「では、良いお仕事を。……学生さんも、水を一杯どうぞ。冷たいですよ」
差し出された柄杓の水を、リオは飲んだ。
冷たくて、綺麗な、ただの水だった。それが、一番怖かった。
帰り道、荷馬車の御者が呑気に言った。
「いやあ、ありがたい商会さんだねえ。町じゃもう、シラード様々だよ」
「……そうですね」
三日で、町の心を買われた。
水と、塩と、頭を下げる若当主の膝で。
リオは、このことを夜のうちに文にして、グラント宛に飛ばした。返事は一行だった。
『会ったことは伏せておけ。向こうの帳面に、お前を載せるな』
もう、載ったかもしれない。
エルム・シラードは今日、調査団の雑用の学生「リオ」の顔を見て、名前を聞いた。それだけのことだ。それだけのことが、あの人たちの帳面では、どういう項目になるのか。
柄杓の水の冷たさが、夜になっても、喉の奥に残っていた。
◇
月が満ちる、前の夜。
装置停止の作戦が、動いた。
リオは覆面を着け、いつもの装備に戻っている。今夜のリオは学生ではなく、窓口の若いのである。隣にはつなぎの作業服のテッサと、背負い籠に工具を満載したドド。
「手筈、最後にもう一回」
テッサの声は、緊張で少し硬い。
「装置は止められない。止める術式ごと焼き付いてるから。だから――魔石を抜く。でも、いきなり抜いたら、行き場をなくした魔力が暴れて、多分あの一帯ごと吹き飛ぶ」
「だから、順番に痩せさせる」
「そう。魔石から術式に流れてる魔力の道は、見えてるだけで九本。それを、細いのから一本ずつ、結び目を潰して塞いでいく。全部塞いで、流れが糸みたいに細くなったところで――最後に、私が魔石を抜く」
魔力の流れが見える目にしか、できない手術である。
そして、その手術台は、千年の主の縄張りのど真ん中にあった。
水際で、リオは糸を撚った。ザンの契約は夕方のうちに一度返してある。今夜の一本は、主のためのものだ。
――今夜、約束の道具の医者を連れて行きます。
返事の地鳴りは、短かった。
――通れ。眷属には、道を開けさせる。
――……月が満ちる前に済んだな、リオ。人間にしては、早い。
「約束は、破らない主義なので」
――道具の医者とやらの顔を、儂にも見せておけ。
地鳴りの声に、リオは隣を目で示した。テッサは事情を知らないまま、島影の視線をなぜか感じ取ったらしく、「な、なんか見られてる。すごい見られてる気がする」と小声で背筋を伸ばしていた。
浅瀬に、道ができた。
装置を囲んで回り続けていた大魚の影が、二つに割れて、まっすぐな水路を空けたのである。月光の下、それは銀の道のように見えた。
リオが先に立ち、テッサとドドが続く。
「……ねえ」
水を渡りながら、テッサが小声で言った。
「この魚の道、あなたが頼んで開けてもらったんだよね。湖の主に」
「はい」
「あなたやっぱり、ただのテイマーじゃないでしょ」
「ただのテイマーです」
「ただのテイマーは、千年の主と約束とかしないんだよなあ……」
疑いの続きは、装置の前に着いた瞬間、仕事の顔に消えた。
◇
近くで見る装置は、悪意の形をしていた。
樽ほどの器に、焼き付いた術式の焦げ跡。赤黒く明滅する大魔石。台座の下では、今もごうごうと水が地の底へ吸われ続けている。
「……始める」
テッサはゴーグルを下ろし、細い工具を構えた。
そこからの半刻を、リオは生涯忘れないだろう。
テッサの指は、迷わなかった。見えない魔力の道を、見える者の正確さで、一本、また一本と塞いでいく。額に汗が浮かび、ドドが黙って工具を差し替え、装置の唸りが少しずつ、少しずつ、低くなっていく。
六本目で、一度だけ、危ない瞬間があった。
塞いだはずの結び目が、圧に負けて跳ねたのである。行き場を探した魔力が、隣の道へ荒れて流れ込み、装置の唸りが跳ね上がった。
「……っ、暴れないの!」
テッサは慌てなかった。ドドが差し出した太い工具に持ち替え、跳ねた流れの首根っこを押さえ込むように、結び目を二重に潰す。唸りが、また低くなった。
「……はー、びっくりした。水路と一緒だよ、水は塞ぐと隣で暴れるの」
言うことが、治水の民である。
「……八本。あと一本」
最後の一本は、一番太い道だった。
「これを塞いだら、五つ数えて、魔石を抜く。抜いたら走って離れる。……覆面くん、もし私が失敗して変な光り方を始めたら、私を担いで逃げて。ドドは重いから置いてく」
足元で、ドドが抗議のように腕を回した。
「置いてかない。二人とも担ぎます」
「……うん。頼もしいなあ、もう」
テッサは笑い、最後の結び目に、工具の先を差し込んだ。
装置の唸りが、消えた。
一。二。三。四。五――テッサの両手が大魔石の縁にかかり、渾身の力で、引き抜いた。
赤黒い明滅が、ふ、と絶えた。
台座の下の渦が、緩み、細り、そして――止まった。
千年の湖から水を盗み続けた水車は、道具の医者の手で、静かに息を引き取ったのである。
夜の湖に、波の音だけが戻った。
水面の向こう、中央の島影から、地鳴りに似た長い、長い息が届いた。安堵の形をした息だった。
「……止まった? 止まったよね? やった、止まっ――」
テッサが両腕を上げかけた、その時だった。
夜のしじまを裂いて、遠く、村の方角から、鋭い笛の音が三度、鳴り響いた。
警備の、非常笛である。
続けて、金属同士のぶつかる重い音が、風に乗って届いた。
――祭殿だ。
装置が囮で、本命は、あちら。
いや、あるいは両方が本命で、こちらの成功だけが、向こうの計算の外か。
「テッサさん、魔石を持って、岸へ! ザンのところへ走ってください!」
祭殿の前には、リッツがいる。今夜も遅くまで、扉の解析の詰めをやっていたはずだ。そして警備の陣にはガルド。……二人があの音の中にいる。
テッサと魔石は、ザンに任せるのが一番早い。あの岩のような若者の背中より安全な場所は、今この湖の岸にはない。
リオは覆面の位置を直し、村へ向かって駆け出した。
月明かりの泥の平原の先、千年の祭殿の前で、大剣と大ツルハシの火花が、二度、三度と散るのが見えた。
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